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中江兆民とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や思想、意外なエピソードや自由民権運動の主導についても紹介】

中江兆民はルソーの「社会契約論」を翻訳したことで有名な人物です。1880年代に激化した自由民権運動の主導者としても活躍しました。元は足軽の出身ですが、廃藩置県以降、身分制度が撤廃されると、岩倉使節団の出仕として採用されるなど非常に優秀な人物としても知られています。

東京外国語学校の校長を務めたり、元老院で働いたり、事業を展開したり、その生涯において幅広い活動を成していきます。1890年には第一回衆議院議員選挙に出馬し、見事にトップ当選を勝ち取ることにもなるのでした。

中江兆民

晩年に癌の宣告をされてからは病床で「一年有半」という随筆集を執筆し、大ベストセラーを記録しました。その書物は兆民の思想を存分に反映しているということで現代でも高く評価されているのです。

多才な人物でありながら、実は数々の奇行エピソードをもつ中江兆民に興味の湧いた筆者が、彼に関する多数の文献を読み漁った結果得た知識を元に、中江兆民の生涯、功績、意外なエピソードについてご紹介していきます。

中江兆民とはどんな人物か

名前中江兆民
誕生日1847年12月8日
没日1901年12月13日
生地土佐藩高知城下山田町(現・高知県高知市はりまや町)
没地東京市小石川区武島町
配偶者鹿(1879-1880)、ちの(1885-)
埋葬場所東京都港区 青山墓地

中江兆民の生涯をハイライト

若い頃の兆民

中江兆民の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 高知城下の足軽の家系に生まれる
  • 父の死去後、家督を相続し、足軽の身分に
  • 土佐藩の藩校・文武館にて外国語を主として勉強に励む
  • 兵庫開港と同時に上方に赴き、フランス外交団の通訳を務める
  • 岩倉使節団に司法省9等出仕として採用
  • 東京外国語学校校長→元老院権少書記官→国憲取締局と転職
  • 1881年に東洋自由新聞を刊行し、言論により自由民権運動を主導
  • 1890年第一回衆議院議員総選挙に出馬し、1位で当選を果たす
  • 政府予算案を巡って裏切りが発覚し、それに激怒した兆民は議員を辞職
  • 北海道にて様々な事業を展開するが、うまくいかず
  • 喉頭癌と診断され、余命1年半を言い渡される、これをきっかけに「一年有半」を執筆し、ベストセラーとなる
  • 喉頭癌(のちに食道癌と判明)にて1901年12月、永眠

中江兆民の性格や家族構成は?

中江兆民は奇行が多かったという逸話がいくつかの文献に掲載されており、破天荒な性格だったことが知られています。あまり一つの仕事にこだわらずに、自分に合わないと感じたらすぐに辞職し、様々な職業を経験していることから、自分の我を通す性格や、他人の視線を気にせずに自分のやりたいことをとことん突き詰める性格でもあったことが伺えます。

足軽

中江兆民の家系は18世紀から代々足軽として仕えてきました。父・元助もその後を継いで足軽として生計を立てています。母の柳は土佐藩士の娘で、父・元助との間に兆民と虎馬の二人の兄弟をもうけました。

兆民自身は1879年に鹿と結婚しましたが、わずか1年で離婚、その後1885年にちのと結婚し1男1女をもうけています。

中江兆民の主導した自由民権運動とは?

自由民権運動

自由民権運動は1874年に始まった政治運動で、民選議院設立の建白書の提出を契機に広まっていったとされています。主な活動としては言論の自由、集会の自由を訴える運動や憲法制定、議会開設を呼びかける活動、地租の軽減、不平等条約改正の阻止を求める活動が行われました。

民選議院設立の建白書

兆民は思想の普及という面から自由民権運動に参加し、民衆の動きに大きな影響を与えました。具体的には東洋自由新聞を刊行し、自らの思想をつづったり、ルソーの「社会契約論」を漢訳して出版し、フランスの共和主義の思想を紹介したりします。明治政府を批判するような文章を書き上げ、民権思想の普及に務めたのでした。

中江兆民とルソーの繋がりは?中江が「東洋のルソー」と呼ばれた理由

ジャン=ジャック・ルソー

中江兆民は1847年生まれ、ルソーは1778年に死没のため、二人が直接関わるということはありませんでしたが、兆民はその思想に多大な影響を受けたのでした。兆民がフランス語の専門であったということから、ルソーの「社会契約論」を読んで解釈することができ、ちょうど白熱してきた日本の自由民権運動と相まって、兆民が今後の日本において手本とすべき思想だと感じたのです。

