オッペンハイマーは原子爆弾の製作を主導した人物で、「原爆の父」とも呼ばれています。広島・長崎に原爆が投下された際にはその成果を賞賛され、本人も喜びに浸っていたそうですが、実際の惨状を目の当たりにすると、その考えは一変し、自分のしてしまったことに怯えるようになりました。
第二次世界大戦終戦後は、その罪滅ぼしのために核兵器撲滅を訴える活動を展開するようになります。そして、この核兵器廃絶運動にはアインシュタインも賛同し、核廃絶に向けて奔走するのでした。
オッペンハイマーは幼少期から化学や数学に興味を持ち、その鋭敏な頭脳によってハーバード大学化学専攻に入学し、優秀な成績を修めてわずか3年で卒業します。その後、各地の大学を転々としながら研究を重ね、第二次世界大戦前にはブラックホールの存在を予言することにもなるのでした。
終戦から70年以上がたった今でも、原爆の記憶は多くの当事者たちの脳裏に焼き付いていると思いますが、なぜあのような惨劇が起きてしまったのでしょうか。原爆製作を主導したオッペンハイマーにもその要因はありますが、彼だけの責任ではないのです。
今年、原爆投下から75年が経ち、その惨状を知らない世代が増えてきたことに危機感を感じ、もう一度当時の戦争下の様子を調べてみようと思い、オッペンハイマーに行き当たった筆者が、彼に関する文献を漁って得た知識を元に、オッペンハイマーの生涯、原爆製作の経緯、意外なエピソードについてご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
オッペンハイマーとはどんな人物か
名前 | ロバート・オッペンハイマー |
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誕生日 | 1904年4月22日 |
没日 | 1967年2月18日 |
生地 | アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク |
没地 | アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン |
配偶者 | キャサリン・キティ・ハリソン(1940-1967) |
埋葬場所 | 不明 |
オッペンハイマーの生涯をハイライト
オッペンハイマーの生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1904年4月22日、ニューヨークにて誕生
- 幼少期から科学や数学に興味を持つ
- ハーバード大学で化学を専攻し、3年で卒業
- ケンブリッジ大学を経て、ゲッティンゲン大学へ移籍し、博士号取得
- 「ボルン-オッペンハイマー近似」の発表
- カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の助教授に
- ブラックホールの研究をするも、第二次世界大戦勃発後に「マンハッタン計画」への参加を求められる
- 1945年に原子爆弾を完成させ、広島・長崎へ投下される
- 核兵器廃絶運動を行う
- マッカーサーによる「赤狩り」の影響で公職追放となる
- 咽頭癌の診断を受け、治療するも完治せず、1967年2月18日に帰らぬ人に
オッペンハイマーの幼少期は?裕福な家の生まれだった?
オッペンハイマーはドイツからの移民である父・ジュリアスと画家の母・エラ・フリードマンの子供として誕生します。父・ジュリアスは起業家として成功していたため、オッペンハイマーは裕福な幼少期を過ごすことになりました。
オッペンハイマーは幼い頃から数学や化学などの学問に興味を示し、知識の吸収も非常に早かったようです。理系の学問以外にも昔の詩や他国の言葉などにも好奇心を持ち、最終的には6ヶ国語を話せるようになりました。スポーツは苦手でしたが、乗馬やセーリングに親しんでいたそうです。
オッペンハイマーの原爆開発の理由・経緯
ルーズベルト大統領は原爆開発にあたって、優秀な化学者や物理学者の収集が必要であると判断し、オッペンハイマーに声をかけることとなったのです。
そして、ロスアラモスの地に国立研究所を設立し、そこへ名だたる化学者、物理学者を集めたのでした。ここから史上最悪の兵器、原子爆弾が製造されることとなります。
オッペンハイマーとアインシュタインとの関係性は?
オッペンハイマーとアインシュタインは原子爆弾開発の際の重要人物として取り上げられることが多いため、原爆開発で深い関係を持っていたというイメージを抱かれがちですが、実際には原子爆弾の開発における関係性はほとんどありませんでした。
アインシュタインはルーズベルト大統領への信書に署名したのみで、原爆の開発には一切関わっていません。それどころか原爆開発が始動したことすら知らなかったそうです。
オッペンハイマーとアインシュタインが密な関係を持つようになったのはプリンストン高等研究所にともに属するようになってからです。そして、二人は原爆研究に関わってしまった罪悪感から、核兵器の廃絶を訴える活動をともに展開していくのでした。
オッペンハイマーの功績
功績1「ボルン-オッペンハイマー近似の発表」
オッペンハイマーの研究でもっとも有名なのは「ボルン-オッペンハイマー近似」です。この研究はゲッティンゲン大学在籍時にマックス・ボルンと共同で行ったもので、電子と原子核の運動を分離して、それぞれの運動を表す近似法として発表されました。原子核の質量が電子の質量を無視できるほど大きいために成り立つ近似となっています。
この近似の発表により、フランク=コンドンの原理(分子内の2つの電子状態の間で遷移が起こる場合、原子核の位置は変化しないという法則:光を分解して、分類する技術に応用されている)の立証にも役立てることが出来たのでした。
功績2「水爆実験や核の拡散に反対」
マンハッタン計画に参加し、原子爆弾を作り上げたオッペンハイマーは、原爆が広島・長崎に落とされたことに多大なショックを受けます。第二次世界大戦終戦後は、その罪滅ぼしのために水爆実験や核の拡散に反対し、撲滅する活動を行うようになりました。
マンハッタン計画に参加した一部の科学者たちは終戦後も水爆実験などを積極的に施行したため、オッペンハイマーは彼らと対立することになります。しかし、オッペンハイマーは信念を曲げることなく、核兵器の廃絶のためにアインシュタインらとともに活動し続けるのでした。
功績3「ブラックホールの存在を予知 」
第二次世界大戦が始まる直前まで、オッペンハイマーはブラックホールに関する研究を行っていました。当時はブラックホールの存在が知られておらず、名前すらつけられていませんでしたが、宇宙物理学を突き詰めるに連れて、ブラックホールの存在があるのではないかと考えるようになります。
思考実験によりブラックホールの存在を確信したオッペンハイマーは1939年にその存在を予知することになるのでした。
ブラックホールという名前が初めて世に登場したのは、1964年の「サイエンス・ニュースレター」の記事においてです。つまり、オッペンハイマーが予言してから約30年の月日を経て、その存在が確信されるようになったのでした。
オッペンハイマーの名言
「科学者は罪を知った。」
マンハッタン計画に多数の科学者が送り込まれ、人類史上最悪の兵器・原子爆弾を作り上げてしまったことを悔いた言葉です。普段は世の中のためになるような研究を重ねている科学者たちが、人を殺すための核兵器を製造したという罪は世界中の全ての人が忘れてはならないことでしょう。
「原子力は生と死の両面を持った神である。」
原子力はうまく利用すれば人類にとって貴重なエネルギー源を供給してくれますが、一歩間違えば悪夢へと引き摺り込む力も持ち合わせているということを意味しています。ハイリスクハイリターンの原子力の扱い方は今後も人類全体で考えるべき大きな課題と言えるでしょう。
「技術的に甘美なものを見たときには、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する。」
一見非常に有用に見える発明をしたとしても、大きなリスクを伴う可能性があります。安全性を確認した上で使用することを心がけるのはどの分野に関しても同様のことが言えるでしょう。この言葉はとりわけ、原子力を指して発せられたものではないでしょうか。