中江兆民とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や思想、意外なエピソードや自由民権運動の主導についても紹介】

中江兆民にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「芸者と乱痴気騒ぎをするような破天荒っぷり」

酒盛りの場 イメージ

中江兆民は奇行エピソードが数多く残っていますが、特に芸者との関わりで大っぴらな行動をとったようです。芸者と心ゆくまで遊んだ後に、兆民が下半身を屋外に向けて露出したり、お金をばら撒いて芸者たちにあげてしまったりというような破天荒な所業を頻繁に行いました。

この時代は男が酔って裸踊りをするのは日常茶飯事で、さほど驚くようなことではないのですが、兆民も例外ではなく、酒の席でよく裸になって、股間を一芸に用いることが多かったようです。縁談の際にも同様のことを繰り広げ、結局破綻してしまう事態も発生しました。

都市伝説・武勇伝2「幸徳秋水の秋水という名前はもともと中江兆民のもの」

幸徳秋水

中江兆民は本名が篤介ですが、兆民の名前の方が広く知れ渡っています。一方で、「秋水」という名前も使っていたことを知る方は少ないのではないでしょうか。「秋水」といえば、「幸徳秋水」が有名ですが、実は幸徳秋水は中江兆民が師匠であり、その名前を兆民から授かったのです。

兆民に師事していた幸徳秋水はその才能を認められ、兆民から「秋水」という名前を譲り受けました。兆民と幸徳秋水は生涯にわたって親交を持ち、兆民は演劇会で披露する芝居の演目構成を秋水に依頼したこともあります。さらに、幸徳秋水は兆民が亡くなった後に「兆民先生」という書籍を発表しました。

都市伝説・武勇伝3「国会へ登院する際、真っ赤なトルコ帽をかぶっていた」

トルコ帽

兆民の破天荒エピソードは際限がなく、変わった行動は調べてみるといくつも出てきます。衆議院議員となって国会へ登院する際に、悪目立ちする真っ赤なトルコ帽をかぶって登場したというエピソードがあります。また、同じく国会に登院する際に「火の用心」と書かれたタバコ入れを持参していたという話も残されていました。

国会という公の場に姿を見せる時ですら一風変わった行動をする兆民は、日常生活においてはその上をいく逸話が残っているのではないかと非常に興味をそそられますよね。

中江兆民の簡単年表

1847年 – 0歳
中江兆民の誕生

1847年12月8日、高知城下の高知県山田町(現在の高知市はりまや町)に中江兆民が誕生します。父は土佐藩足軽の元助、母は土佐藩士の娘・柳でした。

1861年 – 14歳
父親の死去とともに足軽の身分を継ぐ

1861年2月に父・元助が亡くなり、兆民が家督を相続することになります。足軽の身分を引き継ぎ、家計を支えるようになったのでした。

1862年 – 15歳
文武館に入門

藩校として開校した文武館に入門することになり、外国語などを学びます。当時の講師には細川潤次郎(幕末の土佐藩藩士・教育者)や萩原三圭(明治天皇の内親王の御典医)などがいました。外国語を学んだことにより、3年後には留学生として長崎へ向かうことになります。

1867年 – 20歳
フランス外交団の通訳に

その後も外国語の勉強を継続し、幕府の語学所でフランス語を学ぶと、兵庫の開港と同時にフランス外交団の通訳を努めるようになります。

1871年 – 24歳
岩倉使節団に出仕として採用される

フランス外交団の通訳を勤めた後は、江戸へ戻って学問を続けるようになります。自身もフランス語を教える機会を得ますが、長続きはしませんでした。1871年に岩倉使節団を派遣することを政府が決定すると、兆民は自ら大久保利通に採用を迫り、司法省9等出仕として使節団に仕えることが決まったのです。使節団として赴いたフランスでは西園寺公望とも会見しました。

1874年 – 27歳
その時何が起きたか簡単に一言で書く

フランスから帰国すると、家塾の仏蘭西学舎を設立します。語学や思想史、漢学を主な教科として講義を行うこととなりました。この頃にはルソーの「社会契約論」の部分訳「民約論」の編集に関与しています。

1875年 – 28歳
東京外国語学校の校長に任命される、すぐに辞職

1875年に東京外国語学校の校長に就任しますが、兆民と文部省の間で教育方針の相違が生じ、自らの意見を押し通せなかった兆民は辞職を申し出ます。その後は井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を担当するようになりました。

1879年 – 32歳
高知県士族の娘・鹿と結婚も、一年で離婚

縁談を断り続けていましたが、1879年に高知県士族の娘・鹿と結婚することになります。しかし、結婚生活は長続きせず、約一年程で離婚してしまうのでした。

1881年 – 34歳
東洋自由新聞の創刊

1881年3月18日、山城屋の稲田政吉を社長として東洋最初の日刊紙「東洋自由新聞」を刊行しました。自由民権運動の最中、自由党の結党準備において機関紙発行が否決されたため、兆民とともに西園寺公望、光妙寺三郎らのフランス派知識人と山際七司ら民権派が合体して創刊されます。