社会契約論では「国家は全ての人間の自由と平等を保障する仕組みでなければならない」と唱えられ、「共和国」の樹立を促しています。兆民は「社会契約論」を漢訳して出版することで、この思想を自由民権運動のさなかの世間へと広め、時の明治政府を批判する材料としたのです。「社会契約論」を翻訳したことをきっかけに兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになりました。

中江兆民の功績

功績1「フランス流の自由民権論を唱え、自由民権運動の主導者に」

フランス 国旗

兆民は幼少期からフランス語を学び、フランス外交団の通訳として働いていた経験もあるため、フランスの思想や文化に親しみがありました。1874年に始まり、1880年代に激化した自由民権運動ではフランス流の自由民権論を唱え、言論により自由民権運動の主導者として活動します。

フランス流の自由民権論とは政治が全ての人間の自由と平等を保障することを是とし、党派政治や政治家による抑圧を排した「共和国」の成立を促す言論のことです。明治政府は天皇を頂点に置き、人民を直接統治するという考えであったため、兆民はこれを批判し、「東洋自由新聞」にて自らの思想を普及して社会を動かすことに務めたのでした。

功績2「ルソーの『社会契約論』を漢語訳」

民約訳解 一部抜粋

兆民の思想はジャン=ジャック・ルソーの社会契約論に大きく影響を受けており、1882年には社会契約論の漢語訳である「民約訳解」を刊行します。これが民衆に広まるとさらに自由民権運動の動きを活発にさせました。

兆民は社会契約論の第2巻第6章までを翻訳し、自分なりの注解も付け加えたため、その方面に知識のない人でも読みやすいような構成で執筆されました。この翻訳により、兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになるのです。

功績3「第一回衆議院議員選挙トップ当選」

1889年に大日本帝国憲法が発布されると、自由民権派もこの内容を高く評価したため、自由民権運動は次第に収束していきます。翌1890年には第一回衆議院議員総選挙が開かれ、兆民も大阪4区から出馬することになりました。

穢多の生活の様子

大阪4区はかつて賤民や穢多など、身分差別を受けていた人が多く住んでいる被差別部落であり、兆民はわざわざ本籍をその地に移して選挙に臨みました。その際の宣伝文句が「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」というもので、これが被差別部落の住民からの支持を集めるきっかけとなり、選挙でトップ当選を果たすことになるのです。

中江兆民の名言

「自由はとるべきものなり、もらうべき品にあらず。」

兆民の生きた時代は民衆が次々に新たな自由を獲得しました。自由民権運動もその一つで、国民を主とした憲法の改正や地租の軽減、言論・集会の自由などを訴えたのです。最終的に少しずつ自由を勝ち取ることになりますが、何も行動しなければ得られていなかった自由かもしれません。

「君主も人間、われわれも人間、同じ人間でありながら、自分の特権によって生きることができず、ひとのおかげで初めて生きるというのは、実に恥ずかしいことではないでしょうか。」

兆民の言葉は明治の時代に人々が権利を求めて活動したことを示唆するような文言が多くなっています。この言葉も、政府のいいなりではなく、自らの意思によって生きるための自由が大切だということを訴えているのでしょう。

「民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ。」

自分たちの活動について巧妙な例えを用いて表現した言葉です。民主とは国民を主体とした政治のことであり、王の頭に釘を打つとは世の中を収めている天皇や政府を打ちのめすということを暗示しています。民主主義を勝ち取るために時の権力者たちと戦おうということを意味しているのでしょう。

中江兆民にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「芸者と乱痴気騒ぎをするような破天荒っぷり」

酒盛りの場 イメージ

中江兆民は奇行エピソードが数多く残っていますが、特に芸者との関わりで大っぴらな行動をとったようです。芸者と心ゆくまで遊んだ後に、兆民が下半身を屋外に向けて露出したり、お金をばら撒いて芸者たちにあげてしまったりというような破天荒な所業を頻繁に行いました。

この時代は男が酔って裸踊りをするのは日常茶飯事で、さほど驚くようなことではないのですが、兆民も例外ではなく、酒の席でよく裸になって、股間を一芸に用いることが多かったようです。縁談の際にも同様のことを繰り広げ、結局破綻してしまう事態も発生しました。

