小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

オッペンハイマーとはどんな人?生涯・年表まとめ【原爆誕生の経緯や謎、功績や名言についても紹介】

オッペンハイマーは原子爆弾の製作を主導した人物で、「原爆の父」とも呼ばれています。広島・長崎に原爆が投下された際にはその成果を賞賛され、本人も喜びに浸っていたそうですが、実際の惨状を目の当たりにすると、その考えは一変し、自分のしてしまったことに怯えるようになりました。

第二次世界大戦終戦後は、その罪滅ぼしのために核兵器撲滅を訴える活動を展開するようになります。そして、この核兵器廃絶運動にはアインシュタインも賛同し、核廃絶に向けて奔走するのでした。

ロバート・オッペンハイマー

オッペンハイマーは幼少期から化学や数学に興味を持ち、その鋭敏な頭脳によってハーバード大学化学専攻に入学し、優秀な成績を修めてわずか3年で卒業します。その後、各地の大学を転々としながら研究を重ね、第二次世界大戦前にはブラックホールの存在を予言することにもなるのでした。

終戦から70年以上がたった今でも、原爆の記憶は多くの当事者たちの脳裏に焼き付いていると思いますが、なぜあのような惨劇が起きてしまったのでしょうか。原爆製作を主導したオッペンハイマーにもその要因はありますが、彼だけの責任ではないのです。

きのこ雲

今年、原爆投下から75年が経ち、その惨状を知らない世代が増えてきたことに危機感を感じ、もう一度当時の戦争下の様子を調べてみようと思い、オッペンハイマーに行き当たった筆者が、彼に関する文献を漁って得た知識を元に、オッペンハイマーの生涯、原爆製作の経緯、意外なエピソードについてご紹介します。

オッペンハイマーとはどんな人物か

名前ロバート・オッペンハイマー
誕生日1904年4月22日
没日1967年2月18日
生地アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
没地アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン
配偶者キャサリン・キティ・ハリソン(1940-1967)
埋葬場所不明

オッペンハイマーの生涯をハイライト

オッペンハイマー

オッペンハイマーの生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1904年4月22日、ニューヨークにて誕生
  • 幼少期から科学や数学に興味を持つ
  • ハーバード大学で化学を専攻し、3年で卒業
  • ケンブリッジ大学を経て、ゲッティンゲン大学へ移籍し、博士号取得
  • 「ボルン-オッペンハイマー近似」の発表
  • カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の助教授に
  • ブラックホールの研究をするも、第二次世界大戦勃発後に「マンハッタン計画」への参加を求められる
  • 1945年に原子爆弾を完成させ、広島・長崎へ投下される
  • 核兵器廃絶運動を行う
  • マッカーサーによる「赤狩り」の影響で公職追放となる
  • 咽頭癌の診断を受け、治療するも完治せず、1967年2月18日に帰らぬ人に

オッペンハイマーの幼少期は?裕福な家の生まれだった?

オッペンハイマーはドイツからの移民である父・ジュリアスと画家の母・エラ・フリードマンの子供として誕生します。父・ジュリアスは起業家として成功していたため、オッペンハイマーは裕福な幼少期を過ごすことになりました。

勉強 イメージ

オッペンハイマーは幼い頃から数学や化学などの学問に興味を示し、知識の吸収も非常に早かったようです。理系の学問以外にも昔の詩や他国の言葉などにも好奇心を持ち、最終的には6ヶ国語を話せるようになりました。スポーツは苦手でしたが、乗馬やセーリングに親しんでいたそうです。

オッペンハイマーの原爆開発の理由・経緯

フランクリン・ルーズベルト

ルーズベルト大統領は原爆開発にあたって、優秀な化学者や物理学者の収集が必要であると判断し、オッペンハイマーに声をかけることとなったのです。

そして、ロスアラモスの地に国立研究所を設立し、そこへ名だたる化学者、物理学者を集めたのでした。ここから史上最悪の兵器、原子爆弾が製造されることとなります。

オッペンハイマーとアインシュタインとの関係性は?

