菱川師宣にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「『浮世絵師』と呼ばれることを嫌い、『大和絵師』と自らを称した」
菱川師宣は狩野派や土佐派の日本絵に憧れて絵画の世界に入ってきたので、自らのことを「浮世絵師」と呼ばれることを好んでいませんでした。師宣自身は自らを「大和絵師」と呼ぶようにしていましたが、その希望とは反対に「浮世絵師」という言葉が世間に広まっていきます。
菱川師宣について出版した本に書いてあった「浮世絵師」をわざわざ「大和絵師」に訂正させたというエピソードがあるほどその肩書きにこだわっていましたが、やはり世間は師宣を「浮世絵師」ととらえるようになっていったのでした。そして、師宣の死後も300年以上に渡り、「浮世絵師」という称号が受け継がれていくのです。
都市伝説・武勇伝2「『見返り美人図』が切手になる」
師宣が晩年に描いた肉筆画の傑作「見返り美人図」は郵便切手のデザインとして採用されていますが、その中でも有名なのが1948年と1991年の切手です。1948年の時の額面は500円、1991年の時の額面は62円です。1948年に発行された切手は縦が67mm、横が30mmと非常に大きなサイズとなっており、当時話題となりました。現在では一枚3000円前後の価値があるとされており、コレクターの間で人気の切手となっています。
1991年発行の切手は現在の平均的なサイズと同等となっており、日本郵便創業120年を記念して発行されたものでした。現在の相場としては額面とほぼ同等か少し高いくらいだそうです。
菱川師宣の簡単年表
1630年、安房国保田(現在の千葉県鋸南町保田)で菱川師宣が誕生します。師宣は縫箔師の父・吉左衛門と母・おたまの間に生まれた、4番目の子供でしたが、それ以外はみんな女の子だったので、長男として誕生しました。
師宣は父親の職業である縫箔師を継ぐために幼い頃から仕事を手伝っていました。美的センスは小さい頃から優れており、仕事の覚えも早かったようです。仕事とは別に、風景を絵に描くことも好きな少年であったため、よく保田の自然を絵に表していました。
16歳になると、縫箔の修行のため、江戸に出ることになりました。江戸では刺繍の下絵の勉強を主に学ぶことになります。この時に絵の魅力に気づき、お手本としていた絵の素晴らしさを江戸に広めたいという思いから、のちに浮世絵の方へと進路を変更することになるのです。
菱川親子の元に安房国の百首村(現在の千葉県富津市竹岡)の松翁院から釈迦涅槃図の縫箔を依頼が来ました。師宣はその下絵を担当したのです。
師宣の生きた時代は本の出版が盛んになった期間でした。「本の挿絵を入れたら読みやすくなるのでは」と考えた師宣は、その考えを業者に打診します。絵本とすることを認められた師宣は1672年に「武家百人一首」を出版しました。
師宣は1677年に江戸のガイドブック「江戸雀」を刊行しました。これは初めて江戸を訪れた人を案内するための書物で、江戸の地誌として最古の作品としてとらえられています。師宣は他にも名所絵として「奈良名所八重桜」や「東海道分間絵図」などを制作しました。
当時、上方でベストセラーとなった井原西鶴の「好色一代男」に師宣の挿絵を入れることになりました。師宣はあくまでも文字がメインということで、絵の配分は少なめにしていましたが、評判がよくなるにつれて、ページにおける絵の占める割合が多くなっていくのです。
これまでの浮世絵は肉筆画であったため、一枚一枚に非常に多くの手間がかかり、庶民の手には届かない値段となっていました。そこで師宣は版画にして大量生産し、庶民にも手が届きやすい値段で、絵画を売れるようにすることを考えたのです。
菱川師宣の代表作とも言える「見返り美人図」を制作します。師宣は女性を描く技術に定評があり、「見返り美人図」も高い評価を得るところとなりました。
師宣は晩年も版画・肉筆問わず多くの作品を残していきましたが、1694年に帰らぬ人となります。菱川師宣に関する資料が1703年の元禄地震による津波で流されてしまったため、生年月日や死没日、死因などがはっきりしていません。
菱川師宣の年表
1630年 – 0歳「菱川師宣の誕生」
菱川師宣が安房国で誕生
