604年 – 35歳「煬帝即位」
590年代に皇太子に
文帝は長男である楊勇を次期皇帝として立てることを当初予定していましたが、楊勇の女遊びに頭を悩ませていました。楊広はそのことをうまく利用して兄・楊勇の派手な生活を文帝に誇張して伝え、皇太子として自分を立てるように仕向けるのです。
実際は楊広も女性関係に関しては奔放な行動をしていましたが、両親の前では質素な生活を心がけるように見せかけていました。それを信じた文帝は皇太子として楊広を選ぶようになり、次期皇帝として扱うようになったのです。
文帝が崩御し、次期皇帝として煬帝が実権を握る
7世紀の初めに文帝が病床に伏すようになると、楊広が次期皇帝としての役割を果たせるように準備を進めていきます。そのさなかに楊広の派手な生活を知った文帝は、騙されていたことを悟り、激怒しました。しかし、楊広を皇太子から降ろす前に崩御してしまうのです。
文帝が亡くなると、晴れて皇帝となった楊広は「煬帝」として即位することになりました。即位後は皇帝の座を取られることを警戒して、兄の楊勇を殺害し、皇帝の地位を狙った弟の楊諒の反乱も鎮めることに成功します。
607年 – 38歳「遣隋使の受け入れ」
遣隋使・小野妹子の差し出した国書に激怒
遣隋使は隋の時代に3回から5回ほど行われたとされています。607年には第2回遣隋使として小野妹子が国書を携えて煬帝の元へやってきましたが、その手紙の内容に立腹しました。国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、煬帝は「このような無礼な手紙は一生自分に見せるな」と激怒したそうです。
その後、小野妹子は返書を受け取って日本へと帰ることになりますが、その重要な文書を帰国途中の百済で盗まれてしまうのでした。実際には煬帝の返書の内容が日本を卑下するような文言であったために破棄したのではないかとも言われています。
遣隋使の再訪
608年には第三回遣隋使の派遣が行われ、再び小野妹子が隋を訪れました。第3回は日本からの留学生を多く引き連れ、隋の文化を学ばせるために留めることになります。この留学生はのちに日本の改革に重要な役割を果たすようになるのでした。
遣隋使では大陸の文化や制度を学ぶ良い機会となりましたが、614年に最後の遣隋使が行われ、それ以降は中止となっています。
610年 – 41歳「京杭大運河の完成」
北京と杭州を結ぶ京杭大運河の完成
京杭大運河は北京から杭州までを結ぶ2500kmにも及ぶ大運河で、中国全体の流通を活性化させた重要な水路です。西晋の滅亡以降、南朝と北朝がなかなか相容れない原因はその間に小さな河川が多数存在することであると結論づけた隋の建国者・文帝が、北と南を結ぶ大運河の建設を計画します。
587年に淮水と長江を結ぶところから工事に着手し、604年に煬帝が隋の皇帝として即位してからも積極的に建設が進められていきました。要所の工事の際には100万人もの人々が駆り出され、急ピッチで建設が進行していきます。そして、ついに610年に23年の歳月をかけて大運河が完成したのでした。
612年 – 43歳「高句麗遠征」
大軍を率いて高句麗を攻めるも、食糧不足により敗北
高句麗遠征は隋の時代に4回行われています。第1回は文帝が30万の大軍で高句麗へと進行しましたが、天候に恵まれず、伝染病や食糧不足も重なったために戦果をあげることができませんでした。
第2回から第4回は612年から614年の間に立て続けに行われ、煬帝が指揮を取りました。
その初回である第2回高句麗遠征では60万人の大軍を率いていったため、当時の高句麗の将軍も観念しようとしましたが、煬帝率いる軍隊が食糧不足に悩まされていることを知ると、戦争を長引かせ、相手の食料を焼き払う作戦(焦土作戦)に変更します。煬帝率いる軍隊は食料が底をつき、疲労困憊となったために撤退せざるを得なくなり、第2回高句麗遠征は失敗に終わります。
第3回遠征は、途中で隋内の内乱が発生し、撤退を余儀なくされます。第4回遠征では隋も高句麗も度重なる戦争で消耗していたため、両方のトップが会見をし、和議を結ぶこととなりました。
618年 – 49歳「煬帝の死去・死因は家臣による絞首」
最期は家臣によって絞首される
高句麗遠征終了後、隋内では反乱が絶えず、その度に煬帝は部下に褒賞を与えることを引き換えに鎮圧へと向かわせていました。しかし、鎮圧が成し遂げられても、十分な報酬を受け取ることのできなかった家臣たちの間では不満が募っていきます。その中で各地方の強力な軍閥が力をつけていったために煬帝は江都へ身をひそめるようになるのでした。
618年、煬帝は、のちに皇帝となる家臣の宇文化及により長安へと戻るように諭されますが、これを拒否します。そのため、宇文化及、宇文智及をはじめとする家臣らによって、真綿で絞首させられることになり、そのまま生涯を閉じることになったのでした。
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隋の煬帝
隋を建国した父・文帝を殺害し、即位したとされる隋の第2代皇帝・煬帝。中国史上もっとも悪名高い人物の生涯を解説しながら、隋の時代の考察も行っています。中国史を研究し続けた著者が迫った煬帝の素顔とはいかに。
煬帝
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隋が建国されてから煬帝が皇帝として実権を握り、数々の悪政を行っていく様を全62話に渡って詳細に描いています。大運河建設や高句麗遠征の様子、そして最後には隋の世が乱れていき滅亡していく過程がありありと表現されています。
煬帝についてのまとめ
煬帝は暴君として中国史に名を刻んでいますが、遣隋使として関係を持ったことから日本にも馴染みの深い人物となっています。皇帝に成り上がるために兄弟を殺したり、激怒して部下を釜茹でにしたり、現在ではとても考えられないような鬼の所業をしましたが、それだけのインパクトがあるからこそ現代にも語り継がれているのかもしれません。
悪者として扱われることの多い煬帝ですが、大運河の建設、遣隋使の受け入れなどはのちの中国にも大きな影響を及ぼしています。最期は家臣に首を締められて亡くなってしまいますが、煬帝の業績は消えることなく、これからも継承されていくのではないでしょうか。
今回は煬帝についてご紹介しました。今回の記事を参考にさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。