小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

二葉亭四迷とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名前の由来、性格や死因についても紹介】

二葉亭四迷は、近代小説の先駆けとして知られる「浮雲」で有名な小説家です。当時としては珍しい「言文一致」という手法を用いて執筆され、当時の小説家たちに大きな影響を与えました。また、ツルゲーネフをはじめとするロシア写実主義文学の翻訳を手がけたことも有名です。

小説を執筆するかたわらで内閣官報局に務めて貧民救済策を講じたり、ロシア語の教師として活躍したり、幅広い分野で社会に貢献した人物でもあります。

二葉亭四迷

二葉亭四迷の生きた時代は政治や文化の変遷期で、世間の価値観も目まぐるしく変わっていく時代でした。その中で生きた小説家たちは各々の洞察力や想像力を働かせ、人の生きる意味や幸せとは何かについて深い考察の元に様々な文献を執筆していくのです。

その中でも近代小説の開祖となった二葉亭四迷は現在でも脚光を浴びることの多い作家です。今回は彼の代表作「浮雲」を読んで感銘を受けた筆者が、彼の文献を漁った結果得た知識を元に、二葉亭四迷の生涯、代表作、意外なエピソードまでをご紹介して行きます。

二葉亭四迷とはどんな人物か

名前本名・長谷川辰之助、作家名・二葉亭四迷
誕生日1864年4月4日
没日1909年5月10日
生地江戸 市ヶ谷
没地ベンガル湾上
配偶者福井つね(1893年-1896年)、高野りう(1904年-)
埋葬場所東京都豊島区駒込

二葉亭四迷の生涯をハイライト

二葉亭四迷

二葉亭四迷の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1864年4月4日、江戸の市ヶ谷、尾張藩上屋敷にて二葉亭四迷が誕生
  • 幼少期は漢学やフランス語を学んで過ごす
  • 高等学校卒業と同時に軍人を目指すも、陸軍士官学校に不合格
  • 外交官を目指して、東京外国語学校へ入学
  • 大学を卒業すると、作家志望となり、坪内逍遥の家に足繁く通うように
  • 1886年に「小説総論」を中央学術雑誌へ発表
  • 1887年に二葉亭四迷の代表作となる「浮雲」を刊行
  • ツルゲーネフの作品を翻訳し、「めぐりあひ」、「あひびき」として出版
  • 内閣官報局の管理となり、貧困問題に取り組む
  • ロシア語教師として務めた後、ロシア・中国に滞在
  • 帰国すると朝日新聞社に務め、小説を執筆
  • 特派員としてロシアへ赴任するも、肺結核を患い、日本へ帰還する際にベンガル湾上で亡くなる

近代小説の始まりと言われる代表作品「浮雲」とは?

二葉亭四迷の代表作「浮雲」は1887年から1889年にかけて発表された小説です。「浮雲」は坪内逍遥の書いた「当世書生気質(小説神髄の理論を小説化した書物)」に対抗して執筆され、その内容を補填する形で完成させられました。かねてから逍遥の「小説神髄」には足りない部分があると感じていた四迷はこれを批判する形で内容を充実させようとしたのです。

浮雲

「浮雲」は当時の書物としては珍しい「言文一致体」という手法で執筆されました。「言文一致体」とは日常の会話調で文章を書くことで、広義の意味では口語文とも言います。明治時代に言文一致運動が巻き起こったのは二葉亭四迷の「浮雲」がきっかけと言われ、それまでの文語文に代わって多くの「言文一致体」の書籍が出版されるようになったのでした。

また、これまでの書物のような「勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)」ではなく、人間同士の繋がりに重点を置いたことも新しい試みだったのです。

イワン・ゴンチャロフ

二葉亭四迷はロシア文学の影響を受けて言文一致体を採用したと考えられており、「浮雲」の参考となったのはロシアの作家イワン・ゴンチャロフの「オブローモフ」ではないかと言われています。

浮雲を「坪内逍遥」の名前を借りて出版した理由

二葉亭四迷は「浮雲」を発表する際に師である坪内逍遥の本名「坪内雄蔵」名義で出版しました。逍遥の後押しを受けたことや、先に世に出て名が知れている逍遥の名前を借りることで「本の販売を促進しよう」と考えたことから、逍遥の本名を借りたのです。

坪内逍遥

四迷はのちにこの事を後悔し、反省の意味も込めて、自らに向かって「くたばってしめえ」と罵ったそうです。ここから「くたばってしめえ→くたばてしめい→ふたばていしめい」というペンネームが誕生したという逸話が残っています。

