オッペンハイマーにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「原子爆弾を作ったことを非常に後悔」
オッペンハイマーは原子爆弾を作る計画「マンハッタン計画」の科学者チームのリーダーでした。第二次世界大戦で有利に立つために核兵器の製造に全力を注ぎますが、1945年に実際に原爆が利用されると、その惨状を知って後悔するようになります。
チームの主導者として原爆を作り、「原爆の父」と呼ばれることに負い目を感じるようになったため、終戦後は核兵器廃絶のために様々な活動を展開します。原爆よりもさらに威力のある水素爆弾を作ることにも反対し、一部の科学者とは対抗する形となりますが、生涯を通じてその姿勢を変えることはありませんでした。
都市伝説・武勇伝2「名前の前につけていた『J』という文字の意味は?」
オッペンハイマーは本名がロバート・オッペンハイマーと言いますが、名前を記名する際に「J」を頭文字につけていました。
しかし、この「J」の意味はいまだに誰もわかっていません。ユリウスの「J」ではないかという説、意味はないという説、父親のジュリアスの「J」からとった説、ジュニアと呼ばせる説などが理由としてあげられましたが、どれが本当なのかはわからないままです。
文献によってはジョン・ロバート・オッペンハイマーと記載してあるものもありますが、これも正しいかどうかは分かりませんでした。
都市伝説・武勇伝3「躁鬱(うつ病)から復活」
オッペンハイマーは大学在学中にうつ病になったことがあります。ハーバード大学化学専攻を卒業したのちに、物理学に目覚めたオッペンハイマーはケンブリッジ大学へと移籍し、実験物理を学ぶようになりました。
しかし、手先の器用でないオッペンハイマーは実験がうまくいかないため、ふさぎ込むようになってしまいます。最終的にはうつ病と診断されることになりました。
うつ病で気分の優れない日が続きましたが、そのさなかに出会ったプルーストの「失われた時を求めて」を読んで、うつ病からの脱却に成功します。
その後、ニールス・ボーアに影響されて理論物理に興味を持ったオッペンハイマーは研究の場をゲッティンゲン大学に求めて再度移籍しました。
オッペンハイマーの簡単年表
1904年4月22日、オッペンハイマーはニューヨークで生まれました。ドイツからアメリカへの移民である父・ジュリアス・オッペンハイマーと母・エラ・フリードマンの長男として誕生します。
幼い頃から数学や化学の勉強が好きで、飲み込みも早かったため、将来を望まれる子供として育てられました。地質学や18世紀の文学にも興味を持ち、言語の習得も早かったため、最終的には6ヶ国語を操るようになります。スポーツの方はあまり得意ではありませんでしたが、乗馬やセーリングには親しみを持っていました。
ハーバード大学へ入学し、化学を専攻します。成績は非常に優秀であったため、わずか3年で卒業することになりました。
ハーバード大学を卒業すると、ケンブリッジ大学に留学することになります。キャヴェンディッシュ研究所に籍を移して、化学や物理学を勉強していく日々を送りました。オッペンハイマーはケンブリッジ大学で学ぶさなか、のちに量子力学の権威となるニールス・ボーアと出会っています。ボーアからの影響で、物理学にのめり込むようになり、物事の理論を追求していくようになるのでした。
理論物理学に興味を示すようになっていたオッペンハイマーはその学問を極めるためにゲッティンゲン大学へと移籍します。勉強や研究を重ね、博士号を取得するに至りました。もっとも有名な研究成果としては「ボルン-オッペンハイマー近似」があります。
博士号を取得すると、大学の講師としての職を受けるようになり、カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学バークレー校の助教授として講義を行うようになりました。
カリフォルニア大学とカリフォルニア工科大学で教鞭を執り始めてから7年後、助教授から教授へと昇進することになりました。
教授として講義を行うかたわらで、自らの研究にも取り組んで行きました。当時は存在が曖昧であったブラックホールの研究を主として、宇宙物理学の探求を進めていったのです。
1939年に第二次世界大戦が始まると、その3年後の1942年には原子爆弾開発のためにマンハッタン計画が始動されます。翌1943年にはオッペンハイマーが原子爆弾製造研究チームの主導者となったのでした。
オッペンハイマーが主導した研究チームは世界で始めて原子爆弾の開発に成功し、ニューメキシコのトリニティで行われた核実験ののちに日本に投下されることが決まりました。8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が投下されます。両方の街を合わせて20万から30万の人が犠牲となりました。統計によってはそれ以上の人が亡くなったのではないかとも言われています。
第二次世界大戦終戦後、1947年にアインシュタインも在籍しているプリンストン高等研究所の所長として迎えられることになりました。一方で、自分が原子爆弾を作ってしまったという深い後悔から、原子力委員会のアドバイザーとしての活動を精力的に行い、世界から核兵器を廃絶することや核兵器競争を無くすよう訴えかけます。