都市伝説・武勇伝2「幸徳秋水の秋水という名前はもともと中江兆民のもの」

幸徳秋水

中江兆民は本名が篤介ですが、兆民の名前の方が広く知れ渡っています。一方で、「秋水」という名前も使っていたことを知る方は少ないのではないでしょうか。「秋水」といえば、「幸徳秋水」が有名ですが、実は幸徳秋水は中江兆民が師匠であり、その名前を兆民から授かったのです。

兆民に師事していた幸徳秋水はその才能を認められ、兆民から「秋水」という名前を譲り受けました。兆民と幸徳秋水は生涯にわたって親交を持ち、兆民は演劇会で披露する芝居の演目構成を秋水に依頼したこともあります。さらに、幸徳秋水は兆民が亡くなった後に「兆民先生」という書籍を発表しました。

都市伝説・武勇伝3「国会へ登院する際、真っ赤なトルコ帽をかぶっていた」

トルコ帽

兆民の破天荒エピソードは際限がなく、変わった行動は調べてみるといくつも出てきます。衆議院議員となって国会へ登院する際に、悪目立ちする真っ赤なトルコ帽をかぶって登場したというエピソードがあります。また、同じく国会に登院する際に「火の用心」と書かれたタバコ入れを持参していたという話も残されていました。

国会という公の場に姿を見せる時ですら一風変わった行動をする兆民は、日常生活においてはその上をいく逸話が残っているのではないかと非常に興味をそそられますよね。

中江兆民の簡単年表

1847年 - 0歳
中江兆民の誕生

1847年12月8日、高知城下の高知県山田町(現在の高知市はりまや町)に中江兆民が誕生します。父は土佐藩足軽の元助、母は土佐藩士の娘・柳でした。

1861年 - 14歳
父親の死去とともに足軽の身分を継ぐ

1861年2月に父・元助が亡くなり、兆民が家督を相続することになります。足軽の身分を引き継ぎ、家計を支えるようになったのでした。

1862年 - 15歳
文武館に入門

藩校として開校した文武館に入門することになり、外国語などを学びます。当時の講師には細川潤次郎(幕末の土佐藩藩士・教育者)や萩原三圭(明治天皇の内親王の御典医)などがいました。外国語を学んだことにより、3年後には留学生として長崎へ向かうことになります。

1867年 - 20歳
フランス外交団の通訳に

その後も外国語の勉強を継続し、幕府の語学所でフランス語を学ぶと、兵庫の開港と同時にフランス外交団の通訳を努めるようになります。

1871年 - 24歳
岩倉使節団に出仕として採用される

フランス外交団の通訳を勤めた後は、江戸へ戻って学問を続けるようになります。自身もフランス語を教える機会を得ますが、長続きはしませんでした。1871年に岩倉使節団を派遣することを政府が決定すると、兆民は自ら大久保利通に採用を迫り、司法省9等出仕として使節団に仕えることが決まったのです。使節団として赴いたフランスでは西園寺公望とも会見しました。

1874年 - 27歳
その時何が起きたか簡単に一言で書く
フランスから帰国すると、家塾の仏蘭西学舎を設立します。語学や思想史、漢学を主な教科として講義を行うこととなりました。この頃にはルソーの「社会契約論」の部分訳「民約論」の編集に関与しています。

1875年 - 28歳
東京外国語学校の校長に任命される、すぐに辞職

1875年に東京外国語学校の校長に就任しますが、兆民と文部省の間で教育方針の相違が生じ、自らの意見を押し通せなかった兆民は辞職を申し出ます。その後は井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を担当するようになりました。

1879年 - 32歳
高知県士族の娘・鹿と結婚も、一年で離婚

縁談を断り続けていましたが、1879年に高知県士族の娘・鹿と結婚することになります。しかし、結婚生活は長続きせず、約一年程で離婚してしまうのでした。

1881年 - 34歳
東洋自由新聞の創刊

1881年3月18日、山城屋の稲田政吉を社長として東洋最初の日刊紙「東洋自由新聞」を刊行しました。自由民権運動の最中、自由党の結党準備において機関紙発行が否決されたため、兆民とともに西園寺公望、光妙寺三郎らのフランス派知識人と山際七司ら民権派が合体して創刊されます。