なお、二葉亭四迷のペンネームの由来については諸説あり、四迷が文学の道へ進むことを快く思っていなかった父親から「くたばってしまえ」と言われたという説や、読者の評価を気にしてそれに迎合した文章を書いてしまう自分に嫌気がさして「くたばってしめえ」と言ったという説があります。

二葉亭四迷がロシア文学にハマったきっかけ

戦争と平和 トルストイ

二葉亭四迷はロシア文学の翻訳や、ロシアに何回も赴任するなどロシアとの関わりが強くありました。四迷がロシア語を学ぼうと思ったきっかけは、軍人や外交官になる目標のある四迷にとって、近い将来敵国となるであろうロシアの言語を習得しておくべきであると感じたことです。

しかし、実際に東京外国語学校に入学してみると、当時教鞭を執っていたニコラス・グレイと言う教師が、文学書を朗読するだけの授業をしており、またそれが非常にうまかったため、四迷は次第にロシア文学へと引き込まれていくようになるのでした。

ゴーゴリ

東京外国語学校在学中、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、トルストイの「戦争と平和」までを授業において読破してしまったのです。この講義のスタイルに影響された四迷は自身も文学の道に進むことを決めるのでした。

二葉亭四迷の功績

功績1「ツルゲーネフなどの海外作家の翻訳を行う」

ツルゲーネフ

二葉亭四迷は学生時代にロシア語を専攻していたことから、ロシア文学にも親しみを持っていました。特にツルゲーネフの作品を好み、1886年に初めて「父と子」という作品の翻訳に取り組みます。この翻訳は一部のみにとどまり、未発表に終わりますが、1887年には「めぐりあひ」と「あひびき」の2作品を発表しました。

「あひびき」はツルゲーネフの「猟人日記」という作品を翻訳したもので、若い男女の心の動きを自然の描写とともに描かれており、この自然描写の文体が国木田独歩や田山花袋ら多くの小説家に影響を与えました。

功績2「内閣官報局で貧民救済策に骨を折る」

海外の貧民街

二葉亭四迷は「浮雲」を最後に小説活動を休止すると、内閣官報局の官吏としての仕事を担うようになりました。四迷は社会主義の考えを支持していたため、世の中をよくするためには貧富の差の是正が重要課題であると考えます。

昔から四迷は「人間の美しい天真はお化粧をして綾羅に包まれてる高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の下層者にかえって真のヒューマニティを見ることができる」という思想を持っていたため、貧民救済策を講じるべく、奔走する日々を送るようになりました。そして、最初に結婚した福井つねという女性とはこの貧民街で出会うことになります。

二葉亭四迷の名言

「死んでもいいわ。」

これはツルゲーネフの「片恋」に出てくる「I LOVE YOU.」という文章を四迷が「死んでもいいわ。」と訳したことから来ています。夏目漱石が「I LOVE YOU.」を「月が綺麗ですね。」と訳したことは有名ですが、実は四迷の訳の方が先なのです。

「いや、人生は気合だね。」

なんとも力強い言葉ですが、短い文言なので、真の意味について推し量りかねます。人生は誰しも順風満帆にいくものではないので、苦難を乗り越えるためには気合が必要だということを伝えているのでしょう。

「信ずる理由があるから信じているのではなくて、信じたいから信じているのだ。」

人の世は簡単に信じると容易に騙されてしまう世界です。この人は絶対に大丈夫と言い切れないのが人間でしょう。それでも人を信用したいのであれば、自分が信じたいと思って信じるのが良いのではないかということを教えてくれている気がします。

二葉亭四迷にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「夏目漱石が最後の晩餐に同席」

二葉亭四迷は1908年に朝日新聞の特派員としてロシアに赴くことになり、その壮行会を東京・上野の精養軒で行いました。その壮行会には文豪・夏目漱石も出席していたそうです。また、この直前にも神田明神にある鰻料理店「神田川」で、二葉亭四迷、夏目漱石、鳥居素川(大阪朝日新聞主筆)の3人で会食を行いました。

四迷はその後、ロシアへと出張しましたが、赴任先での仕事の最中に体調を崩し、肺結核を患います。そして日本への帰国途中のベンガル湾上で亡くなってしまうのでした。つまり、漱石とともにした食事が四迷の最後の晩餐となったのです。

都市伝説・武勇伝2「死後に全集を出版する際に校閲をしたのは石川啄木」

石川啄木

二葉亭四迷の死後一年後の1910年、四迷の全集が出版されることが決定します。この時に四迷の作品を校閲したのは、当時朝日新聞校閲係だった石川啄木(代表作「一握の砂」、26歳で夭折)でした。この校閲をした際に、啄木は「二葉亭四迷は革命的色彩に富んだ文学者だ」と評したそうです。