オッペンハイマーとアインシュタインは原子爆弾開発の際の重要人物として取り上げられることが多いため、原爆開発で深い関係を持っていたというイメージを抱かれがちですが、実際には原子爆弾の開発における関係性はほとんどありませんでした。

アインシュタイン

アインシュタインはルーズベルト大統領への信書に署名したのみで、原爆の開発には一切関わっていません。それどころか原爆開発が始動したことすら知らなかったそうです。

オッペンハイマーとアインシュタインが密な関係を持つようになったのはプリンストン高等研究所にともに属するようになってからです。そして、二人は原爆研究に関わってしまった罪悪感から、核兵器の廃絶を訴える活動をともに展開していくのでした。

オッペンハイマーの功績

功績1「ボルン-オッペンハイマー近似の発表」

オッペンハイマーの研究でもっとも有名なのは「ボルン-オッペンハイマー近似」です。この研究はゲッティンゲン大学在籍時にマックス・ボルンと共同で行ったもので、電子と原子核の運動を分離して、それぞれの運動を表す近似法として発表されました。原子核の質量が電子の質量を無視できるほど大きいために成り立つ近似となっています。

ボルン-オッペンハイマー近似

この近似の発表により、フランク=コンドンの原理(分子内の2つの電子状態の間で遷移が起こる場合、原子核の位置は変化しないという法則:光を分解して、分類する技術に応用されている)の立証にも役立てることが出来たのでした。

功績2「水爆実験や核の拡散に反対」

マンハッタン計画に参加し、原子爆弾を作り上げたオッペンハイマーは、原爆が広島・長崎に落とされたことに多大なショックを受けます。第二次世界大戦終戦後は、その罪滅ぼしのために水爆実験や核の拡散に反対し、撲滅する活動を行うようになりました。

世界最大の水爆 レプリカ

マンハッタン計画に参加した一部の科学者たちは終戦後も水爆実験などを積極的に施行したため、オッペンハイマーは彼らと対立することになります。しかし、オッペンハイマーは信念を曲げることなく、核兵器の廃絶のためにアインシュタインらとともに活動し続けるのでした。

功績3「ブラックホールの存在を予知 」

第二次世界大戦が始まる直前まで、オッペンハイマーはブラックホールに関する研究を行っていました。当時はブラックホールの存在が知られておらず、名前すらつけられていませんでしたが、宇宙物理学を突き詰めるに連れて、ブラックホールの存在があるのではないかと考えるようになります。

思考実験によりブラックホールの存在を確信したオッペンハイマーは1939年にその存在を予知することになるのでした。

ブラックホール

ブラックホールという名前が初めて世に登場したのは、1964年の「サイエンス・ニュースレター」の記事においてです。つまり、オッペンハイマーが予言してから約30年の月日を経て、その存在が確信されるようになったのでした。

オッペンハイマーの名言

「科学者は罪を知った。」

マンハッタン計画に多数の科学者が送り込まれ、人類史上最悪の兵器・原子爆弾を作り上げてしまったことを悔いた言葉です。普段は世の中のためになるような研究を重ねている科学者たちが、人を殺すための核兵器を製造したという罪は世界中の全ての人が忘れてはならないことでしょう。

「原子力は生と死の両面を持った神である。」

原子力はうまく利用すれば人類にとって貴重なエネルギー源を供給してくれますが、一歩間違えば悪夢へと引き摺り込む力も持ち合わせているということを意味しています。ハイリスクハイリターンの原子力の扱い方は今後も人類全体で考えるべき大きな課題と言えるでしょう。

「技術的に甘美なものを見たときには、まずやってみて、技術的な成功を確かめた後で、それをどう扱うかを議論する。」

一見非常に有用に見える発明をしたとしても、大きなリスクを伴う可能性があります。安全性を確認した上で使用することを心がけるのはどの分野に関しても同様のことが言えるでしょう。この言葉はとりわけ、原子力を指して発せられたものではないでしょうか。

オッペンハイマーにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「原子爆弾を作ったことを非常に後悔」

オッペンハイマーは原子爆弾を作る計画「マンハッタン計画」の科学者チームのリーダーでした。第二次世界大戦で有利に立つために核兵器の製造に全力を注ぎますが、1945年に実際に原爆が利用されると、その惨状を知って後悔するようになります。