自由民権とフランス流急進自由主義を主張し、政府を攻撃するような民権思想の普及を促し、2000部を印刷するようになりました。しかし、政府からの弾圧を受け、4月30日にあえなく廃刊となってしまいます。

1882年 - 35歳
ルソーの「社会契約論」の漢文訳「民約訳解」を刊行

兆民は1882年にジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」の漢文訳「民約訳解」を刊行し、「東洋のルソー」と呼ばれるようになります。ルソーとフランスの共和主義の思想を紹介し、自由民権運動に多大な影響を与えました。

1885年 - 38歳
ちのと再婚、大同団結運動に参加

鹿と離婚後は独身を貫いていましたが、長野県から出てきた、ちのと言う女性と再婚することになります。同年、条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加しました。

1890年 - 43歳
第1回衆議院議員総選挙に出馬

兆民は1890年に本籍を大阪の被差別部落へと移し、第1回衆議院議員総選挙に出馬します。「余は新平民にして、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」と自らを称して選挙活動を行い、被差別部落民の多大な支持を得ることでトップ当選を果たすことになりました。

1890年 - 43歳
立憲自由党を結党するも、辞職

兆民は衆議院議員としての活動を開始すると、民党結成のために尽力します。1890年に立憲自由党が結成され、「立憲自由新聞」により自身の意見を述べる場を与えられましたが、政府予算案を決めるときに、仲間内で裏切りのあったことが発覚したため、兆民は辞職することを決意するのでした。

1891年 - 44歳
北海道で実業家として活動

議員を辞職すると、北海道の小樽へと移り、実業家としての活動を始めます。同年には小樽初の新聞「北門新報」を創刊し、札幌へと進出させるまでに成長させました。

1893年には札幌で「高知屋」、材木業を営む「北海道山林組」も創立します。1894年には常野鉄道、毛武鉄道を開通するために奔走しました。1897年には中野清潔会社を設立するなど、多くの事業を展開しますが、いずれも実績は芳しくなく、あまり成功しなかったと言われています。

1898年 - 51歳
国民党を結成して政界復帰を目論む

様々な事業を手がけるも、成功しなかったため、1898年12月に国民党を結成し、政界復帰を目論むようになります。

1901年 - 54歳
喉頭癌の宣告を受け、「一年有半」の執筆を行う

議員としての復帰を目指して活動を行っていましたが、1901年に喉に違和感を覚えたため、病院を受診すると、喉頭癌の宣告を受けることになります。余命一年半と言い渡され、その胸中を執筆した随筆集「一年有半」を出版します。その後、続編の「続一年有半」も刊行し、どちらも大ベストセラーとなるのでした。

1901年 - 54歳
中江兆民死去・死因は喉頭癌(のちに食道癌と判明)

政治活動を積極的に行っていましたが、喉頭癌が判明したため、東京市小石川区にある自宅にて療養する日々を過ごします。1901年12月13日、癌の進行により帰らぬ人となるのでした。死因はのちに食道癌であったことが判明しています。

中江兆民の年表

1847年 – 0歳「高知県にて中江兆民誕生」

はりまや橋

高知城下に中江兆民誕生

1847年12月8日、高知城下の山田町(現在の高知県高知市はりまや町)にて中江兆民が誕生します。本名は篤介で、幼名は竹馬を名乗っていました。兆民は本名ではなく号であり、「億兆の民」を意味しています。

中江家は1766年に郷土株を入手してから足軽としての身分を与えられ、その家系をついで、父・元助は足軽として仕えていました。母は土佐藩士の娘で名前を柳と言い、二人の間には兆民の他に、弟の虎馬がいたそうです。

1861年 – 14歳「父・元助の死により、家督を継いで足軽に」

足軽

父・元助の死去、足軽を継ぐ

1861年に父・元助が亡くなると、代々の継承に則って、兆民が足軽として使えることになります。一家の柱として家計を支えるようになるのでした。

そのかたわらで、勉学の重要性にも気づいており、1882年に藩校として文武館が開校すると、すぐに入門を申し出、土佐藩藩士や医師らの元で勉強に励むようになるのでした。主に外国語を熱心に学んでいたため、1885年には留学生として長崎へ出向くことになります。この地では土佐藩出身の先輩である坂本龍馬と邂逅したというエピソードも残っています。