啄木は借金をしやすいタイプの人間であったため、当時は収入を得るためにどんな仕事でももらうようにしていました。そして、朝日新聞で西村眞次が行っていた四迷全集の校閲を引き受けることとなるのです。ちなみに四迷の全集を編集したのは四迷の師匠でもあった坪内逍遥でした。

都市伝説・武勇伝3「森鴎外の『舞姫』をロシア語訳」

二葉亭四迷は森鴎外に「舞姫」のロシア語訳をさせてもらえるように許しを請い、承諾を得ることになります。鴎外は四迷の書いた「浮雲」に関心を持っており、自身の雑記帳に「長谷川辰之助(二葉亭四迷の本名)に会いたい」となんども書いていたようです。

その四迷から直々に書簡によって翻訳の申し出が来たため、鴎外は「舞姫」の翻訳を快く承諾したという経緯でした。そして、鴎外と四迷は後日、会見することとなり、その際に鴎外は「長谷川辰之助君は、舞姫を訳させてもらってありがたいというような事を最初に言われた。それはあべこべで、お礼は私が言うべきだ、あんな詰まらないものを、よく面倒をみて訳して下さった。」と述べたそうです。

二葉亭四迷の簡単年表

1864年 - 0歳
二葉亭四迷の誕生

二葉亭四迷(長谷川辰之助)の出生場所に関しては諸説ありますが、江戸の市ヶ谷合羽坂にある尾張藩上屋敷に誕生した説が有力です。父は鷹狩り供役を務めていた長谷川吉数で、母は志津という名前でした。

1868年 - 4歳
名古屋へ移る

4歳になると名古屋へと移ることになります。そこでは国学者の野村秋足の私塾で漢学を学び、修了後、名古屋藩学校へと入学し、軍事学者で翻訳家でもある林正十郎のもとでフランス語を勉強することになりました。

1872年 - 8歳
島根県松江に引っ越す

父の異動とともに島根県松江に引っ越すことになりました。辰之助(二葉亭四迷)は漢学者の内村友輔から漢学を学ぶようになります。

1881年 - 17歳
外交官を目指し、東京外国語学校に進学

洋学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)を卒業すると、軍人になることを目指して陸軍士官学校を受験します。結果は不合格であったため、外交官に目標を変更し、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科へと進みました。当初はロシアと日本の関係性に危機感を抱いたことがロシア語を学ぶきっかけでしたが、辰之助はロシア文学へとのめり込むようになります。

1883年 - 19歳
専修学校へ移籍

東京外国語学校と東京商業学校(現在の一橋大学)が合併し、新しく校長が就任することになりますが、辰之助はその校長が気に入らず、退学を申し出ることにします。その後は専修学校(現在の専修大学)へと移籍することになるのでした。

1885年 - 21歳
坪内逍遥のところへ毎週通うように

専修学校を卒業すると、辰之助は「小説神髄」や「当世書生気質」で有名な坪内逍遥の自宅へと赴くようになります。足しげく通ううちに完成した「小説総論」を中央学術雑誌へと発表しました。「小説総論」は逍遥の「小説総論」の内容をさらに深めて、より完成度の高い作品に仕上げたとされる評論です。

1887年 - 23歳
代表作「浮雲」の刊行

1887年、辰之助は23歳にして「浮雲」を発表することになります。この第一編を発表する際に用いたペンネームが逍遥の本名でした。辰之助はのちに、師匠の名を借りて本を出版することを恥じるようになり、「くたばってしめえ」と自らを罵ります。この言葉を文字って、「二葉亭四迷」という作家名を使用することになるのでした。

1888年 - 24歳
ツルゲーネフの小説を翻訳

四迷はロシア語を専攻していたことから、ロシア写実主義文学の翻訳を行うようになります。ツルゲーネフの「めぐりあひ」や「あひびき」は当時の作家に大きな影響を与えることになるのでした。

1889年 - 25歳
内閣官報局に就職し、貧民救済策を講じる

25歳になると、内閣官報局に職をもらい、貧民救済策に精を出すようになりました。最初の妻である福井つねとはこの時に出会います。

1893年 - 29歳
福井つねと結婚

内閣官報局の職員として貧民街に出入りしている際に出会った当時、娼婦として生活していた福井つねと結婚することになります。同年に長男玄太郎が誕生しました。翌年にも長女せつが誕生しますが、3年間の結婚生活を経て1896年に離婚することとなります。

