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袁世凱とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、功績や死因についても紹介】

袁世凱は中華民国の初代大総統となった人物です。辛亥革命でキーパーソンとして立ち回り、朝廷を裏切ることによって清朝を滅亡させ、自身が国のトップへと躍り出たのです。このような史実から裏切り者として扱われることの多い袁世凱ですが、リーダーへとのし上がる政治的手腕は見事なものでした。

英雄色を好むと言われますが、袁世凱もその例外ではなく、正妻の他に9人の妾がおり、生涯にもうけた子供の数は32人(17男15女)と言われています。

袁世凱

19世紀前半の中国は戦争と革命を繰り返す動乱の時代でした。その中で活躍した人物は他にも多くいますが、袁世凱はなぜ国のリーダーとして政治の実権を握ることができたのでしょうか。もちろんその鋭敏な頭脳と人を統率する能力が優れていたのはいうまでもありませんが、理由はそれだけではありません。

皇帝制度が終焉して中華民国として立ち上がった国家の最初のトップになった人物がどのような人物なのか非常に興味を持ち、袁世凱の文献を読み漁った筆者が、その知識を元に、袁世凱の生涯、功績、逸話、死因に至るまでわかりやすく解説していきたいと思います。

袁世凱とはどんな人物か

袁世凱の生涯をハイライト

袁世凱

袁世凱の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 中国河南省にて名家の子として誕生
  • 科挙試験に2回チャレンジするも、いずれも落第
  • 李鴻章のもとで仕え、朝鮮の政治を担うように
  • 義和団の乱で軍隊を温存し、清国での勢力を相対的に強める
  • 光緒帝、西太后のもとで政治の中枢を任される
  • 辛亥革命で朝廷を攻撃し清朝は滅亡、袁世凱は臨時大総統に
  • 日本政府からの21か条の要求を承諾するも一連の政治活動が民衆の反感を買い、権威を落とす
  • 尿毒症にて体調を崩し、帰らぬ人に

袁世凱の家族構成や子孫は?

袁世凱は正妻の他に9人の妾(正妻:于氏、妾:①沈氏、②李氏、③金氏、④呉氏、⑤楊氏、⑥葉氏、⑦張氏、⑧郭氏、⑨劉氏)がいたことが知られています。

子供は17男14女(15女という説も)いました。この中で現在でも名が知れているのは袁克文と袁克定です。

袁世凱と袁克文

袁克文は書と水墨画の達人として活躍しましたが、父・袁世凱の皇帝即位に反対したことから怒りを買い、上海へと逃亡することになります。袁克定は父の補佐を行い、辛亥革命や皇帝即位を援助しました。ちなみに、日本における大正デモクラシーで活躍した吉野作造が袁克定の家庭教師を務めています。

袁世凱と蒋介石の関係性は?

蒋介石は孫文の後継者として世に出てきた人物で、北伐を終えた後に中華民国の統一を果たし、国の最高指導者として長きにわたって中華民国を治めました。

蒋介石

袁世凱と蒋介石は直接の関係性はあまりありませんが、清朝滅亡後のトップが袁世凱、その亡き後に中華民国のトップに君臨したのが蒋介石という構図です。

袁世凱が没した後の10数年間は国を治めるような大リーダーが存在しませんでした。各地方で軍閥がばらばらに力を強めていたため、混沌とした世の中になっていきます。そのさなかに登場したのが蒋介石で、北伐革命軍を率いて北上し、北京政府を討伐すると、そのまま中国を統一し、自身の政権を樹立しました。

リーダー

袁世凱と蒋介石のどちらも、中国という大国を治めるだけの器を持った人物ということが大きな共通点です。

袁世凱の死因は憤死?