フランス外交団の通訳に

長崎への留学を終えてからは幕府の語学所でフランス語を学ぶようになります。その後も多言語習得のため各地の学問所などで勉強に励んでいましたが、1867年に兵庫が開港されるという情報を得ると、職を得るために兵庫へと移動します。

フランス語を勉強してきた経験を生かしてフランス外交団の通訳としての職を手に入れ、その際にフランスの文化や政治などの知識も得るようになりました。

1871年 – 24歳「岩倉使節団の出仕として採用される」

岩倉使節団

岩倉使節団に応募し、出仕としての任務を任される

1871年に廃藩置県により土佐藩の身分制度が撤廃されると、職業の門戸が広がるようになりました。明治政府が1871年に計画した岩倉使節団に加えてもらうべく、兆民は大久保利通に直談判をします。結果として、熱意が認められ、司法省9等出仕として仕事を任されることになったのでした。

岩倉使節団はアメリカを経由してフランスへと赴きます。兆民はその過程で、のちに東洋自由新聞をともに刊行する西園寺公望と出会うことになるのでした。

仏蘭西学舎設立

1874年にフランスから帰国すると、東京の麹町で私塾・仏蘭西学舎を設立します。のちに仏学塾と改名されるこの私塾では兆民の得意とする語学や思想史を主に扱い、徐々に漢学なども教えるようになりました。

この私塾を経営するかたわらで、ルソーの「社会契約論」に興味を持ち、「社会契約論」の部分訳として出版されることが決まった「民約論」の編纂の手助けをすることになります。

1875年 – 28歳「東京外国語学校の校長、元老院権少書記官、国憲取締局など職を転々とする」

現在の東京外国語大学(前身が東京外国語学校)

東京外国語学校の校長になるが、3ヶ月で辞職

1875年には東京外国語学校の校長に就任しますが、教育方針で文部省と揉め事を起こし、わずか3ヶ月で辞職することになります。その後は元老院の権少書記官としてポストを用意され、1876年には国憲取締局での仕事も兼任するようになりました。

1877年に辞職を表明すると、その後は家塾経営や翻訳業を生業とするようになります。1879年には高知県士族出身の鹿という女性と結婚することになりますが、結婚生活は長くは続かず、約一年で離婚することになるのでした。

1881年 – 34歳「東洋自由新聞を刊行するも1ヶ月で廃刊」

東洋自由新聞

東洋初の日刊紙である東洋自由新聞の刊行

1880年代に入ると自由民権運動が盛んになっていきます。そのさなか、1881年に結成される自由党の準備会において機関紙の発行が禁止されたため、新聞を発行するには自力で行うしか手立てが無くなりました。

西園寺公望

1881年3月18日、中江兆民、西園寺公望らフランス派の知識人と山際七司、松沢求策ら地方民権派の共同で、山城屋の稲田政吉を社主として「東洋自由新聞」を発行するに至ります。自由民権とフランス流急進自由主義をうたい、明治政府の批判、民権思想の普及に重きを置いた記事を製作していきました。

しかし、政府や宮中からの弾圧を受け、社主の稲田も手を引くことを決めると、資金が足りなくなり、4月30日にあえなく廃刊することとなります。

1882年 – 35歳「ルソーの「社会契約論」の漢文訳を刊行」

社会契約論

社会契約論の漢文訳「民約訳解」を刊行

自由民権運動のさなか、ジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」を漢文訳し、「民約訳解」として刊行しました。兆民はルソーとフランスの共和主義の思想を紹介し、自由民権運動に多大な影響を与えることになるのです。この「社会契約論」を翻訳したことにより、兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになりました。

兆民は1880年以降の自由民権運動に言論活動を主として参加しましたが、新聞や書籍を通じての思想の普及により社会を動かすことができるということを知り、政治への興味を持つようになります。これ以後、政治家として活動することを目論むようになるのでした。

1890年 – 43歳「第一回衆議院議員総選挙にてトップ当選を果たす」

第一回衆議院議員総選挙 風刺画

第一回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬

1890年(明治23年)に第一回衆議院議員総選挙が行われました。兆民は以前から政界への興味を示しており、この選挙に大阪4区から出馬することを決めます。自分の本籍を大阪の被差別部落へと移し、「余は社会の最下層にいる種族であり、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」という宣伝文句で被差別部落の住民の支持を得ることに成功し、見事に当選を果たしました。