1954年にマッカーサー主導で行われた共産党員追放運動、通称「赤狩り」によってオッペンハイマーは公職追放を受けることとなりました。この追放ののち、オッペンハイマーの私生活は常にFBIの監視下に置かれるようになったのでした。
1963年、オッペンハイマーはエンリコ・フェルミ賞を受賞しました。エンリコ・フェルミ賞はアメリカの物理学賞の一つで、エネルギーの開発、使用、生産に関する功績を対象としています。
1965年に咽頭癌の診断を受け、手術、放射線療法、化学療法を行いましたが、全てを取り除くことはできませんでした。
完治することができなかった咽頭癌は徐々に進行して行き、オッペンハイマーは1967年2月には昏睡状態に陥ります。そして2月18日、ニュージャージー州プリンストンの自宅にてそのまま息を引き取るのでした。
オッペンハイマーの年表
1904年 – 0歳「オッペンハイマーの誕生」
ドイツからの移民の子として誕生
オッペンハイマーは1904年4月22日にニューヨークで誕生します。父はドイツで生まれ育ち、20歳を目前にしてアメリカへと移住してきた起業家のジュリアス・オッペンハイマーで、母は東欧ユダヤ人で画家でもあるエラ・フリードマンでした。
幼少期から勉強熱心な子供で、吸収も早かったため、将来を嘱望されていました。数学や化学はもちろん、地質学や昔の文学などにも興味を持ち、次々に習得していきます。言語に関しては最終的に6ヶ国語を話せるようになったと言われています。
1922年 – 18歳「ハーバード大学入学」
ハーバード大学で化学を専攻
18歳になると、化学の道を極めるためにハーバード大学の化学専攻へと進みます。非常に優秀な生徒で、成績も最優秀に近い水準を安定して修めていきました。わずか3年でハーバード大学の全ての過程を修了して卒業すると、そのままイギリスのケンブリッジ大学へ留学することになります。
ケンブリッジ大学ではキャヴェンディッシュ研究所に籍を置き、化学に加えて物理学の世界へものめり込んでいくのでした。
このキャヴェンディッシュ研究所では、後年、量子力学の確立に大いに貢献することになる物理学者ニールス・ボーアと出会うことになります。これ以降、理論物理学に目覚めていくようになるのでした。
理論物理学を極めるためにゲッティンゲン大学へ移籍
理論物理学の奥深さに魅了されたオッペンハイマーは、より学問を極めるために、理論物理学の研究が進んでいるゲッティンゲン大学へと移籍することになります。ゲッティンゲン大学ではマックス・ボルンと共同で「ボルン-オッペンハイマー近似」などの研究成果を上げていくのでした。
博士号取得後は大学に講師として招かれることになります。カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学の助教授を兼任して講義を行うこととなりました。7年後には教授へと昇進します。
1938年 – 34歳「ブラックホール研究を行う」
宇宙物理学の世界に興味を示し、ブラックホールの研究に携わる
カリフォルニア大学などで教鞭を執るかたわら、宇宙物理学の研究にも精を出していきます。当時はまだよくわかっておらず、名前も付いていなかったブラックホールについての研究を主に取り扱っていました。
中性子星やブラックホールなど当時としては非常に先駆的な研究に取り組み、1939年にはブラックホールの存在を予言することになります。順調に研究が進んでいましたが、その最中に第二次世界大戦が勃発するのでした。
1942年 – 38歳「マンハッタン計画始動、そしてオッペンハイマーの参加」
原子爆弾開発のためのマンハッタン計画始動
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、年々その内容は激化していきます。1942年には原子爆弾開発のため、マンハッタン計画が開始しました。
マンハッタン計画はアメリカ、イギリス、カナダ主導で行われた原子爆弾開発計画で、主要な科学者や技術者たちを囲い込んで、その知識を総動員して遂行された計画です。
オッペンハイマーはマンハッタン計画に1943年から原爆製造研究チームの化学部門のリーダーとして参加することになります。大規模な計画を効率的に進行させるために管理工学を応用して実験や研究が進められていきました。
計画の成功と原子爆弾の完成
オッペンハイマーの提案により、ロスアラモスにマンハッタン計画の研究所を置くことになります。この地において、原子爆弾制作のために名だたる科学者たちが研究に精を出しました。
量子力学の権威ニールス・ボーアとエンリコ・フェルミ、IQ300と言われる頭脳の持ち主ジョン・フォン・ノイマン、ファインマン物理学で知られるリチャード・ファインマンなどが関わったとされています。
ちなみに20世紀最高の天才と称されるアインシュタインはルーズベルト大統領からの原爆作成の署名にサインしたことが知られていますが、直接研究には関わっていません。
これらの科学者たちによる研究のもとで原子爆弾の開発が着々と進められ、1945年、ついに完成に至るのでした。