憤死したことで有名なボニファティウス8世

袁世凱は新生中華民国の臨時大総統となり、その後、皇帝にまでなりましたが、民衆や部下からの批判を受け、権威を落としたまま亡くなることになります。そのため、憤りの中で死ぬ「憤死」で亡くなったのではないかとささやかれていましたが、実際は違うようです。

尿毒症の症状

袁世凱の死因は尿毒症でした。尿毒症とは腎臓の機能が低下することにより、体の外に排出されるべき老廃物が体内に蓄積してしまう病気です。これが進行すると、脳にまで障害をきたすことになります。袁世凱は晩年、尿毒症が悪化していき、病床に伏すことになり、そのまま帰らぬ人となるのでした。

憤死ではありませんでしたが、袁世凱は自分の思うような政治をできずに亡くなったことから、大きな未練は残っていたのではないでしょうか。

袁世凱の功績

功績1「中華民国初代大総統」

中華民国の国旗

中華民国は清朝が滅びた後に誕生した国家で、初代の臨時大総統は孫文です。そして、その後に臨時大総統に就任したのが袁世凱で、さらにその一年後に、袁世凱は正式に初代大総統として中華民国を牽引することになったのです。

黎元洪

1914年には中華民国約法を発布し、大統領の権限を強化する内容ばかりを盛り込みました。結果として、この中華民国約法は袁世凱が亡くなる1916年までのたった2年しか適用されませんでした。もともとは1912年に孫文の定めた中華民国臨時約法があったのですが、袁世凱の亡き後に大総統に就任した黎元洪によって再び、中華民国臨時約法が運用されることになったのです。

功績2「辛亥革命のキーパーソン」

辛亥革命

孫文や袁世凱が臨時大総統に就任する直前には辛亥革命(1911年)が起こっています。辛亥革命は孫文率いる革命軍が武昌や漢陽などの主要都市を制圧し、清朝を脅かすことになった革命で、最終的にはこの戦いがきっかけで清朝は滅びることになります。

そこでキーパーソンとなったのが袁世凱なのです。袁世凱は光緒帝が没した後に朝廷から追放されていましたが、辛亥革命の動乱の中、軍隊を統率することができるのは袁世凱しかいないということで朝廷に招き入れられます。初めは革命軍に対抗する袁世凱ですが、革命派の勢いの方が優っていると見るや、革命軍の味方につき、朝廷を攻撃し始めるのです。

孫文と袁世凱

結果、清朝は滅亡、ラストエンペラー宣統帝の退位、中華民国の誕生という経緯を辿るのでした。そして、上記のように孫文、袁世凱と臨時大総統を務めるようになるのです。

袁世凱にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「一妻九妾というツワモノ」

袁世凱は正妻の他に9人の妾がおり、子供は17男14女(もしくは15女)という非常に精力旺盛な人物でした。単純計算で一人の女の人との間に3人ずつの子供を設けたことになります。

しかもその上、李鴻章の命令で朝鮮に務めていた25歳前後の頃には赴任先の朝鮮から何人もの女性を本国(清国)へと連れて帰ったというエピソードもあります。英雄色を好むとはよく言われますが、やはり大国を治めるような人物は豪快な生活を送っていたのですね。

都市伝説・武勇伝2「習近平国家主席を袁世凱に例えることがタブーとなっている」

習近平国家主席

習近平国家主席は2012年から中国のトップとして政治の実権を握っていますが、2018年2月に国家主席の任期を無制限にするという法案を発表しました。この法案により、2023年以降も習近平国家主席がリーダーとしてとどまれるようになるのです。

これに中国国民が反発し、国のリーダーの権力を強めようとしたという共通点から、袁世凱に例えてネット上で揶揄する動きが出始めました。しかし、中国当局による検閲はこの表現をタブーとし、ブロックすることを徹底しています。

くまのプーさんと国家元首

ちなみに、習近平国家主席をくまのプーさんに例えることも合わせて禁じられているのです。

都市伝説・武勇伝3 「袁世凱・暗殺計画が持ち上がっていた」

暗殺で有名なアメリカ初代大統領リンカーン

袁世凱は19世紀初頭、光緒帝、西太后とともに政治の中枢を担っていましたが、1908年に光緒帝、西太后が相次いで亡くなると、次に政治の実権を握ることになったラストエンペラーの宣統帝とその父・醇親王によって政界を追放されます。

袁世凱を憎んでいた醇親王はそれだけでは飽き足らずに、袁世凱・暗殺計画を企てました。暗殺計画が持ち上がっていることを聞きつけた袁世凱は間一髪のところで殺されることを免れ、河南省彰徳へと身を潜めることになったのです。

