袁世凱の簡単年表
中国の河南省項城で名家の家に生まれました。親族から多数の官僚や軍人が出ていたことから、袁世凱も立身出世の欲が強かったそうです。
中国の管理登用試験として当時重要視されていた「科挙」を袁世凱も受けることになりました。しかし、その倍率は非常に高く、優秀な人物でも確実に受かることは保証されないような試験のため、袁世凱も苦戦を強いられました。結局、本試験への第一関門で引っかかり、落第となります。
袁世凱は李鴻章のもとで働くようになり、淮軍の幕僚として迎えられることとなりました。3年後の1885年には駐朝鮮交渉通商事宜を任せられることになり、朝鮮国の政治と外交にたずさわることになります。
袁世凱は朝鮮を清国の統制下に抱え込もうとしましたが、1894年に農民の反感が沸点に達し、甲午農民戦争が勃発します。そこへ介入してきた日本軍と清国の軍隊が衝突し、大きな戦争へと発展するのです。これが日清戦争のきっかけとなりました。
1894年に甲午農民戦争を発端として開戦した日清戦争は清国の大敗という結果に終わりました。袁世凱の上官であった李鴻章は責任を追求されて失脚し、袁世凱自身は陸軍をまとめる部署を任せられることになりました。日清戦争で軍隊の近代化の重要性に気づいた袁世凱は兵器を新調し、軍隊の強化を図っていったのです。
1899年から徐々に激しさを増していった義和団の乱に対して、加勢するようにとの通達が朝廷から袁世凱に送られて来ます。しかし、欧米列強の相手に手こずっていた朝廷を尻目に、袁世凱は自らの管轄の地域の反乱を早々に沈め、軍隊を温存することを決意します。最終的に、朝廷率いる清軍は欧米各国に壊滅状態にされたため、相対的に袁世凱の軍隊が力を強めることになりました。
1901年に李鴻章が亡くなると、その命を受けて北洋通商大臣と直隷総督の座に就くことになります。軍隊の強化には引き続き力を入れ、北洋軍を発足しました。もともと就いていた陸軍の立場とともに大臣、総督の称号も得たので、政治的な権力を多く有するようになりました。
1904年に開戦する日露戦争では清国の立場は中立とされていたが、その前年の1903年に日本の陸軍軍人である青木宣純と会談を行い、ロシアの情報を日本へと流すことを約束しました。
日露戦争終戦後、ポーツマス条約(日露講和条約)において南満洲におけるロシアの利権を日本へと譲渡する際には清国の許可が必要とされていました。清国は日清条約においてこれを承認し、日清戦争後に起こっていた様々な問題についても話し合いの末に解決することになったのです。
袁世凱は李鴻章の没後、西太后の主導で進められた光緒新政で重要なポストを占めるようになりました。諸外国(主に列強各国・日本、ドイツ、ロシア、イギリス、フランス)から借金をして資金を集め、そのお金で軍の強化、インフラ整備、教育の充実などを行います。1907年には今までの功績を認められ、軍機大臣・外務部尚書に任命されることとなりました。
袁世凱を重役として起用していた光緒帝、西太后が相次いで亡くなったため、次の皇帝として宣統帝が即位することになります。宣統帝の父が摂政として皇帝の側に仕えることとなりましたが、袁世凱と宣統帝の父親は折り合いが悪かったために、袁世凱を失脚させてしまいます。殺害計画も企てられましたが、事前情報を仕入れたことにより、間一髪で免れたのでした。
1911年に辛亥革命が発生しましたが、失脚していた袁世凱は当初、蚊帳の外にいました。しかし、朝廷から革命を沈静化するように命じられ、第2代内閣総理大臣に急遽任命されることになるのです。袁世凱は部下を鎮圧に向かわせる一方で、革命派との交信も怠らず、自らの将来的なポストが保証されることを確信すると、革命派へと寝返り、朝廷を政権交代へと追いやることになるのでした。
辛亥革命により大ダメージを受けた朝廷は立て直しが効かず、1912年2月に滅びることになりました。清国最後の皇帝となる宣統帝が上諭を発布し、清朝の滅亡を決定づけます。その3日後に新生中華民国の臨時大総統を決める話し合いにて、袁世凱は満場一致での就任を獲得するのでした。
臨時大総統に就任した袁世凱は独裁国家を作り上げるべく奔走していました。一方で、宋教仁率いる国民党が議院内閣制の重要性を説き、これが国民の支持を集めることとなり、選挙で勝利をもぎ取ります。これ以降、袁世凱は宋教仁を警戒し、共同で政治を行うよう促していましたが、応じなかっため、1913年の3月に宋教仁を暗殺してしまうのでした。
1915年1月、日本政府は主に満洲における日本の権益を主張する「対華21ヶ条の要求」を袁世凱へと突きつけます。当初、袁世凱は交渉を遅らせるなどして抵抗していましたが、1915年の5月9日に要求を受理しました。現在の中国ではこの日付を「五九国恥日」と呼び、愛国派の活動する日としています。