マンハッタン計画の行われた施設

チームの主導者として原爆を作り、「原爆の父」と呼ばれることに負い目を感じるようになったため、終戦後は核兵器廃絶のために様々な活動を展開します。原爆よりもさらに威力のある水素爆弾を作ることにも反対し、一部の科学者とは対抗する形となりますが、生涯を通じてその姿勢を変えることはありませんでした。

都市伝説・武勇伝2「名前の前につけていた『J』という文字の意味は?」

オッペンハイマーは本名がロバート・オッペンハイマーと言いますが、名前を記名する際に「J」を頭文字につけていました。

しかし、この「J」の意味はいまだに誰もわかっていません。ユリウスの「J」ではないかという説、意味はないという説、父親のジュリアスの「J」からとった説、ジュニアと呼ばせる説などが理由としてあげられましたが、どれが本当なのかはわからないままです。

文献によってはジョン・ロバート・オッペンハイマーと記載してあるものもありますが、これも正しいかどうかは分かりませんでした。

都市伝説・武勇伝3「躁鬱(うつ病)から復活」

オッペンハイマーは大学在学中にうつ病になったことがあります。ハーバード大学化学専攻を卒業したのちに、物理学に目覚めたオッペンハイマーはケンブリッジ大学へと移籍し、実験物理を学ぶようになりました。

しかし、手先の器用でないオッペンハイマーは実験がうまくいかないため、ふさぎ込むようになってしまいます。最終的にはうつ病と診断されることになりました。

実験 イメージ

うつ病で気分の優れない日が続きましたが、そのさなかに出会ったプルーストの「失われた時を求めて」を読んで、うつ病からの脱却に成功します。

その後、ニールス・ボーアに影響されて理論物理に興味を持ったオッペンハイマーは研究の場をゲッティンゲン大学に求めて再度移籍しました。

オッペンハイマーの簡単年表

1904年 - 0歳
オッペンハイマー誕生

1904年4月22日、オッペンハイマーはニューヨークで生まれました。ドイツからアメリカへの移民である父・ジュリアス・オッペンハイマーと母・エラ・フリードマンの長男として誕生します。

幼少期
様々な分野に興味を持ち、勉強に励む

幼い頃から数学や化学の勉強が好きで、飲み込みも早かったため、将来を望まれる子供として育てられました。地質学や18世紀の文学にも興味を持ち、言語の習得も早かったため、最終的には6ヶ国語を操るようになります。スポーツの方はあまり得意ではありませんでしたが、乗馬やセーリングには親しみを持っていました。

1922年 - 18歳
ハーバード大学へ入学

ハーバード大学へ入学し、化学を専攻します。成績は非常に優秀であったため、わずか3年で卒業することになりました。

1925年 - 21歳
ケンブリッジ大学に留学

ハーバード大学を卒業すると、ケンブリッジ大学に留学することになります。キャヴェンディッシュ研究所に籍を移して、化学や物理学を勉強していく日々を送りました。オッペンハイマーはケンブリッジ大学で学ぶさなか、のちに量子力学の権威となるニールス・ボーアと出会っています。ボーアからの影響で、物理学にのめり込むようになり、物事の理論を追求していくようになるのでした。

1927年 - 23歳
理論物理学を学ぶためにゲッティンゲン大学へ

理論物理学に興味を示すようになっていたオッペンハイマーはその学問を極めるためにゲッティンゲン大学へと移籍します。勉強や研究を重ね、博士号を取得するに至りました。もっとも有名な研究成果としては「ボルン-オッペンハイマー近似」があります。

1929年 - 25歳
カリフォルニア工科大学の助教授に

博士号を取得すると、大学の講師としての職を受けるようになり、カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学バークレー校の助教授として講義を行うようになりました。

1936年 - 32歳
大学の助教授から教授へ昇進

カリフォルニア大学とカリフォルニア工科大学で教鞭を執り始めてから7年後、助教授から教授へと昇進することになりました。

1938年 - 34歳
ブラックホールの研究に勤しむ

教授として講義を行うかたわらで、自らの研究にも取り組んで行きました。当時は存在が曖昧であったブラックホールの研究を主として、宇宙物理学の探求を進めていったのです。

