中江兆民はルソーの「社会契約論」を翻訳したことで有名な人物です。1880年代に激化した自由民権運動の主導者としても活躍しました。元は足軽の出身ですが、廃藩置県以降、身分制度が撤廃されると、岩倉使節団の出仕として採用されるなど非常に優秀な人物としても知られています。
東京外国語学校の校長を務めたり、元老院で働いたり、事業を展開したり、その生涯において幅広い活動を成していきます。1890年には第一回衆議院議員選挙に出馬し、見事にトップ当選を勝ち取ることにもなるのでした。
晩年に癌の宣告をされてからは病床で「一年有半」という随筆集を執筆し、大ベストセラーを記録しました。その書物は兆民の思想を存分に反映しているということで現代でも高く評価されているのです。
多才な人物でありながら、実は数々の奇行エピソードをもつ中江兆民に興味の湧いた筆者が、彼に関する多数の文献を読み漁った結果得た知識を元に、中江兆民の生涯、功績、意外なエピソードについてご紹介していきます。
この記事を書いた人
中江兆民とはどんな人物か
名前 | 中江兆民 |
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誕生日 | 1847年12月8日 |
没日 | 1901年12月13日 |
生地 | 土佐藩高知城下山田町(現・高知県高知市はりまや町) |
没地 | 東京市小石川区武島町 |
配偶者 | 鹿(1879-1880)、ちの(1885-) |
埋葬場所 | 東京都港区 青山墓地 |
中江兆民の生涯をハイライト
中江兆民の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 高知城下の足軽の家系に生まれる
- 父の死去後、家督を相続し、足軽の身分に
- 土佐藩の藩校・文武館にて外国語を主として勉強に励む
- 兵庫開港と同時に上方に赴き、フランス外交団の通訳を務める
- 岩倉使節団に司法省9等出仕として採用
- 東京外国語学校校長→元老院権少書記官→国憲取締局と転職
- 1881年に東洋自由新聞を刊行し、言論により自由民権運動を主導
- 1890年第一回衆議院議員総選挙に出馬し、1位で当選を果たす
- 政府予算案を巡って裏切りが発覚し、それに激怒した兆民は議員を辞職
- 北海道にて様々な事業を展開するが、うまくいかず
- 喉頭癌と診断され、余命1年半を言い渡される、これをきっかけに「一年有半」を執筆し、ベストセラーとなる
- 喉頭癌(のちに食道癌と判明)にて1901年12月、永眠
中江兆民の性格や家族構成は?
中江兆民は奇行が多かったという逸話がいくつかの文献に掲載されており、破天荒な性格だったことが知られています。あまり一つの仕事にこだわらずに、自分に合わないと感じたらすぐに辞職し、様々な職業を経験していることから、自分の我を通す性格や、他人の視線を気にせずに自分のやりたいことをとことん突き詰める性格でもあったことが伺えます。
中江兆民の家系は18世紀から代々足軽として仕えてきました。父・元助もその後を継いで足軽として生計を立てています。母の柳は土佐藩士の娘で、父・元助との間に兆民と虎馬の二人の兄弟をもうけました。
兆民自身は1879年に鹿と結婚しましたが、わずか1年で離婚、その後1885年にちのと結婚し1男1女をもうけています。
中江兆民の主導した自由民権運動とは?