1915年には皇帝即位運動を主導し、帝政の復活を行いました。翌年の1916年には年号を「洪憲」と改め、国の名称を「中華帝国」とします。しかし、学生や地方軍閥をはじめとする人々や袁世凱の部下までもがこの動きに反抗し、3カ月足らずで帝政は廃止に追い込まれました。
袁世凱の年表
1859年 – 0歳「中国河南省にて袁世凱誕生」
中国河南省の名家に袁世凱が誕生
袁世凱は1859年9月16日、中国河南省にある項城という都市で生まれました。両親は名家の出身で、親族からは官僚や軍人が数多く出ている家柄であったため、袁世凱も小さい頃から役人として登りつめることを夢見ていたそうです。
官吏登用試験「科挙」への挑戦も、落第
役人の座を目指していた袁世凱は、国家の中枢を担う官僚の登用試験として世に浸透していた「科挙」を受験することになります。しかし、その倍率は非常に高く、どんなに能力のある人間でも容易に通ることはできない試験のため、2度の受験で、2度とも本試験に進むことなく落第してしまうのでした。
隋から清の時代にかけて1300年近くも続いていた「科挙」ですが、最盛期の倍率は約3000倍に達していたとも言われています。合格者の平均年齢は35歳ほどで、受験勉強が過酷なあまりに過労死が起こることもしばしばでした。
1881年 – 22歳「李鴻章の淮軍に所属し、幕僚となる」
淮軍の幕僚に
科挙を通ることの出来なかった袁世凱は李鴻章率いる淮軍に入り、軍人となることを決意します。1881年には淮軍の呉長慶総督の幕僚となり、朝鮮へと渡りました。そこで勃発した壬午事変と甲申政変の鎮圧に尽力し、事態を清国の有利に運ぶように計らいました。
その功績を讃えられ、1885年には駐朝鮮交渉通商事宜に任命されます。李鴻章の元で朝鮮の政治と外交に対する権力を握るようになるのでした。
1894年 – 35歳「日清戦争の勃発」
甲午農民戦争の発生
袁世凱は朝鮮に対する権力を行使できるようになってから、朝鮮における清国の影響力を拡大していきました。政治的にも経済的にも順調に事が進んでいましたが、貧困と政治の圧力に耐えられなくなった農民が1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)を引き起こしました。
これを鎮圧するために清国に勢力の加算を要請しましたが、日本もこれに対抗して軍隊を参加させ、徐々に情勢は悪化していきます。
日清戦争勃発
甲午農民戦争に加勢した清国と日本の間で軋轢が生まれ、より大きな戦争へと発展していきます。甲午農民戦争自体は鎮圧へと向かっていったのですが、国同士の争いが冷めず、日清戦争が勃発しました。
結果としては清国が大敗を喫し、責任を問われた李鴻章が失脚するという事態に見舞われました。袁世凱は陸軍の司令部に所属することになり、日清戦争で軍隊の強化と近代化を痛感したことをきっかけに、近代兵器の開発や兵隊の訓練強化を進めます。袁世凱の作り上げた軍隊は当時の列強諸国にも高評価を得るほどの完成度となりました。
1900年 – 41歳「義和団の乱(義和団事件)で軍隊を温存し、勢力を強める」
義和団の乱を逆手にとって勢力を強める
1899年から徐々に規模が大きくなっていった義和団の乱に対し、朝廷は加勢をするよう袁世凱に命令します。しかし、袁世凱は自身の統治下の反乱を早々に鎮め、朝廷の命令に背いて軍隊を温存する事に決めました。
最終的に義和団は列強各国に弾圧され、朝廷も大打撃を受けます。その一方で袁世凱の軍隊は力をためていたため、相対的に勢力を強めることとなりました。
北洋通商大臣かつ直隷総督の座に
1901年に袁世凱の上官であった李鴻章が亡くなると、袁世凱は北洋通商大臣と直隷総督に就任します。これは李鴻章の計らいでもありました。袁世凱は重要なポストを占めるようになったことで、さらに国家の政治に対する権力を強めていったのでした。
これまでの陸軍の総指揮に就いていながらも北洋通商大臣の任務も引き受けたため、さらなる軍事力の強化をはかり、北洋軍という強力な部隊を作り上げる事になりました。
1905年 – 46歳「日露戦争で事実上、日本への加勢」
日露戦争・公には中立という立場を示していたが、実際は日本に加勢
1904年に日露戦争が勃発した際、清国は中立の立場を表明していましたが、日露戦争が起こる直前の1903年に日本陸軍軍人の青木宣純に会見し、日本への情報提供を行う旨を約束していました。スパイ業や秘密裏の軍隊により日本を援助し、実質上の加勢という立場で立ち回ったのです。
戦争の結果、日本側の勝利が確定し、1905年にポーツマス条約が締結されました。ポーツマス条約に乗せられていた満州国に関する条文を日清条約にも盛り込み、袁世凱はこれに調印することとなります。そして、これを機に日清戦争以後問題となっていた日本と清国の間の軋轢に関しても話し合う事で合意しました。