自由民権とフランス流急進自由主義を主張し、政府を攻撃するような民権思想の普及を促し、2000部を印刷するようになりました。しかし、政府からの弾圧を受け、4月30日にあえなく廃刊となってしまいます。

1882年 – 35歳
ルソーの「社会契約論」の漢文訳「民約訳解」を刊行

兆民は1882年にジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」の漢文訳「民約訳解」を刊行し、「東洋のルソー」と呼ばれるようになります。ルソーとフランスの共和主義の思想を紹介し、自由民権運動に多大な影響を与えました。

1885年 – 38歳
ちのと再婚、大同団結運動に参加

鹿と離婚後は独身を貫いていましたが、長野県から出てきた、ちのと言う女性と再婚することになります。同年、条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加しました。

1890年 – 43歳
第1回衆議院議員総選挙に出馬

兆民は1890年に本籍を大阪の被差別部落へと移し、第1回衆議院議員総選挙に出馬します。「余は新平民にして、昔日公らの穢多と呼びならわしたる人物なり」と自らを称して選挙活動を行い、被差別部落民の多大な支持を得ることでトップ当選を果たすことになりました。

1890年 – 43歳
立憲自由党を結党するも、辞職

兆民は衆議院議員としての活動を開始すると、民党結成のために尽力します。1890年に立憲自由党が結成され、「立憲自由新聞」により自身の意見を述べる場を与えられましたが、政府予算案を決めるときに、仲間内で裏切りのあったことが発覚したため、兆民は辞職することを決意するのでした。

1891年 – 44歳
北海道で実業家として活動

議員を辞職すると、北海道の小樽へと移り、実業家としての活動を始めます。同年には小樽初の新聞「北門新報」を創刊し、札幌へと進出させるまでに成長させました。

1893年には札幌で「高知屋」、材木業を営む「北海道山林組」も創立します。1894年には常野鉄道、毛武鉄道を開通するために奔走しました。1897年には中野清潔会社を設立するなど、多くの事業を展開しますが、いずれも実績は芳しくなく、あまり成功しなかったと言われています。

1898年 – 51歳
国民党を結成して政界復帰を目論む

様々な事業を手がけるも、成功しなかったため、1898年12月に国民党を結成し、政界復帰を目論むようになります。

1901年 – 54歳
喉頭癌の宣告を受け、「一年有半」の執筆を行う

議員としての復帰を目指して活動を行っていましたが、1901年に喉に違和感を覚えたため、病院を受診すると、喉頭癌の宣告を受けることになります。余命一年半と言い渡され、その胸中を執筆した随筆集「一年有半」を出版します。その後、続編の「続一年有半」も刊行し、どちらも大ベストセラーとなるのでした。

1901年 – 54歳
中江兆民死去・死因は喉頭癌(のちに食道癌と判明)

政治活動を積極的に行っていましたが、喉頭癌が判明したため、東京市小石川区にある自宅にて療養する日々を過ごします。1901年12月13日、癌の進行により帰らぬ人となるのでした。死因はのちに食道癌であったことが判明しています。

中江兆民の年表

1847年 – 0歳「高知県にて中江兆民誕生」

はりまや橋

高知城下に中江兆民誕生

1847年12月8日、高知城下の山田町(現在の高知県高知市はりまや町)にて中江兆民が誕生します。本名は篤介で、幼名は竹馬を名乗っていました。兆民は本名ではなく号であり、「億兆の民」を意味しています。

中江家は1766年に郷土株を入手してから足軽としての身分を与えられ、その家系をついで、父・元助は足軽として仕えていました。母は土佐藩士の娘で名前を柳と言い、二人の間には兆民の他に、弟の虎馬がいたそうです。

1861年 – 14歳「父・元助の死により、家督を継いで足軽に」

足軽

父・元助の死去、足軽を継ぐ

1861年に父・元助が亡くなると、代々の継承に則って、兆民が足軽として使えることになります。一家の柱として家計を支えるようになるのでした。

そのかたわらで、勉学の重要性にも気づいており、1882年に藩校として文武館が開校すると、すぐに入門を申し出、土佐藩藩士や医師らの元で勉強に励むようになるのでした。主に外国語を熱心に学んでいたため、1885年には留学生として長崎へ出向くことになります。この地では土佐藩出身の先輩である坂本龍馬と邂逅したというエピソードも残っています。

坂本龍馬

フランス外交団の通訳に

長崎への留学を終えてからは幕府の語学所でフランス語を学ぶようになります。その後も多言語習得のため各地の学問所などで勉強に励んでいましたが、1867年に兵庫が開港されるという情報を得ると、職を得るために兵庫へと移動します。

フランス語を勉強してきた経験を生かしてフランス外交団の通訳としての職を手に入れ、その際にフランスの文化や政治などの知識も得るようになりました。

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