1871年 – 24歳「岩倉使節団の出仕として採用される」
岩倉使節団に応募し、出仕としての任務を任される
1871年に廃藩置県により土佐藩の身分制度が撤廃されると、職業の門戸が広がるようになりました。明治政府が1871年に計画した岩倉使節団に加えてもらうべく、兆民は大久保利通に直談判をします。結果として、熱意が認められ、司法省9等出仕として仕事を任されることになったのでした。
岩倉使節団はアメリカを経由してフランスへと赴きます。兆民はその過程で、のちに東洋自由新聞をともに刊行する西園寺公望と出会うことになるのでした。
仏蘭西学舎設立
1874年にフランスから帰国すると、東京の麹町で私塾・仏蘭西学舎を設立します。のちに仏学塾と改名されるこの私塾では兆民の得意とする語学や思想史を主に扱い、徐々に漢学なども教えるようになりました。
この私塾を経営するかたわらで、ルソーの「社会契約論」に興味を持ち、「社会契約論」の部分訳として出版されることが決まった「民約論」の編纂の手助けをすることになります。
1875年 – 28歳「東京外国語学校の校長、元老院権少書記官、国憲取締局など職を転々とする」
東京外国語学校の校長になるが、3ヶ月で辞職
1875年には東京外国語学校の校長に就任しますが、教育方針で文部省と揉め事を起こし、わずか3ヶ月で辞職することになります。その後は元老院の権少書記官としてポストを用意され、1876年には国憲取締局での仕事も兼任するようになりました。
1877年に辞職を表明すると、その後は家塾経営や翻訳業を生業とするようになります。1879年には高知県士族出身の鹿という女性と結婚することになりますが、結婚生活は長くは続かず、約一年で離婚することになるのでした。
1881年 – 34歳「東洋自由新聞を刊行するも1ヶ月で廃刊」
東洋初の日刊紙である東洋自由新聞の刊行
1880年代に入ると自由民権運動が盛んになっていきます。そのさなか、1881年に結成される自由党の準備会において機関紙の発行が禁止されたため、新聞を発行するには自力で行うしか手立てが無くなりました。
1881年3月18日、中江兆民、西園寺公望らフランス派の知識人と山際七司、松沢求策ら地方民権派の共同で、山城屋の稲田政吉を社主として「東洋自由新聞」を発行するに至ります。自由民権とフランス流急進自由主義をうたい、明治政府の批判、民権思想の普及に重きを置いた記事を製作していきました。
しかし、政府や宮中からの弾圧を受け、社主の稲田も手を引くことを決めると、資金が足りなくなり、4月30日にあえなく廃刊することとなります。
1882年 – 35歳「ルソーの「社会契約論」の漢文訳を刊行」
社会契約論の漢文訳「民約訳解」を刊行
自由民権運動のさなか、ジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」を漢文訳し、「民約訳解」として刊行しました。兆民はルソーとフランスの共和主義の思想を紹介し、自由民権運動に多大な影響を与えることになるのです。この「社会契約論」を翻訳したことにより、兆民は「東洋のルソー」と呼ばれるようになりました。
兆民は1880年以降の自由民権運動に言論活動を主として参加しましたが、新聞や書籍を通じての思想の普及により社会を動かすことができるということを知り、政治への興味を持つようになります。これ以後、政治家として活動することを目論むようになるのでした。
1890年 – 43歳「第一回衆議院議員総選挙にてトップ当選を果たす」
第一回衆議院議員総選挙で大阪4区から出馬
1890年(明治23年)に第一回衆議院議員総選挙が行われました。兆民は以前から政界への興味を示しており、この選挙に大阪4区から出馬することを決めます。自分の本籍を大阪の被差別部落へと移し、「余は社会の最下層にいる種族であり、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」という宣伝文句で被差別部落の住民の支持を得ることに成功し、見事に当選を果たしました。
立憲自由党結成するも、味方内での裏切り行為に会い、議員を辞職
晴れて議員としての活動を開始すると、兆民は民党の結成に尽力します。1890年に立憲自由党が結党され、兆民は「立憲自由新聞」で主筆をつとめ、自らの意見を言葉に乗せて世の中へ発信できるようになりました。