袁世凱の簡単年表

1859年 - 0歳
袁世凱の誕生

中国の河南省項城で名家の家に生まれました。親族から多数の官僚や軍人が出ていたことから、袁世凱も立身出世の欲が強かったそうです。

1878年 - 19歳
官僚登用試験「科挙」に2度挑戦するも落第

中国の管理登用試験として当時重要視されていた「科挙」を袁世凱も受けることになりました。しかし、その倍率は非常に高く、優秀な人物でも確実に受かることは保証されないような試験のため、袁世凱も苦戦を強いられました。結局、本試験への第一関門で引っかかり、落第となります。

1881年 - 22歳
淮軍の幕僚となる

袁世凱は李鴻章のもとで働くようになり、淮軍の幕僚として迎えられることとなりました。3年後の1885年には駐朝鮮交渉通商事宜を任せられることになり、朝鮮国の政治と外交にたずさわることになります。

1894年 - 35歳
甲午農民戦争を引き金として日清戦争の勃発

袁世凱は朝鮮を清国の統制下に抱え込もうとしましたが、1894年に農民の反感が沸点に達し、甲午農民戦争が勃発します。そこへ介入してきた日本軍と清国の軍隊が衝突し、大きな戦争へと発展するのです。これが日清戦争のきっかけとなりました。

1895年 - 36歳
日清戦争に大敗し、軍隊の近代化の重要性を悟る

1894年に甲午農民戦争を発端として開戦した日清戦争は清国の大敗という結果に終わりました。袁世凱の上官であった李鴻章は責任を追求されて失脚し、袁世凱自身は陸軍をまとめる部署を任せられることになりました。日清戦争で軍隊の近代化の重要性に気づいた袁世凱は兵器を新調し、軍隊の強化を図っていったのです。

1900年 - 41歳
義和団の乱(義和団事件)で軍隊を温存し、勢力を強める

1899年から徐々に激しさを増していった義和団の乱に対して、加勢するようにとの通達が朝廷から袁世凱に送られて来ます。しかし、欧米列強の相手に手こずっていた朝廷を尻目に、袁世凱は自らの管轄の地域の反乱を早々に沈め、軍隊を温存することを決意します。最終的に、朝廷率いる清軍は欧米各国に壊滅状態にされたため、相対的に袁世凱の軍隊が力を強めることになりました。

1901年 - 42歳
北洋通商大臣と直隷総督の役職に就く

1901年に李鴻章が亡くなると、その命を受けて北洋通商大臣と直隷総督の座に就くことになります。軍隊の強化には引き続き力を入れ、北洋軍を発足しました。もともと就いていた陸軍の立場とともに大臣、総督の称号も得たので、政治的な権力を多く有するようになりました。

1903年 - 44歳
青木宣純と会見し、日露戦争では日本に味方することを約束

1904年に開戦する日露戦争では清国の立場は中立とされていたが、その前年の1903年に日本の陸軍軍人である青木宣純と会談を行い、ロシアの情報を日本へと流すことを約束しました。

1905年 - 46歳
日清条約に調印

日露戦争終戦後、ポーツマス条約(日露講和条約)において南満洲におけるロシアの利権を日本へと譲渡する際には清国の許可が必要とされていました。清国は日清条約においてこれを承認し、日清戦争後に起こっていた様々な問題についても話し合いの末に解決することになったのです。

1907年 - 48歳
軍機大臣・外務部尚書に就任

袁世凱は李鴻章の没後、西太后の主導で進められた光緒新政で重要なポストを占めるようになりました。諸外国(主に列強各国・日本、ドイツ、ロシア、イギリス、フランス)から借金をして資金を集め、そのお金で軍の強化、インフラ整備、教育の充実などを行います。1907年には今までの功績を認められ、軍機大臣・外務部尚書に任命されることとなりました。

1909年 - 50歳
光緒帝が死没し、宣統帝が即位したため、袁世凱は失脚する

袁世凱を重役として起用していた光緒帝、西太后が相次いで亡くなったため、次の皇帝として宣統帝が即位することになります。宣統帝の父が摂政として皇帝の側に仕えることとなりましたが、袁世凱と宣統帝の父親は折り合いが悪かったために、袁世凱を失脚させてしまいます。殺害計画も企てられましたが、事前情報を仕入れたことにより、間一髪で免れたのでした。

