袁世凱とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、功績や死因についても紹介】

袁世凱は中華民国の初代大総統となった人物です。辛亥革命でキーパーソンとして立ち回り、朝廷を裏切ることによって清朝を滅亡させ、自身が国のトップへと躍り出たのです。このような史実から裏切り者として扱われることの多い袁世凱ですが、リーダーへとのし上がる政治的手腕は見事なものでした。

英雄色を好むと言われますが、袁世凱もその例外ではなく、正妻の他に9人の妾がおり、生涯にもうけた子供の数は32人(17男15女)と言われています。

袁世凱

19世紀前半の中国は戦争と革命を繰り返す動乱の時代でした。その中で活躍した人物は他にも多くいますが、袁世凱はなぜ国のリーダーとして政治の実権を握ることができたのでしょうか。もちろんその鋭敏な頭脳と人を統率する能力が優れていたのはいうまでもありませんが、理由はそれだけではありません。

皇帝制度が終焉して中華民国として立ち上がった国家の最初のトップになった人物がどのような人物なのか非常に興味を持ち、袁世凱の文献を読み漁った筆者が、その知識を元に、袁世凱の生涯、功績、逸話、死因に至るまでわかりやすく解説していきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

袁世凱とはどんな人物か

袁世凱の生涯をハイライト

袁世凱

袁世凱の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 中国河南省にて名家の子として誕生
  • 科挙試験に2回チャレンジするも、いずれも落第
  • 李鴻章のもとで仕え、朝鮮の政治を担うように
  • 義和団の乱で軍隊を温存し、清国での勢力を相対的に強める
  • 光緒帝、西太后のもとで政治の中枢を任される
  • 辛亥革命で朝廷を攻撃し清朝は滅亡、袁世凱は臨時大総統に
  • 日本政府からの21か条の要求を承諾するも一連の政治活動が民衆の反感を買い、権威を落とす
  • 尿毒症にて体調を崩し、帰らぬ人に

袁世凱の家族構成や子孫は?

袁世凱は正妻の他に9人の妾(正妻:于氏、妾:①沈氏、②李氏、③金氏、④呉氏、⑤楊氏、⑥葉氏、⑦張氏、⑧郭氏、⑨劉氏)がいたことが知られています。

子供は17男14女(15女という説も)いました。この中で現在でも名が知れているのは袁克文と袁克定です。

袁世凱と袁克文

袁克文は書と水墨画の達人として活躍しましたが、父・袁世凱の皇帝即位に反対したことから怒りを買い、上海へと逃亡することになります。袁克定は父の補佐を行い、辛亥革命や皇帝即位を援助しました。ちなみに、日本における大正デモクラシーで活躍した吉野作造が袁克定の家庭教師を務めています。

袁世凱と蒋介石の関係性は?

蒋介石は孫文の後継者として世に出てきた人物で、北伐を終えた後に中華民国の統一を果たし、国の最高指導者として長きにわたって中華民国を治めました。

蒋介石

袁世凱と蒋介石は直接の関係性はあまりありませんが、清朝滅亡後のトップが袁世凱、その亡き後に中華民国のトップに君臨したのが蒋介石という構図です。

袁世凱が没した後の10数年間は国を治めるような大リーダーが存在しませんでした。各地方で軍閥がばらばらに力を強めていたため、混沌とした世の中になっていきます。そのさなかに登場したのが蒋介石で、北伐革命軍を率いて北上し、北京政府を討伐すると、そのまま中国を統一し、自身の政権を樹立しました。

リーダー

袁世凱と蒋介石のどちらも、中国という大国を治めるだけの器を持った人物ということが大きな共通点です。

袁世凱の死因は憤死?