しかし、1891年の政府予算案が自由党の土佐派によって勝手に成立させられてしまったために、裏切りを受けたと憤慨し、兆民は辞表を提出することになります。
1891年 – 44歳「実業家としての活動を行うが、どれも成功せず」
議員辞職後は実業家として様々な事業を手がける
兆民は1891年に議員辞職後、北海道の小樽へと移り、実業家として様々な事業を開始します。1891年には小樽初の新聞となる「北門新報」を立ち上げ、これを札幌へ進出させるまでに成長させました。しかし、兆民はすぐに退社してしまいます。
1893年に札幌にて「高知屋」の開業、「北海道山林組」の設立、1894年には常野鉄道、毛武鉄道の開通、1897年には中野清潔会社の設立と多種多様な事業を展開しますが、いずれもうまくはいきませんでした。そのため、再び政界への復帰を望むようになります。
1899年 – 52歳「喉頭癌の診断を受け、「一年有半」という随筆集を執筆」
一年有半の執筆
政界復帰を目指して政治活動を行うさなか、喉に違和感を覚えるようになります。違和感の原因を調べてもらうために病院を受診すると、喉頭癌の診断と余命宣告1年半を下されるのでした。これを受けた兆民は随筆集「一年有半」の執筆に取り組みます。
「一年有半」は兆民の思想がもっともよく表れている書籍で、当時の大ベストセラーを記録することになりました。この本は現在でも名文名著として評価されています。「一年有半」の刊行後も執筆作業を進め、「続一年有半」の発表も行いました。こちらも版を重ねて、ベストセラーとなります。
1901年 – 54歳「中江兆民の死去・死因は喉頭癌(のちに食道癌)と判明」
癌に侵されて帰らぬ人に
喉頭癌の診断を受けた後は本を執筆しながら、東京市小石川区の自宅にて病床に伏すようになりました。余命一年半の宣告を受けていたため、あまり長くは無いと本人も自覚していましたが、徐々に病状も進行していきます。
1901年12月13日、喉頭癌によって帰らぬ人となりましたが、死後に再度死因の確認を行うと、主病変は喉頭癌ではなく食道癌であったことが判明したのでした。墓地は東京都港区の青山墓地に設けられています。
中江兆民の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
一年有半・続一年有半
大ベストセラーを記録した兆民の随筆集です。喉頭癌の宣告を受けた後に余命宣告が1年半だったことから表題がつけられました。自らの身の回りの事柄から、兆民が生きた時代の人物、政治、文化について論じた社会批評となっています。
三酔人経綸問答
一旦酔うと、政治や哲学に関して際限なく語ることで有名な南海先生の元に洋学紳士と豪傑君というふたりの人物が訪れます。この3人が酔うに連れて、天下の趨勢をそれぞれにまくし立てるようになっていきます。その議論の行方はいかに。兆民の思想を小説風に表現した一冊となっています。
中江兆民ー百年の誤解
東京大学教授で雑誌「発言者」の主幹を務めた西部邁が中江兆民の人物像や思想を紹介しています。兆民がどのような考えのもとで政治活動や事業を行ったのか、またそれぞれの活動の根底にはどのような思想が隠れているのかを掘り下げて解説しています。
おすすめの動画
【日本史】 近現代の文化4 明治の思想1
家庭教師のトライが配信している歴史の授業動画です。近現代の思想4つ(啓蒙思想、フランス自由主義、イギリス功利主義、ドイツ国家主義)について学ぶことができます。中江兆民が主導したフランス自由主義についても詳しく解説しています。
中江兆民についてのまとめ
中江兆民は足軽の出身でありながら、その生涯で多数の活動を成し遂げてきました。1880年代に激化した自由民権運動では言論によって民衆を動かし、大きな影響を与えることになります。その要素の一つでもあるルソーの「社会契約論」を翻訳したことも大きな功績として語り継がれてきました。
多くの功績がある一方で様々な奇行エピソードも残っており、その破天荒っぷりは調べれば調べるほど人間味が湧いてきます。
晩年は大病に伏しますが、その病床で「一年有半」というベストセラー本まで執筆してしまうのでした。1901年に54歳で亡くなりましたが、兆民の活動の記録はこれからも後世に伝えられていくのでしょう。
今回は中江兆民についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。