1911年 - 52歳
辛亥革命勃発

1911年に辛亥革命が発生しましたが、失脚していた袁世凱は当初、蚊帳の外にいました。しかし、朝廷から革命を沈静化するように命じられ、第2代内閣総理大臣に急遽任命されることになるのです。袁世凱は部下を鎮圧に向かわせる一方で、革命派との交信も怠らず、自らの将来的なポストが保証されることを確信すると、革命派へと寝返り、朝廷を政権交代へと追いやることになるのでした。

1912年 - 53歳
中華民国の臨時大総統に

辛亥革命により大ダメージを受けた朝廷は立て直しが効かず、1912年2月に滅びることになりました。清国最後の皇帝となる宣統帝が上諭を発布し、清朝の滅亡を決定づけます。その3日後に新生中華民国の臨時大総統を決める話し合いにて、袁世凱は満場一致での就任を獲得するのでした。

1913年 - 54歳
国民党トップである宋教仁を暗殺

臨時大総統に就任した袁世凱は独裁国家を作り上げるべく奔走していました。一方で、宋教仁率いる国民党が議院内閣制の重要性を説き、これが国民の支持を集めることとなり、選挙で勝利をもぎ取ります。これ以降、袁世凱は宋教仁を警戒し、共同で政治を行うよう促していましたが、応じなかっため、1913年の3月に宋教仁を暗殺してしまうのでした。

1915年 - 56歳
21ヶ条の要求を承認する

1915年1月、日本政府は主に満洲における日本の権益を主張する「対華21ヶ条の要求」を袁世凱へと突きつけます。当初、袁世凱は交渉を遅らせるなどして抵抗していましたが、1915年の5月9日に要求を受理しました。現在の中国ではこの日付を「五九国恥日」と呼び、愛国派の活動する日としています。

1916年 - 56歳
中華帝国の発足

1915年には皇帝即位運動を主導し、帝政の復活を行いました。翌年の1916年には年号を「洪憲」と改め、国の名称を「中華帝国」とします。しかし、学生や地方軍閥をはじめとする人々や袁世凱の部下までもがこの動きに反抗し、3カ月足らずで帝政は廃止に追い込まれました。

袁世凱の年表

1859年 – 0歳「中国河南省にて袁世凱誕生」

袁世凱

中国河南省の名家に袁世凱が誕生

袁世凱は1859年9月16日、中国河南省にある項城という都市で生まれました。両親は名家の出身で、親族からは官僚や軍人が数多く出ている家柄であったため、袁世凱も小さい頃から役人として登りつめることを夢見ていたそうです。

官吏登用試験「科挙」への挑戦も、落第

科挙の様子

役人の座を目指していた袁世凱は、国家の中枢を担う官僚の登用試験として世に浸透していた「科挙」を受験することになります。しかし、その倍率は非常に高く、どんなに能力のある人間でも容易に通ることはできない試験のため、2度の受験で、2度とも本試験に進むことなく落第してしまうのでした。

隋から清の時代にかけて1300年近くも続いていた「科挙」ですが、最盛期の倍率は約3000倍に達していたとも言われています。合格者の平均年齢は35歳ほどで、受験勉強が過酷なあまりに過労死が起こることもしばしばでした。

1881年 – 22歳「李鴻章の淮軍に所属し、幕僚となる」

李鴻章

淮軍の幕僚に

科挙を通ることの出来なかった袁世凱は李鴻章率いる淮軍に入り、軍人となることを決意します。1881年には淮軍の呉長慶総督の幕僚となり、朝鮮へと渡りました。そこで勃発した壬午事変と甲申政変の鎮圧に尽力し、事態を清国の有利に運ぶように計らいました。

淮軍

その功績を讃えられ、1885年には駐朝鮮交渉通商事宜に任命されます。李鴻章の元で朝鮮の政治と外交に対する権力を握るようになるのでした。

1894年 – 35歳「日清戦争の勃発」

日清戦争の風刺画

甲午農民戦争の発生

袁世凱は朝鮮に対する権力を行使できるようになってから、朝鮮における清国の影響力を拡大していきました。政治的にも経済的にも順調に事が進んでいましたが、貧困と政治の圧力に耐えられなくなった農民が1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)を引き起こしました。