自由民権運動は1874年に始まった政治運動で、民選議院設立の建白書の提出を契機に広まっていったとされています。主な活動としては言論の自由、集会の自由を訴える運動や憲法制定、議会開設を呼びかける活動、地租の軽減、不平等条約改正の阻止を求める活動が行われました。
兆民は思想の普及という面から自由民権運動に参加し、民衆の動きに大きな影響を与えました。具体的には東洋自由新聞を刊行し、自らの思想をつづったり、ルソーの「社会契約論」を漢訳して出版し、フランスの共和主義の思想を紹介したりします。明治政府を批判するような文章を書き上げ、民権思想の普及に務めたのでした。
中江兆民とルソーの繋がりは?中江が「東洋のルソー」と呼ばれた理由
中江兆民は1847年生まれ、ルソーは1778年に死没のため、二人が直接関わるということはありませんでしたが、兆民はその思想に多大な影響を受けたのでした。兆民がフランス語の専門であったということから、ルソーの「社会契約論」を読んで解釈することができ、ちょうど白熱してきた日本の自由民権運動と相まって、兆民が今後の日本において手本とすべき思想だと感じたのです。
社会契約論では「国家は全ての人間の自由と平等を保障する仕組みでなければならない」と唱えられ、「共和国」の樹立を促しています。兆民は「社会契約論」を漢訳して出版することで、この思想を自由民権運動のさなかの世間へと広め、時の明治政府を批判する材料としたのです。「社会契約論」を翻訳したことをきっかけに兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになりました。
中江兆民の功績
功績1「フランス流の自由民権論を唱え、自由民権運動の主導者に」
兆民は幼少期からフランス語を学び、フランス外交団の通訳として働いていた経験もあるため、フランスの思想や文化に親しみがありました。1874年に始まり、1880年代に激化した自由民権運動ではフランス流の自由民権論を唱え、言論により自由民権運動の主導者として活動します。
フランス流の自由民権論とは政治が全ての人間の自由と平等を保障することを是とし、党派政治や政治家による抑圧を排した「共和国」の成立を促す言論のことです。明治政府は天皇を頂点に置き、人民を直接統治するという考えであったため、兆民はこれを批判し、「東洋自由新聞」にて自らの思想を普及して社会を動かすことに務めたのでした。
功績2「ルソーの『社会契約論』を漢語訳」
兆民の思想はジャン=ジャック・ルソーの社会契約論に大きく影響を受けており、1882年には社会契約論の漢語訳である「民約訳解」を刊行します。これが民衆に広まるとさらに自由民権運動の動きを活発にさせました。
兆民は社会契約論の第2巻第6章までを翻訳し、自分なりの注解も付け加えたため、その方面に知識のない人でも読みやすいような構成で執筆されました。この翻訳により、兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになるのです。
功績3「第一回衆議院議員選挙トップ当選」
1889年に大日本帝国憲法が発布されると、自由民権派もこの内容を高く評価したため、自由民権運動は次第に収束していきます。翌1890年には第一回衆議院議員総選挙が開かれ、兆民も大阪4区から出馬することになりました。
大阪4区はかつて賤民や穢多など、身分差別を受けていた人が多く住んでいる被差別部落であり、兆民はわざわざ本籍をその地に移して選挙に臨みました。その際の宣伝文句が「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」というもので、これが被差別部落の住民からの支持を集めるきっかけとなり、選挙でトップ当選を果たすことになるのです。
中江兆民の名言
「自由はとるべきものなり、もらうべき品にあらず。」
兆民の生きた時代は民衆が次々に新たな自由を獲得しました。自由民権運動もその一つで、国民を主とした憲法の改正や地租の軽減、言論・集会の自由などを訴えたのです。最終的に少しずつ自由を勝ち取ることになりますが、何も行動しなければ得られていなかった自由かもしれません。
「君主も人間、われわれも人間、同じ人間でありながら、自分の特権によって生きることができず、ひとのおかげで初めて生きるというのは、実に恥ずかしいことではないでしょうか。」
兆民の言葉は明治の時代に人々が権利を求めて活動したことを示唆するような文言が多くなっています。この言葉も、政府のいいなりではなく、自らの意思によって生きるための自由が大切だということを訴えているのでしょう。
「民主の主の字を解剖すれば、王の頭に釘を打つ。」
自分たちの活動について巧妙な例えを用いて表現した言葉です。民主とは国民を主体とした政治のことであり、王の頭に釘を打つとは世の中を収めている天皇や政府を打ちのめすということを暗示しています。民主主義を勝ち取るために時の権力者たちと戦おうということを意味しているのでしょう。