ルイアームストロングの生涯・年表まとめ【代表曲や名言、死因も紹介】

ルイアームストロングにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ビートルズの勢いを止めヒットチャート1位になる」

ビートルズ
ビートルズ

1962年にイギリスでデビューしたビートルズは、瞬く間に世界中で大人気となりました。

1960年代のアメリカでもビートルズの勢いはすさまじく、全米チャートは彼らの曲で埋め尽くされていました。そんな中1964年の2月から5月にかけて14週連続1位を独占したビートルズを破ったのが、ルイ・アームストロングの「ハロー・ドーリー」でした。

それからルイはしばらくのあいだ「ザ・ビートルズを首位から蹴落とした男」というキャッチフレーズを使っていたそうです。当時63歳だったルイ・アームストロングの偉業に全米が驚きました。

都市伝説・武勇伝2「Suchmosのバンド名の由来になった」

Suchmos
出典:suchmos.com

2013年に神奈川県で結成された人気バンド「Suchmos(サチモス)」。

R&Bやヒップ・ホップなどのブラック・ミュージックをベースとした楽曲が多く、中でもイギリスのアシッドジャズバンド「ジャミロクワイ」の影響を強く受けています。そんなSuchmosの名前の由来は、ルイ・アームストロングのあだ名「サッチモ」に由来していると言います。

バンドを結成した際にバンド名を決めるより先にライブ出演が決まってしまいます。練習していたスタジオで名前を悩んでいたところ、ルイ・アームストロングのライブ映像がモニターに流されていたそうです。それを見たメンバーがそのミュージシャンがサッチモと呼ばれていることを他のメンバーに教えたところ、言葉の響きを気に入りバンド名に採用しました。

「ルイ・アームストロングがジャズ界のパイオニアなので、自分たちも音楽的なパイオニアになりたい」という気持ちが込められているそうです。

都市伝説・武勇伝3「4回の結婚」

リル・ハーディン

ルイ・アームストロングは人生の中で4回の結婚をしていました。最初の夫人は彼が16歳の時に結婚したデイジー・パーカーで、そのころに従姉妹の子供を養子として迎え入れています。

最もルイの音楽人生に影響を与えたのは、2番目の夫人であるリル・ハーディンでしょう。彼女はルイの師匠であるキング・オリヴァーのバンドのピアニストをしていました。その後、ルイが率いたホット・ファイブなどでもピアニストを務め、数々の作品を共作することになります。

さらにリル・ハーディンはルイの服装や髪型にも意識を配り、人前に出てステージに立つ際のたしなみを教えたことも大きな功績と言えましょう。

14年間の夫婦関係だったリル・ハーディンとの離婚ののち、以前から愛人関係であったアルファ・スミスと3回目の結婚をしますがこちらは4年で離婚に至ります。

コットン・クラブ
コットン・クラブ

そしてニューヨークの名高いナイト・クラブだった「コットン・クラブ」の歌手であるルシール・ウィルソンと最後の結婚をします。彼女は1971年にルイがこの世を去るまで添い遂げました。

##ルイ・アームストロングの年表

1901年 – 0歳「ニューオリンズで生まれる」

若いころのルイ・アームストロング
若いころのルイ・アームストロング

貧しい幼少期

ルイ・アームストロングはニューオリンズのストーリー・ヴィルと呼ばれる売春地区で生まれました。父親がルイの小さいころに家を出て行ってしまったので、母親は売春婦として働きながら祖母と共に彼を育てたと言います。

祖母はエネルギーにあふれた明るく朗らかな性格だったようで、ルイの性格にもしっかり受け継がれています。決して裕福とは言えない貧しい暮らしでしたが、持ち前の明るさで不幸せではなかったようです。

コルネットとの出会い

ある年の大晦日に新年を祝う祝砲をあげるため、ピストルを発砲したところを見つかりルイは逮捕されてしまいました。少年矯正施設に収容された彼は施設のブラスバンドに入り、彼の人生を変える楽器「コルネット」と出会います。

コルネットとはトランペットの仲間の管楽器です。トランペットより歴史は古く、管楽器にピストンバルブを用いた最初の楽器です。演奏できる音域はトランペットと同じですが、より柔らかく暖かい音色がコルネットの特徴です。

1923年 – 22歳「メジャーデビュー」

キング・オリヴァー楽団

キング・オリヴァーとの出会い

少年矯正施設から出所したルイは、ニューオリンズのパレードなどで演奏を重ね頭角を現していきます。そして師匠であるキング・オリヴァーと出会いテクニックを教え込まれました。オリヴァーは自分のコルネットを与えるなどして、ルイを可愛がったと言います。

