田中義一にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「嘘から出た誠?田中上奏文」
田中上奏文とは1927年7月25日に田中が昭和天皇に上奏したとされる報告書です。日本が世界征服を達成するには中国、満州を征服する必要があると書かれており、東方会議後に中国で流布されました。
こちらはその中国、満州を征服する必要があると主張した文章です。
支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先ず支那を征服せざるべからず。
1922年に死去した山縣有朋が登場する等の誤りも多く、日本では偽物とされていました。中国も偽物と判断していたものの、1931年に満州事変が起こり、事態は一変。田中上奏文と同じ事が起きたからです。
田中上奏文は中国の反日活動の材料にされ、国際連盟で日本糾弾の材料にされた他、東京裁判にも影響を与えました。中国では未だに田中上奏文を本物と考える人が多いのです。誰が文章を作成したのかは謎のままです。
都市伝説・武勇伝2「自殺?腹上死?様々な憶測が持たれる死因」
田中が総理大臣を辞したのは1929年7月2日。狭心症の既往があった上、国の元首たる昭和天皇に叱責されたのは堪えました。田中は9月28日に貴族院議員当選祝賀会に参加するものの、元気はありませんでした。
翌日の29日の午前6時に田中は突然死去。死因は一般的には急性狭心症と言われます。前日に主治医に田中から「健康診断に来て欲しい」と連絡もありました。
田中は第二夫人のいる別邸で亡くなった為、「腹上死=行為に及んでいる時に亡くなった」等の噂が流れました。その他、松本清張は政治家夫人からの情報として「切腹自殺説」を挙げています。
田中の周囲には不名誉な噂がつきまといます。天皇の叱責後の様子から分かるように、彼も国の為に責務を果たしていたのです。
田中義一の簡単年表
田中義一は長門国萩城下町で誕生。生家の近くには高杉晋作の生家や木戸孝允の旧邸がある等、数々の偉人を輩出した地域でした。
教員や町役場の職員を経て1883年に陸軍士官学校に入学。更に陸軍大学校に進学します。卒業後は日清戦争に従軍しました。
日清戦争後はロシアの内情を調べる為に留学を命じられます。風土に溶け込み、軍事から文化までロシアについて学びました。
帰国後は強硬な開戦論を主張。内地の情報が重用され児玉源太郎のもとで参謀として活躍しました。
日露戦争後に書いた随感雑録が山縣有朋に認められ、様々な役職を歴任します。
原敬内閣で陸軍大臣に就任。シベリア出兵や尼港事件の対応に追われる中、1921年には心労で大臣を辞任します。
軍人を辞めて政界に転身し、政友会総裁となりました。1927年に総理大臣となり、田中外交を推し進めました。
1928年に張作霖爆殺事件が勃発。首謀者の河本大作に対して穏便な対応をした事で昭和天皇に叱責されます。総理大臣を辞職したわずか3ヶ月後に死去しました。
田中義一の年表
1864年 – 0歳「田中義一誕生」
田中義一の父親は大男
1864年6月22日に田中義一は田中信祐と美世の三男として誕生。信祐は色白の美男子でありながら186cmの大男で、藩主毛利忠正に士分として取り立てられた人物です。幼少期の田中は腕白な少年として育ちました。
1876年 – 13歳「萩の乱に参加する」
萩の乱で処刑されかける
義一は13歳の頃に新堀小学校の教員となります。維新後に隆盛を極めた長州藩出身者ですが、下級武士の多くは貧困な生活を送っていました。
1876年に田中は前原一誠の起こした萩の乱に参加。乱は元騎兵隊の三浦梧楼らにより鎮圧されます。田中は年少者の為に罪を許されました。
罪は赦されたものの政府に歯向かった事は変わりません。前途の見えない田中は独学の為、松山や長崎等を転々とします。
1883年 – 19歳「陸軍士官学校に進学」
熱心に学業に取り組む
やがて田中は陸軍教導団に入団。これは下士を育成する兵団で、成績優良者は陸軍士官学校に入学出来ました。田中は優秀な成績を収め、陸軍士官学校に進学します。
陸軍士官学校の校長は萩の乱を鎮圧させた三浦梧楼です。その出会いから田中は晴れて長州藩の藩閥の一員となりました。1886年に陸軍士官学校を卒業後、陸軍大学校に進学します。
1894年 – 30歳「日清戦争に従軍」
日清戦争勃発
1894年に日清戦争が勃発し、田中は陸軍第2軍に従軍し第一師団参謀となります。参謀として才能を発揮し、従軍中に作成した第1師団動員計画が高い評価を得ています。
1898年 – 34歳「ロシアに留学する」
ロシアの内情を探る
日清戦争で日本は遼東半島を手に入れるものの、三国干渉により半島を返還。日本はロシアを仮想敵国と定めたのでした。田中は1898年にロシアの内情をさぐる為、留学を命じられます。
ちなみに田中のロシアでの通名はギイチ・ノブスケビッチ・タナカです。
強硬な開戦論を主張
開戦派の山縣有朋と不戦派の伊藤博文による攻防が続く中、田中は1902年に帰国。田中はロシアの内情を知り尽くしており、開戦論を主張します。
この主張により伊藤博文から嫌われた為、ロシア革命に身を投じる事も考えましたが、ロシア通が買われ田中は大本営参謀本部に召喚されました。
1904年 – 40歳「日露戦争」
児玉源太郎のサポートに回る
日露戦争では満州軍総参謀長の児玉源太郎のもとで働きます。戦争の最中、銃殺寸前の張作霖を児玉の指示を受け、助命の伝令を出しています。
山縣有朋から期待される
田中が注目を集めるのは1906年に提出した随感雑録です。日本の国防戦略についてまとめたもので、山縣が高く評価しました。1907年には列強に対抗する為の指針である帝国国防方針の起草を任されます。
5月には参謀でありながら歩兵連隊長に就任。田中はロシアの士官と兵卒の階級格差が連携を欠いていた事を見抜き、日本軍も二の足を踏まないよう、自ら兵卒に歩み寄る姿勢を見せたのです。