1630年、安房国保田(現在の千葉県鋸南町保田)で菱川師宣が誕生します。菱川師宣の生年については諸説あり、1618年に生まれたのではないかとされる記録もありますが、父・吉左衛門の生年が1597年なので、年齢的にも1630年に生まれたのが有力とされています。
師宣は縫箔師の父・吉左衛門と母・おたまの間に生まれます。4番目の子供でしたが、それ以外はみんな女の子だったので、長男として誕生しました。兄弟は他にも弟が二人、妹が一人いて、師宣は7人兄弟のちょうど真ん中です。
縫箔を継ぐために技術を学ぶ
師宣は父親の職業である縫箔師を継ぐために幼い頃から仕事を手伝っていました。美的センスは小さい頃から優れており、仕事の覚えも早かったようです。仕事とは別に、風景を絵に描くことも好きな少年であったため、よく保田の自然を絵に表していました。
16歳になると、縫箔の修行のため、江戸に出ることになりました。江戸では刺繍の下絵の勉強を主に学ぶことになります。絵師の名門「狩野派」、「土佐派」、「長谷川派」の絵画を集め、それを参考にして何度も何度も絵を描いていくのでした。この時に絵の魅力に気づき、のちに浮世絵の方へと進路を変更することになるのです。
1658年 – 28歳「松翁院の釈迦涅槃図を父とともに制作」
釈迦涅槃図の制作
師宣が28歳の時に父・吉左衛門の元に大仕事が舞い込んできます。安房国の百首村(現在の千葉県富津市竹岡)の松翁院から釈迦涅槃図の縫箔を頼まれました。師宣はその下絵を任されることになったのです。完成した涅槃図は縦3.6m、横2.1mにもなる大作でした。
師宣はこの仕事を終えると、父に縫箔を継ぐように勧められますが、絵師として活躍し、江戸に絵画の魅力を広めていきたいという思いを正直に伝えたとされています。
1672年 – 42歳「絵本の挿絵を描くようになり、最初の絵本『武家百人一首』を発表」
絵本「武家百人一首」を制作
師宣の生きた時代は本の出版が盛んになった期間でした。寛永年間(1624年-1644年)、寛文年間(1661年-1673年)をかけて京都から発信された木版による本の制作は江戸へと広まっていきます。
師宣はこれに目をつけ、「本の挿絵を入れたら読みやすくなるのでは」と考え、絵本の制作にとりかかるのでした。現在確認されているもので最初に出版された師宣の絵本は1672年の「武家百人一首」で、この時初めて本に署名をするという風潮を師宣が作り出したのです。
名所絵「江戸雀」発表
名所絵は葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」が有名ですが、これらが制作されたのは師宣の生きた時代から100年以上も後のことです。師宣は1677年に江戸のガイドブック「江戸雀」を刊行しました。これは初めて江戸を訪れた人を案内するための書物で、江戸の地誌として最古の作品としてとらえられており、現在では厳重に保管されています。
師宣は他にも名所絵として奈良のガイドブック「奈良名所八重桜」や東海道のガイドブック「東海道分間絵図」などを残しました。
1684年 – 54歳「井原西鶴『好色一代男』の挿絵を担当」
「好色一代男」の挿絵を描く
1680年代に京都でベストセラーを記録した井原西鶴の「好色一代男」を江戸でも出版することが決まります。師宣は「好色一代男」に挿絵を入れることを提案し、師宣がその担当を引き受けることになりました。
当初は文章が主役であると考えていたため、挿絵にはあまり多くの面積をさきませんでした。しかし、いざ出版してみると絵本の評判が良かったために、挿絵の占める割合がだんだんと大きくなっていきます。1686年に発表した「大和絵のこんげん」という作品では絵を増やして、文章は紙面の5分の1程度に抑えることになりました。文章を読むことがあまり得意でない人たちにも受け入れられ、出版ブームに拍車をかけることになります。
浮世絵版画の発明
当時の浮世絵は肉筆画であったため、非常に高価なものが多く、庶民には手の出せる代物ではありませんでした。師宣は江戸に絵画の魅力を普及させることを夢見ていたため、もっと安価で手に取りやすい絵を制作できないかと考えます。
そこで、版画による浮世絵の大量生産を思いつくのでした。浮世絵版画の発明により、一枚一枚にかかる手間を大幅に省くことができるようになったため、絵画を多く生産することができ、庶民の間でも浮世絵が流行するようになります。