憤死したことで有名なボニファティウス8世

袁世凱は新生中華民国の臨時大総統となり、その後、皇帝にまでなりましたが、民衆や部下からの批判を受け、権威を落としたまま亡くなることになります。そのため、憤りの中で死ぬ「憤死」で亡くなったのではないかとささやかれていましたが、実際は違うようです。

尿毒症の症状

袁世凱の死因は尿毒症でした。尿毒症とは腎臓の機能が低下することにより、体の外に排出されるべき老廃物が体内に蓄積してしまう病気です。これが進行すると、脳にまで障害をきたすことになります。袁世凱は晩年、尿毒症が悪化していき、病床に伏すことになり、そのまま帰らぬ人となるのでした。

憤死ではありませんでしたが、袁世凱は自分の思うような政治をできずに亡くなったことから、大きな未練は残っていたのではないでしょうか。

袁世凱の功績

功績1「中華民国初代大総統」

中華民国の国旗

中華民国は清朝が滅びた後に誕生した国家で、初代の臨時大総統は孫文です。そして、その後に臨時大総統に就任したのが袁世凱で、さらにその一年後に、袁世凱は正式に初代大総統として中華民国を牽引することになったのです。

黎元洪

1914年には中華民国約法を発布し、大統領の権限を強化する内容ばかりを盛り込みました。結果として、この中華民国約法は袁世凱が亡くなる1916年までのたった2年しか適用されませんでした。もともとは1912年に孫文の定めた中華民国臨時約法があったのですが、袁世凱の亡き後に大総統に就任した黎元洪によって再び、中華民国臨時約法が運用されることになったのです。

功績2「辛亥革命のキーパーソン」

辛亥革命
出典:Wikipedia

孫文や袁世凱が臨時大総統に就任する直前には辛亥革命(1911年)が起こっています。辛亥革命は孫文率いる革命軍が武昌や漢陽などの主要都市を制圧し、清朝を脅かすことになった革命で、最終的にはこの戦いがきっかけで清朝は滅びることになります。

そこでキーパーソンとなったのが袁世凱なのです。袁世凱は光緒帝が没した後に朝廷から追放されていましたが、辛亥革命の動乱の中、軍隊を統率することができるのは袁世凱しかいないということで朝廷に招き入れられます。初めは革命軍に対抗する袁世凱ですが、革命派の勢いの方が優っていると見るや、革命軍の味方につき、朝廷を攻撃し始めるのです。

孫文と袁世凱

結果、清朝は滅亡、ラストエンペラー宣統帝の退位、中華民国の誕生という経緯を辿るのでした。そして、上記のように孫文、袁世凱と臨時大総統を務めるようになるのです。

袁世凱にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「一妻九妾というツワモノ」

袁世凱は正妻の他に9人の妾がおり、子供は17男14女(もしくは15女)という非常に精力旺盛な人物でした。単純計算で一人の女の人との間に3人ずつの子供を設けたことになります。

しかもその上、李鴻章の命令で朝鮮に務めていた25歳前後の頃には赴任先の朝鮮から何人もの女性を本国(清国)へと連れて帰ったというエピソードもあります。英雄色を好むとはよく言われますが、やはり大国を治めるような人物は豪快な生活を送っていたのですね。

都市伝説・武勇伝2「習近平国家主席を袁世凱に例えることがタブーとなっている」

習近平国家主席

習近平国家主席は2012年から中国のトップとして政治の実権を握っていますが、2018年2月に国家主席の任期を無制限にするという法案を発表しました。この法案により、2023年以降も習近平国家主席がリーダーとしてとどまれるようになるのです。

これに中国国民が反発し、国のリーダーの権力を強めようとしたという共通点から、袁世凱に例えてネット上で揶揄する動きが出始めました。しかし、中国当局による検閲はこの表現をタブーとし、ブロックすることを徹底しています。

くまのプーさんと国家元首

ちなみに、習近平国家主席をくまのプーさんに例えることも合わせて禁じられているのです。

都市伝説・武勇伝3 「袁世凱・暗殺計画が持ち上がっていた」

暗殺で有名なアメリカ初代大統領リンカーン

袁世凱は19世紀初頭、光緒帝、西太后とともに政治の中枢を担っていましたが、1908年に光緒帝、西太后が相次いで亡くなると、次に政治の実権を握ることになったラストエンペラーの宣統帝とその父・醇親王によって政界を追放されます。

袁世凱を憎んでいた醇親王はそれだけでは飽き足らずに、袁世凱・暗殺計画を企てました。暗殺計画が持ち上がっていることを聞きつけた袁世凱は間一髪のところで殺されることを免れ、河南省彰徳へと身を潜めることになったのです。

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