1942年 - 38歳
マンハッタン計画への参加

1939年に第二次世界大戦が始まると、その3年後の1942年には原子爆弾開発のためにマンハッタン計画が始動されます。翌1943年にはオッペンハイマーが原子爆弾製造研究チームの主導者となったのでした。

1945年 - 41歳
広島・長崎への原爆投下

オッペンハイマーが主導した研究チームは世界で始めて原子爆弾の開発に成功し、ニューメキシコのトリニティで行われた核実験ののちに日本に投下されることが決まりました。8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が投下されます。両方の街を合わせて20万から30万の人が犠牲となりました。統計によってはそれ以上の人が亡くなったのではないかとも言われています。

1947年 - 43歳
プリンストン高等研究所に籍を置く

第二次世界大戦終戦後、1947年にアインシュタインも在籍しているプリンストン高等研究所の所長として迎えられることになりました。一方で、自分が原子爆弾を作ってしまったという深い後悔から、原子力委員会のアドバイザーとしての活動を精力的に行い、世界から核兵器を廃絶することや核兵器競争を無くすよう訴えかけます。

1954年 - 50歳
「赤狩り」によって公職追放となる

1954年にマッカーサー主導で行われた共産党員追放運動、通称「赤狩り」によってオッペンハイマーは公職追放を受けることとなりました。この追放ののち、オッペンハイマーの私生活は常にFBIの監視下に置かれるようになったのでした。

1963年 - 59歳
エンリコ・フェルミ賞受賞

1963年、オッペンハイマーはエンリコ・フェルミ賞を受賞しました。エンリコ・フェルミ賞はアメリカの物理学賞の一つで、エネルギーの開発、使用、生産に関する功績を対象としています。

1965年 - 61歳
咽頭癌発覚

1965年に咽頭癌の診断を受け、手術、放射線療法、化学療法を行いましたが、全てを取り除くことはできませんでした。

1967年 - 62歳
オッペンハイマー死去・死因は咽頭癌

完治することができなかった咽頭癌は徐々に進行して行き、オッペンハイマーは1967年2月には昏睡状態に陥ります。そして2月18日、ニュージャージー州プリンストンの自宅にてそのまま息を引き取るのでした。

オッペンハイマーの年表

1904年 – 0歳「オッペンハイマーの誕生」

1900年代のニューヨーク

ドイツからの移民の子として誕生

オッペンハイマーは1904年4月22日にニューヨークで誕生します。父はドイツで生まれ育ち、20歳を目前にしてアメリカへと移住してきた起業家のジュリアス・オッペンハイマーで、母は東欧ユダヤ人で画家でもあるエラ・フリードマンでした。

幼少期から勉強熱心な子供で、吸収も早かったため、将来を嘱望されていました。数学や化学はもちろん、地質学や昔の文学などにも興味を持ち、次々に習得していきます。言語に関しては最終的に6ヶ国語を話せるようになったと言われています。

1922年 – 18歳「ハーバード大学入学」

ハーバード大学

ハーバード大学で化学を専攻

18歳になると、化学の道を極めるためにハーバード大学の化学専攻へと進みます。非常に優秀な生徒で、成績も最優秀に近い水準を安定して修めていきました。わずか3年でハーバード大学の全ての過程を修了して卒業すると、そのままイギリスのケンブリッジ大学へ留学することになります。

ニールス・ボーア

ケンブリッジ大学ではキャヴェンディッシュ研究所に籍を置き、化学に加えて物理学の世界へものめり込んでいくのでした。

このキャヴェンディッシュ研究所では、後年、量子力学の確立に大いに貢献することになる物理学者ニールス・ボーアと出会うことになります。これ以降、理論物理学に目覚めていくようになるのでした。

理論物理学を極めるためにゲッティンゲン大学へ移籍

理論物理学の奥深さに魅了されたオッペンハイマーは、より学問を極めるために、理論物理学の研究が進んでいるゲッティンゲン大学へと移籍することになります。ゲッティンゲン大学ではマックス・ボルンと共同で「ボルン-オッペンハイマー近似」などの研究成果を上げていくのでした。