甲午農民戦争

これを鎮圧するために清国に勢力の加算を要請しましたが、日本もこれに対抗して軍隊を参加させ、徐々に情勢は悪化していきます。

日清戦争勃発

甲午農民戦争に加勢した清国と日本の間で軋轢が生まれ、より大きな戦争へと発展していきます。甲午農民戦争自体は鎮圧へと向かっていったのですが、国同士の争いが冷めず、日清戦争が勃発しました。

日清戦争 絵報

結果としては清国が大敗を喫し、責任を問われた李鴻章が失脚するという事態に見舞われました。袁世凱は陸軍の司令部に所属することになり、日清戦争で軍隊の強化と近代化を痛感したことをきっかけに、近代兵器の開発や兵隊の訓練強化を進めます。袁世凱の作り上げた軍隊は当時の列強諸国にも高評価を得るほどの完成度となりました。

1900年 – 41歳「義和団の乱(義和団事件)で軍隊を温存し、勢力を強める」

義和団の乱

義和団の乱を逆手にとって勢力を強める

1899年から徐々に規模が大きくなっていった義和団の乱に対し、朝廷は加勢をするよう袁世凱に命令します。しかし、袁世凱は自身の統治下の反乱を早々に鎮め、朝廷の命令に背いて軍隊を温存する事に決めました。

義和団の乱

最終的に義和団は列強各国に弾圧され、朝廷も大打撃を受けます。その一方で袁世凱の軍隊は力をためていたため、相対的に勢力を強めることとなりました。

北洋通商大臣かつ直隷総督の座に

1901年に袁世凱の上官であった李鴻章が亡くなると、袁世凱は北洋通商大臣と直隷総督に就任します。これは李鴻章の計らいでもありました。袁世凱は重要なポストを占めるようになったことで、さらに国家の政治に対する権力を強めていったのでした。

北洋軍

これまでの陸軍の総指揮に就いていながらも北洋通商大臣の任務も引き受けたため、さらなる軍事力の強化をはかり、北洋軍という強力な部隊を作り上げる事になりました。

1905年 – 46歳「日露戦争で事実上、日本への加勢」

日露戦争 風刺画

日露戦争・公には中立という立場を示していたが、実際は日本に加勢

1904年に日露戦争が勃発した際、清国は中立の立場を表明していましたが、日露戦争が起こる直前の1903年に日本陸軍軍人の青木宣純に会見し、日本への情報提供を行う旨を約束していました。スパイ業や秘密裏の軍隊により日本を援助し、実質上の加勢という立場で立ち回ったのです。

ポーツマス会議

戦争の結果、日本側の勝利が確定し、1905年にポーツマス条約が締結されました。ポーツマス条約に乗せられていた満州国に関する条文を日清条約にも盛り込み、袁世凱はこれに調印することとなります。そして、これを機に日清戦争以後問題となっていた日本と清国の間の軋轢に関しても話し合う事で合意しました。

1907年 – 48歳「光緒新政で中核を担う」

光緒帝

光緒帝・西太后のもとで政治の権力の一端を担う

袁世凱は、1901年から行われていた光緒帝・西太后による「光緒新政」の中心的人物として活躍するようになります。「光緒新政」は立憲君主制への移行、科挙の廃止などの教育改革、新軍の強化などを政権公約として掲げていました。

西太后

袁世凱は列強各国からの借金により資金を集め、その財源を用いて軍隊強化、教育改革、インフラ整備を推し進めていきました。これらの業績を認められ、1907年には軍機大臣・外務部尚書というポストに就くことになります。

光緒帝、西太后の死没とともに袁世凱の失脚

1908年に光緒帝が亡くなると、立て続けに西太后も病気で帰らぬ人となってしまいます。光緒帝の後継として宣統帝が皇帝の座につくと、その父親が摂政のポストを占めるようになり、事実上の実権を握りました。もともと宣統帝の父と袁世凱は折り合いが悪かったために、この機会に袁世凱の失脚を計ります。

宣統帝 愛新覚羅溥儀

そして、その上で袁世凱・暗殺計画まで企てました。袁世凱は暗殺計画の情報を親しいものから仕入れ、間一髪で免れるところとなるのです。

1911年 – 52歳「辛亥革命勃発」

辛亥革命

辛亥革命が発生し、袁世凱に鎮圧の依頼

1911年10月、孫文が指揮する革命軍が反乱を起こし、辛亥革命が勃発します。革命軍は武昌と漢陽を制圧していきますが、清国は反乱を抑える事にことごとく失敗していきました。朝廷内には絶対的リーダーがいなかったために、この反乱を抑えられるのは袁世凱しかいないという事で、鎮圧の依頼を受けることになります。

