1907年 – 48歳「光緒新政で中核を担う」
光緒帝・西太后のもとで政治の権力の一端を担う
袁世凱は、1901年から行われていた光緒帝・西太后による「光緒新政」の中心的人物として活躍するようになります。「光緒新政」は立憲君主制への移行、科挙の廃止などの教育改革、新軍の強化などを政権公約として掲げていました。
袁世凱は列強各国からの借金により資金を集め、その財源を用いて軍隊強化、教育改革、インフラ整備を推し進めていきました。これらの業績を認められ、1907年には軍機大臣・外務部尚書というポストに就くことになります。
光緒帝、西太后の死没とともに袁世凱の失脚
1908年に光緒帝が亡くなると、立て続けに西太后も病気で帰らぬ人となってしまいます。光緒帝の後継として宣統帝が皇帝の座につくと、その父親が摂政のポストを占めるようになり、事実上の実権を握りました。もともと宣統帝の父と袁世凱は折り合いが悪かったために、この機会に袁世凱の失脚を計ります。
そして、その上で袁世凱・暗殺計画まで企てました。袁世凱は暗殺計画の情報を親しいものから仕入れ、間一髪で免れるところとなるのです。
1911年 – 52歳「辛亥革命勃発」
辛亥革命が発生し、袁世凱に鎮圧の依頼
1911年10月、孫文が指揮する革命軍が反乱を起こし、辛亥革命が勃発します。革命軍は武昌と漢陽を制圧していきますが、清国は反乱を抑える事にことごとく失敗していきました。朝廷内には絶対的リーダーがいなかったために、この反乱を抑えられるのは袁世凱しかいないという事で、鎮圧の依頼を受けることになります。
朝廷に第2代内閣総理大臣として迎え入れられた袁世凱は革命を鎮圧するべく、部下たちを戦場へと向かわせましたが、自身は密かに革命軍と連絡を取り合い、革命派の勢いが優勢だということを悟ると、一転して革命軍の味方につき、朝廷を攻撃するのでした。
観念した清朝に対して、袁世凱は政権の交代を要求します。そして、1912年2月に清朝は滅亡し、最後の皇帝である宣統帝は退位するという事態に見舞われました。
袁世凱が新生中華民国の臨時大総統に
辛亥革命により清朝が滅亡してから3日後、新生中華民国のリーダーを決める会議で、決を採ると、満場一致で袁世凱を臨時大総統に推す声が上がりました。晴れて国の元首となった袁世凱は独裁国家を目指して政治を進めていきます。
そのかたわらで、宋教仁の率いる国民党が議院内閣制の重要性を説き、国民の支持を得つつありました。そして、1912年12月の選挙で国民党が勝利を飾るのでした。
これに危機感を抱いた袁世凱は宋教仁をかくまおうとしますが、宋教仁はこれに反発します。これをきっかけに、自身の権力の保持と独裁政治を目論んでいた袁世凱は宋教仁を暗殺してしまうのでした。
1915年 – 56歳「21ヶ条の要求を承諾する」
日本の満州権益などを盛り込んだ「21ヶ条の要求」にサイン
第一次世界大戦の最中、1915年1月に日本から21ヶ条の要求を突きつけられます。この要求の内容は主に満州やドイツ租借地(山東半島など)における日本の権益を主張するものであり、中国側としては到底飲み込めない条件でした。
袁世凱は承諾を先延ばしにして煙に巻こうとしましたが、1915年5月9日に承認せざるを得なくなりました。中国ではこの5月9日を「五九国恥日」と呼んでおり、愛国派の活動が行われる日として定着しています。
帝政の復活、廃止
袁世凱は再び帝政を復活させようと皇帝即位運動を行います。側近にも働きかけ、なかば強引に帝政を復活させるのでした。1916年に国の名称を中華帝国と改め、立憲君主制の成立へ向けて奔走するようになります。
しかし、これら一連の行動が民衆や袁世凱の部下までにも反感を買い、多大な批判を受ける事になりました。結局、帝政は復活してわずか3ヶ月で廃止に追い込まれます。
1916年 – 56歳「袁世凱の死去・死因は尿毒症」
帝政騒動ののち3ヶ月後に帰らぬ人になる・死因は尿毒症
帝政の復活廃止騒動で民衆の支持も下落し、権威が落ちてしまった袁世凱は立憲君主制の先行きが怪しいことも悟り、しばらくは鳴りをひそめる事になりました。その頃から徐々に体調が悪化し始め、6月には尿毒症の症状が顕著に現れるようになります。
帝政騒動から3ヶ月後の1916年6月、尿毒症にて帰らぬ人となりました。
袁世凱亡き後は絶対的なリーダーがなかなか現れなかったため、各地で軍閥が勢力を強めるという混沌とした世の中になっていきます。
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袁世凱についてのまとめ
袁世凱は名家の家に生まれたということもあって、幼い頃から立身出世の上昇志向が強かったようですが、その夢が叶って大国の大総統にまで登り詰めます。朝廷や上司の命令に背いたことが多いことから裏切り者として扱われることも多い袁世凱ですが、その政治的立ち回りや頭の切れ味は相当なものでした。
最後は皇帝制度の復活に失敗し、失意の底に沈んだまま、亡くなってしまいますが、激動の時代を駆け抜けたその功績は今後も語り継がれることでしょう。
今回は袁世凱について紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。