博士号取得後は大学に講師として招かれることになります。カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の助教授を兼任して講義を行うこととなりました。7年後には教授へと昇進します。

1938年 – 34歳「ブラックホール研究を行う」

ブラックホール イメージ

宇宙物理学の世界に興味を示し、ブラックホールの研究に携わる

カリフォルニア大学などで教鞭を執るかたわら、宇宙物理学の研究にも精を出していきます。当時はまだよくわかっておらず、名前も付いていなかったブラックホールについての研究を主に取り扱っていました。

中性子星やブラックホールなど当時としては非常に先駆的な研究に取り組み、1939年にはブラックホールの存在を予言することになります。順調に研究が進んでいましたが、その最中に第二次世界大戦が勃発するのでした。

1942年 – 38歳「マンハッタン計画始動、そしてオッペンハイマーの参加」

原子爆弾によるキノコ雲

原子爆弾開発のためのマンハッタン計画始動

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、年々その内容は激化していきます。1942年には原子爆弾開発のため、マンハッタン計画が開始しました。

マンハッタン計画はアメリカ、イギリス、カナダ主導で行われた原子爆弾開発計画で、主要な科学者や技術者たちを囲い込んで、その知識を総動員して遂行された計画です。

マンハッタン

オッペンハイマーはマンハッタン計画に1943年から原爆製造研究チームの化学部門のリーダーとして参加することになります。大規模な計画を効率的に進行させるために管理工学を応用して実験や研究が進められていきました。

計画の成功と原子爆弾の完成

オッペンハイマーの提案により、ロスアラモスにマンハッタン計画の研究所を置くことになります。この地において、原子爆弾制作のために名だたる科学者たちが研究に精を出しました。

ロスアラモス国立研究所

量子力学の権威ニールス・ボーアとエンリコ・フェルミ、IQ300と言われる頭脳の持ち主ジョン・フォン・ノイマン、ファインマン物理学で知られるリチャード・ファインマンなどが関わったとされています。

ちなみに20世紀最高の天才と称されるアインシュタインはルーズベルト大統領からの原爆作成の署名にサインしたことが知られていますが、直接研究には関わっていません。

これらの科学者たちによる研究のもとで原子爆弾の開発が着々と進められ、1945年、ついに完成に至るのでした。

1945年 – 41歳「広島・長崎に原子爆弾投下」

広島平和記念館に展示されている原子爆弾「リトルボーイ」

8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾投下

1945年に完成した原子爆弾はアメリカのニューメキシコ州にて最終確認のための核実験が行われました。「トリニティ実験」と名付けられたこの実験では人類初の原子爆弾「ガジェット」を用いて施行され、鉄製のタワーの上に取り付けた状態で爆発させ、成功に終わります。

そして、1945年8月6日、「ガジェット」と同時並行で制作されていた原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下されます。さらに3日後の8月9日には長崎へ原子爆弾「ファットマン」が投下されました。二つの街で原子爆弾によって犠牲となった人は20万から30万、あるいはそれ以上ともされています。

1947年 – 43歳「核兵器廃絶のための活動を行う」

核兵器廃絶キャンペーン

原子力委員会のアドバイザーとして核兵器撲滅を訴える

第二次世界大戦終戦後、1947年にオッペンハイマーはアインシュタインなどが在籍するプリンストン高等研究所に所長として籍を置くようになります。研究に取り組む一方で、原子力委員会のアドバイザーとなって核兵器の撲滅を目標として活動を展開しました。

原子爆弾制作にも携わっていた「水爆の父」とも呼ばれているエドワード・テラーは終戦後も水爆計画を積極的に行っていたため、オッペンハイマーとは真っ向から対立することとなります。

1954年 – 50歳「マッカーサーの「赤狩り」により公職追放となる」

マッカーサー

共産党員らを追放する「赤狩り」の対象となり、公職追放される

第二次世界大戦後、世界を二分することになった冷戦の開戦を背景にして、マッカーサーが共産党派の著名人らを追放する通称「赤狩り」を決行しました。オッペンハイマーの一家はほとんどがアメリカ共産党員であったため、「赤狩り」の対象となり、公職追放を受けることになります。