革命軍のリーダー 孫文

朝廷に第2代内閣総理大臣として迎え入れられた袁世凱は革命を鎮圧するべく、部下たちを戦場へと向かわせましたが、自身は密かに革命軍と連絡を取り合い、革命派の勢いが優勢だということを悟ると、一転して革命軍の味方につき、朝廷を攻撃するのでした。

ラストエンペラー 宣統帝(愛新覚羅溥儀)

観念した清朝に対して、袁世凱は政権の交代を要求します。そして、1912年2月に清朝は滅亡し、最後の皇帝である宣統帝は退位するという事態に見舞われました。

袁世凱が新生中華民国の臨時大総統に

辛亥革命により清朝が滅亡してから3日後、新生中華民国のリーダーを決める会議で、決を採ると、満場一致で袁世凱を臨時大総統に推す声が上がりました。晴れて国の元首となった袁世凱は独裁国家を目指して政治を進めていきます。

宋教仁

そのかたわらで、宋教仁の率いる国民党が議院内閣制の重要性を説き、国民の支持を得つつありました。そして、1912年12月の選挙で国民党が勝利を飾るのでした。

これに危機感を抱いた袁世凱は宋教仁をかくまおうとしますが、宋教仁はこれに反発します。これをきっかけに、自身の権力の保持と独裁政治を目論んでいた袁世凱は宋教仁を暗殺してしまうのでした。

1915年 – 56歳「21ヶ条の要求を承諾する」

21ヶ条の要求 署名

日本の満州権益などを盛り込んだ「21ヶ条の要求」にサイン

第一次世界大戦の最中、1915年1月に日本から21ヶ条の要求を突きつけられます。この要求の内容は主に満州やドイツ租借地(山東半島など)における日本の権益を主張するものであり、中国側としては到底飲み込めない条件でした。

満州鉄道

袁世凱は承諾を先延ばしにして煙に巻こうとしましたが、1915年5月9日に承認せざるを得なくなりました。中国ではこの5月9日を「五九国恥日」と呼んでおり、愛国派の活動が行われる日として定着しています。

帝政の復活、廃止

袁世凱は再び帝政を復活させようと皇帝即位運動を行います。側近にも働きかけ、なかば強引に帝政を復活させるのでした。1916年に国の名称を中華帝国と改め、立憲君主制の成立へ向けて奔走するようになります。

中華帝国の国旗

しかし、これら一連の行動が民衆や袁世凱の部下までにも反感を買い、多大な批判を受ける事になりました。結局、帝政は復活してわずか3ヶ月で廃止に追い込まれます。

1916年 – 56歳「袁世凱の死去・死因は尿毒症」

袁世凱

帝政騒動ののち3ヶ月後に帰らぬ人になる・死因は尿毒症

帝政の復活廃止騒動で民衆の支持も下落し、権威が落ちてしまった袁世凱は立憲君主制の先行きが怪しいことも悟り、しばらくは鳴りをひそめる事になりました。その頃から徐々に体調が悪化し始め、6月には尿毒症の症状が顕著に現れるようになります。

帝政騒動から3ヶ月後の1916年6月、尿毒症にて帰らぬ人となりました。

袁世凱亡き後は絶対的なリーダーがなかなか現れなかったため、各地で軍閥が勢力を強めるという混沌とした世の中になっていきます。

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袁世凱についてのまとめ

袁世凱は名家の家に生まれたということもあって、幼い頃から立身出世の上昇志向が強かったようですが、その夢が叶って大国の大総統にまで登り詰めます。朝廷や上司の命令に背いたことが多いことから裏切り者として扱われることも多い袁世凱ですが、その政治的立ち回りや頭の切れ味は相当なものでした。

最後は皇帝制度の復活に失敗し、失意の底に沈んだまま、亡くなってしまいますが、激動の時代を駆け抜けたその功績は今後も語り継がれることでしょう。

今回は袁世凱について紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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