立憲自由党結成するも、味方内での裏切り行為に会い、議員を辞職

晴れて議員としての活動を開始すると、兆民は民党の結成に尽力します。1890年に立憲自由党が結党され、兆民は「立憲自由新聞」で主筆をつとめ、自らの意見を言葉に乗せて世の中へ発信できるようになりました。

しかし、1891年の政府予算案が自由党の土佐派によって勝手に成立させられてしまったために、裏切りを受けたと憤慨し、兆民は辞表を提出することになります。

1891年 – 44歳「実業家としての活動を行うが、どれも成功せず」

北海道 小樽

議員辞職後は実業家として様々な事業を手がける

兆民は1891年に議員辞職後、北海道の小樽へと移り、実業家として様々な事業を開始します。1891年には小樽初の新聞となる「北門新報」を立ち上げ、これを札幌へ進出させるまでに成長させました。しかし、兆民はすぐに退社してしまいます。

1893年に札幌にて「高知屋」の開業、「北海道山林組」の設立、1894年には常野鉄道、毛武鉄道の開通、1897年には中野清潔会社の設立と多種多様な事業を展開しますが、いずれもうまくはいきませんでした。そのため、再び政界への復帰を望むようになります。

1899年 – 52歳「喉頭癌の診断を受け、「一年有半」という随筆集を執筆」

一年有半と続一年有半

一年有半の執筆

政界復帰を目指して政治活動を行うさなか、喉に違和感を覚えるようになります。違和感の原因を調べてもらうために病院を受診すると、喉頭癌の診断と余命宣告1年半を下されるのでした。これを受けた兆民は随筆集「一年有半」の執筆に取り組みます。

「一年有半」は兆民の思想がもっともよく表れている書籍で、当時の大ベストセラーを記録することになりました。この本は現在でも名文名著として評価されています。「一年有半」の刊行後も執筆作業を進め、「続一年有半」の発表も行いました。こちらも版を重ねて、ベストセラーとなります。

1901年 – 54歳「中江兆民の死去・死因は喉頭癌(のちに食道癌)と判明」

晩年の中江兆民

癌に侵されて帰らぬ人に

喉頭癌の診断を受けた後は本を執筆しながら、東京市小石川区の自宅にて病床に伏すようになりました。余命一年半の宣告を受けていたため、あまり長くは無いと本人も自覚していましたが、徐々に病状も進行していきます。

1901年12月13日、喉頭癌によって帰らぬ人となりましたが、死後に再度死因の確認を行うと、主病変は喉頭癌ではなく食道癌であったことが判明したのでした。墓地は東京都港区の青山墓地に設けられています。

中江兆民の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

一年有半・続一年有半

大ベストセラーを記録した兆民の随筆集です。喉頭癌の宣告を受けた後に余命宣告が1年半だったことから表題がつけられました。自らの身の回りの事柄から、兆民が生きた時代の人物、政治、文化について論じた社会批評となっています。

三酔人経綸問答

一旦酔うと、政治や哲学に関して際限なく語ることで有名な南海先生の元に洋学紳士と豪傑君というふたりの人物が訪れます。この3人が酔うに連れて、天下の趨勢をそれぞれにまくし立てるようになっていきます。その議論の行方はいかに。兆民の思想を小説風に表現した一冊となっています。

中江兆民ー百年の誤解

東京大学教授で雑誌「発言者」の主幹を務めた西部邁が中江兆民の人物像や思想を紹介しています。兆民がどのような考えのもとで政治活動や事業を行ったのか、またそれぞれの活動の根底にはどのような思想が隠れているのかを掘り下げて解説しています。

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中江兆民についてのまとめ

中江兆民は足軽の出身でありながら、その生涯で多数の活動を成し遂げてきました。1880年代に激化した自由民権運動では言論によって民衆を動かし、大きな影響を与えることになります。その要素の一つでもあるルソーの「社会契約論」を翻訳したことも大きな功績として語り継がれてきました。

多くの功績がある一方で様々な奇行エピソードも残っており、その破天荒っぷりは調べれば調べるほど人間味が湧いてきます。

晩年は大病に伏しますが、その病床で「一年有半」というベストセラー本まで執筆してしまうのでした。1901年に54歳で亡くなりましたが、兆民の活動の記録はこれからも後世に伝えられていくのでしょう。

今回は中江兆民についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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