共産党員として共産党系の集会に参加したことや機密安全保持疑惑を持たれたことから、私生活においてもFBIの監視下に置かれるようになるなど、これ以後の生活はのっぴきならない状態で過ごすことになるのでした。

1963年 – 59歳「エンリコ・フェルミ賞受賞」

エンリコ・フェルミ

エンリコ・フェルミ賞受賞

オッペンハイマーは1963年にエンリコ・フェルミ賞を受賞しました。この賞はエネルギーの開発、使用、生産において一定の業績をあげた人物に贈られるアメリカの物理学賞の一つです。統計力学や量子力学において顕著な業績を残したエンリコ・フェルミによって創設されました。

エンリコ・フェルミはフェルミ分布、フェルミ準位、フェルミ粒子、フェルミのパラドックス、元素名のフェルミウムなどの語源となっている人物で、実験物理と理論物理の両方において世界最高峰の業績を残した物理界における逸材としてとらえられています。

1967年 – 62歳「オッペンハイマーの死去・死因は咽頭癌」

ニュージャージー州プリンストンの街並み

咽頭癌にて帰らぬ人に

1965年に咽頭癌と診断され、手術、放射線療法、化学療法を行いますが、結果は芳しくなく、病変をすべて取り除くことはできませんでした。その後、徐々に病状は進行し、1967年2月には昏睡状態に陥ります。

そして、1967年2月18日、咽頭癌の進行により帰らぬ人となるのでした。最期はニュージャージー州プリンストンの自宅で看取られました。

オッペンハイマーの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇

マンハッタン計画に参加し、科学者チームのリーダーとして原子爆弾制作を主導したオッペンハイマー。「原爆の父」と呼ばれ、当時は原爆製造の功績を喜んでいましたが、実際の惨状を知ると、後悔の念に晒されるようになります。2006年ピュリッツァー賞受賞作。

原子爆弾 1938~1950年――いかに物理学者たちは、世界を残虐と恐怖へ導いていったか?

広島と長崎に原子爆弾が投下されてから70年の節目に出版された書籍です。ネイチャー誌に「後世に残る傑作」と評された本作は1938年にドイツで核分裂を発見したところから、原子爆弾制作、投下までの経緯を詳細に解説しています。

オッペンハイマー 原爆の父はなぜ水爆開発に反対したか

原子爆弾の出現によって世界を核兵器以前と核兵器以後に分断することになりました。その狭間で運命をともに引き裂かれた科学者オッペンハイマーの一連の活動が記録されています。原爆を作成して賞賛を受けた科学者が一転、自分の成したことに怯えるようになるのでした。

おすすめの動画

【ゆっくり科学者解説】原爆の父 ロバート・オッペンハイマー ゆっくり解説

オッペンハイマーの生涯について、写真を掲載しながら、幼少期から原爆の開発、晩年までをゆっくりな音声で幅広く解説をしています。10分ほどの動画となっているので、オッペンハイマーの年譜を大まかに知りたい方にはおすすめです。

おすすめの映画

Day After Trinity

原子爆弾の製作、広島・長崎への投下に至るまでを詳細に描いています。オッペンハイマーがマンハッタン計画の科学チームのリーダーとして活躍する様子、トリニティ実験の様子、そして、原子爆弾が投下される様子を事実に即して忠実に再現しています。

オッペンハイマーについてのまとめ

オッペンハイマーは幼少期から勉学に優れ、化学や数学において特にその能力を発揮しました。ハーバード大学に入学すると、化学を専攻し、全てにおいて優秀な成績を修めたため、わずか3年で卒業することとなります。

第二次世界大戦では「マンハッタン計画」へ参加することを要請され、原子爆弾の作成に関わりますが、その影響による後悔から、終戦後は核兵器廃絶への活動を展開するようになるのでした。最期は咽頭癌によって亡くなりましたが、彼が世界に与えた影響は計り知れません。

今回はオッペンハイマーについてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメントを残す