1918年 – 54歳「原敬内閣の陸軍大臣に就任」
軍事課長に昇進
1909年には軍事課長に昇進。様々な改革を行い、軍の組織化に抜群の手腕を発揮します。
- 1910年 退役軍人による在郷軍人会の結成
- 1915年 陸軍内に新聞班を設置
- 1917年 大日本連合青年団の理事となる
- 1917年 シベリア出兵の断行 等
原敬内閣の陸軍大臣に就任
1918年に政友会総裁の原敬内閣の陸軍大臣に就任。田中は男爵に叙され、陸軍大将に任命。
1920年3月にはニコラエフスクで赤軍パルチザンにより村民6000人が虐殺される事件が発生(尼港事件)。在留邦人や陸軍700人以上が犠牲となり、田中の責任が問われました。
更に西原借款問題(中国の段祺瑞による借金の踏み倒し)が議会で非難を浴びます。心労により1921年6月に田中は狭心症で倒れ、陸軍大臣を辞任しました。
1921年 – 57歳「原敬の暗殺」
原敬暗殺事件
田中が療養中、国内外で3つの重要な事が起こります。1つ目は1921年11月に起きた原敬暗殺事件。原不在の政友会は対立が起こり、1924年には政友会と政友本党に分裂します。
山縣有朋死去
2つ目は1922年2月には長州閥の重鎮山縣有朋が死去した事です。長州閥を担っていた桂太郎や寺内正毅もその前に死去していた為、田中が新たな長州閥のリーダーとみなされました。
ワシントン体制の確立
1922年2月にはワシントン海軍軍縮会議が開かれ、以下の2点が決まります。
- 日本の満州の権益を認める
- 中国への内政不干渉と列国との協調を図る
全権は幣原喜重郎であり、以降ワシントン体制を厳守した外交を幣原外交と呼びました。
1925年 – 61歳「政友会総裁となる」
政友会総裁を打診される
元帥は確実と言われた田中ですが、1925年4月にポストの空いた政友会総裁の座に推薦されました。田中は自らのビジョンを達成する為、陸軍を退役し政治家に転身します。
当初政友会では軍部大臣を文官が行う構想がありましたが、田中はそれを否定。更に数人の人材を政友会に入党させます。
- 鈴木喜三郎(自由主義を敵対する司法官僚で鳩山一郎の義兄)
- 久原房之助(長州閥と関わりの深い政商)等
自由主義を謳う政友会は田中の総裁就任を経て親軍的、保守的な政党に変わっていくのです。
若槻禮次郎内閣の倒閣
1926年以降は憲政会の若槻禮次郎内閣が発足し、ワシントン体制に則った幣原外交を展開しました。
1927年の南京事件では日本人が現地で多数殺害されているものの、中国に対して抗議に留めた為、国内から批判の声が高まりました。政友会は幣原外交とは異なる武力による外交を説き、支持を集めます。
幣原外交については、以下の記事で触れているので、是非読んでみてください。
幣原喜重郎とは何をした人?内閣時代の外交や評価、名言、子孫も紹介
1927年 – 63歳「田中内閣発足」
若槻禮次郎内閣退陣
1927年昭和金融恐慌が発生した際、若槻内閣は枢密院と対立し処理に失敗し退陣。幣原外交への当てつけの意味もありました。
田中内閣は昭和金融恐慌の処理と積極外交を掲げて発足。昭和緊急恐慌を早々に終結させ国民の支持を得ると「田中義一内閣の政策」に挙げた政策を断行しました。
森恪による対外政策
田中は外務大臣を兼任するものの、実質的には森恪外務次官が田中外交を取り仕切りました。ある程度外交は妥協すべきと考える田中に対し、森は相当強気に山東出兵や東方会議を断行。1929年4月に罷免されます。
戦争は陸軍の暴走と思われますが、軍人以上に強硬的な政治家がいた事も覚えておきましょう。
1929年 – 65歳「総理大臣を辞職する」
総理大臣を辞職する
田中は張作霖爆殺事件の対応をめぐり1929年7月に内閣総理大臣を辞職。3ヶ月後に死去した事は前述した通りです。田中の死は様々な影響を与えました。
政友会のその後
田中死去後の政友会は鈴木喜三郎や森恪等の保守派が実権を握るようになりました。後に統帥権干犯問題等の問題を引き起こし、陸軍が暴走するきっかけを作ります。
長州閥の終焉
張作霖爆殺事件の首謀者河本大作は長州閥に属さない若手閣僚でした。田中の死は長州閥の終焉を意味しており、永田鉄山等の若手閣僚が台頭する事になり、1931年の満州事変へと繋がります。
軽い処分で済んだ河本大作は、その後南満州鉄道の理事等の要職に就きました。厳罰を与える事が出来なかった事で、後の五・一五事件等のテロ事件を助長させたのです。
「昭和天皇の思い」
田中の死がもたらしたもの
田中の死が最も大きな影響を与えたのは、おそらく昭和天皇でした。自らの発言が総理大臣を辞任に追い込み、死因にも繋がった可能性もあった為です。昭和天皇は
私の若気の至りであった
この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した
と述べています。日本は戦争の道へと突き進むものの、昭和天皇は閣議決定を拒否する事はなくなります。歴史にifはありませんが、「昭和天皇があの閣議決定を拒否してくれたら」という場面が多いのも事実です。
田中の政策、そして死は様々な影響を与えたのです。
田中義一の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
田中義一―総力戦国家の先導者
田中義一の生涯、政策を詳しく考察した本です。田中はただの開戦論者ではなく、日本を大陸国家にする為に一連の政策を掲げました。田中の認識を改めるには良い本です。
日中歴史認識―「田中上奏文」をめぐる相剋 1927‐2010
日中の対立を田中上奏文から考察する本です。田中上奏文の出所や広がる過程にも緻密な考察がされており、田中の名誉の為にも読む事を勧めます。
池上彰と学ぶ日本の総理 第23号 若槻礼次郎/田中義一/浜口雄幸 (小学館ウィークリーブック)
池上彰の総理大臣紹介シリーズ。田中義一の政策や当時の世界情勢等が分かります。政友会や憲政会、民政党等の政党政治への理解も深まります。
関連外部リンク
田中義一についてのまとめ
今回は田中義一の生涯について紹介しました。萩の乱への参加というハンディを背負いながら、総理大臣まで登り詰めた田中は努力の人でした。
政友会の変質、田中外交の影響、そして田中の死による昭和天皇の気持ちの変化。田中は近現代史を語る上で良くも悪くも欠かせない存在です。今回の記事を通じて田中に興味を持っていただけたら幸いです。