第一次世界大戦によりシカゴへ

第一次世界大戦時の戦艦
第一次世界大戦時の戦艦

しかし1914年に始まった第一次世界大戦のためにニューオリンズが軍港として使用されるようになり、ジャズの拠点だったクラブやバーが閉店に追い込まれます。そのため仕事が無くなってしまったミュージシャンはアメリカ北部へと活動拠点を移していきます。

そのおかげでジャズがアメリカ全土へ広まり、それぞれの地域で新しいジャズやR&Bなどの音楽が根付いていく要因となりました。

シカゴに移ったオリヴァーの楽団にセカンド・コルネット奏者として加入したルイは、1923年に初のレコーディングを経験しました。

1924年 – 23歳「ニューヨークへ進出」

ニューヨーク
ニューヨーク

ニューヨークへ進出

オリヴァーの楽団で経験を積み腕を磨いたルイの演奏は、ミュージシャンの間で話題になるほどでした。個性を活かした奏法や音色を武器とした演奏は、より一層洗練されて磨きがかかりました。そして1924年にはジャズの黄金時代を迎えようとしていたニューヨークに進出することになります。

ニューヨークに渡ったルイはフレッチャー・ヘンダーソン楽団に加入します。個々の即興プレイを活かしたルイの演奏スタイルは楽団自体の演奏も変化させ、のちのスウィングジャズの基礎を築いたと言えましょう。

1925年 – 24歳「シカゴに戻り自身のグループで活動」

ルイ・アームストロング&ホット・ファイブ
ルイ・アームストロング&ホット・ファイブ

ホット・ファイブ結成

ニューヨークでの活躍の後シカゴに戻り、当時の夫人であったリル・ハーディンらと共に自身のグループであるホット・ファイブを結成。ビッグ・バンドでは出せないアプローチを小編成のバンドで展開していきました。

ホット・ファイブと契約を結んだのはオーケー・レーベルという事務所で、手始めに3曲を録音しうち2曲を収録したレコードが「ルイ・アームストロング&ホット・ファイヴ」の名前で発売されました。そして翌年1926年にはスキャットが生まれた「ヒービー・ジービーズ」が録音されます。

1953年 – 52歳「初日本公演」

ルイ・アームストロングは生涯で3回来日しています。初来日は1953年で、ルイ・アームストロングが52歳の時にオールスターズを引き連れての日本ツアーでした。この時のツアーでは東京、横浜、神戸、京都などの都市を中心に巡業したと言います。

1963年に2回目の来日を果たした際には、スタジオ盤「サッチモ・イン・ジャパン」を録音しテイチク・レコードより発売しています。翌年の3回目の来日では美空ひばりとの面会が予定されていたそうです。残念ながら美空ひばり側のトラブルにより会談は叶わなかったものの、ルイ・アームストロング直筆の手紙が美空ひばりに送られたそうです。

1960年 – 59歳「大ヒットを連発」

ルイ・アームストロング
出典:Wikipedia

2度目の絶頂期

ルイ・アームストロングの1回目の絶頂期が1920年代とすれば、2回目は間違いなく1960年代です。1964年に全米1位を獲得した「ハロー・ドーリー」を皮切りに、数々のヒットソングを量産し世界中でヒットしました。

1967年には名曲「この素晴らしき世界」が世界的ヒットを飛ばし、翌年にはディズニー映画の曲を題材にしたアルバム「サッチモ・シングス・ディズニー」を発表。1969年にはジェームズ・ボンドで有名な007シリーズの第6作「女王陛下の007」の挿入歌である「愛はすべてを越えて」を発表しました。

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5つの銅貨

実在のコルネット奏者のレッド・ニコルズの半生を描いたドキュメンタリー映画です。アカデミー歌曲賞、作曲賞、撮影賞、衣装デザイン賞にノミネートされ、日本では文部省選定映画でした。

ルイ・アームストロングについてのまとめ

いかがでしたか?

この記事ではルイ・アームストロングの69年の生涯を振り返ってみました。現在に続くジャズの礎を築き、普段ジャズを聴かない人でも彼の声とトランペットは耳にしている事でしょう。

「この素晴らしき世界」は覚えてしまうほど何回も演奏していますが、全然色褪せることのない名曲です。他にも沢山良い曲があるので、ぜひ聞いてみてください!

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