1895年 - 31歳
陸軍大学校ロシア語教示嘱託に

四迷はロシア語に精通していることを買われ、1895年に陸軍大学校ロシア語教示嘱託、1899年に東京外国語学校のロシア語教師、1901年に海軍大学校ロシア語教授嘱託を勤めることになりました。

1902年 - 38歳
ロシアとハルビンへ滞在する

四迷は1902年から1903年にかけてロシアと中国・ハルビンに滞在することになります。ロシアではエスペラント(国際補助語として世界でもっとも認知されている人工言語で、異国間のコミュニケーションを可能とする)を学び、日本へ帰国後に教科書を出版しました。

1904年 - 40歳
大阪朝日新聞から東京朝日新聞へ

日本へ帰国すると、大阪朝日新聞に勤務することになりますが、すぐに東京朝日新聞へと移籍することが決まります。東京朝日新聞では小説を連載することを勧められ、「其面影」や「平凡」を発表することになりました。

1904年 - 40歳
高野りうと再婚

前の妻・福井つねと離婚してから8年後、高野りうという女性と再婚します。りうとの間には2人の子供をもうけました。そして、四迷がなくなるまで寄り添うことになります。

1908年 - 44歳
特派員としてロシアへ

会社の特派員としてロシアへと派遣されます。恩師のいるペテルブルクを訪ねたり、森鴎外の「舞姫」をロシア語訳したりしていましたが、ロシアの環境に合わず、体調を崩すことが多くなりました。

1909年 - 45歳
二葉亭四迷死去・死因は肺結核による肺炎

1909年に行われたロシア皇帝の三男・ウラジーミル大公の葬儀に参加します。しかし、その直後から発熱をきたし、肺結核に犯されていることが発覚しました。帰国を試みましたが、日本へ帰る途中のベンガル湾上で肺炎が悪化し、そのまま帰らぬ人となります。

1910年 - 歳
二葉亭四迷の全集出版

四迷の死後一年後の1910年、二葉亭四迷の全集が朝日新聞社から出版されることが決定します。この時に校閲を行ったのは「一握の砂」で有名な石川啄木でした。

二葉亭四迷の年表

1864年 – 0歳「二葉亭四迷の誕生」

現代の市ヶ谷

江戸の市ヶ谷にて長谷川辰之助(二葉亭四迷)誕生

二葉亭四迷は本名を長谷川辰之助と言い、尾張藩士の鷹狩り(鷹を訓練し、他の鳥類やウサギなどの哺乳類を捕獲する)の父・長谷川吉数と母・志津との間に生まれました。生まれた場所は諸説ありますが、江戸市ヶ谷合羽坂の尾張藩上屋敷が有力であるとされています。

鷹狩り

1868年、辰之助が4歳の時に母の実家がある名古屋に移ったことが記録として残っています。そこでは国学者の野村秋足のもとで漢学を、名古屋藩学校に入学後は軍事学者かつ翻訳家の林正十郎のもとでフランス語を学ぶことになりました。1872年、8歳の時に、父・吉数が島根県松江に転勤となったため、辰之助も一緒に引っ越すことになり、松江の地では漢学者の内村友輔から漢学を学ぶようになります。

1881年 – 17歳「東京外国語学校ロシア語科に進学」

現在の東京外国語大学

高等学校卒業後、外交官を目指して東京外国語学校へ

辰之助は幼少期から順調に勉強を重ね、17歳で洋学校を卒業すると、軍人を目指して陸軍士官学校を受験しました。しかし、結果は不合格であったため、外交官に目標を変更し、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科に進学します。

当時の軍人や外交官になるという目標は千島樺太交換条約での日本とロシアの関係性に危うさを感じたことからで、自分でこの状況を変えていこうと意気込んでいました。しかし、実際にロシア語を学んでいくと、ツルゲーネフをはじめとするロシア文学にのめり込んでいくようになります。

専修大学へ移籍

東京外国語学校は辰之助の在籍中に東京商業学校(現在の一橋大学)との合併することになります。両校を合わせて東京商業学校となると、校長の入れ替えも行われ、辰之助にはその人物が気に入りませんでした。そのため、退学届を提出します。

坪内逍遥

1883年2月からは専修学校(現在の専修大学)へ通うようになり、約3年をかけて卒業しました。大学卒業後は文学の道へ進むことを決意し、「小説神髄」や「当世書生気質」で有名な坪内逍遥の元を訪ねます。逍遥に書生として受け入れられ、1886年には「小説神髄」の内容を補填する形の「小説総論」を中央学術雑誌に発表することになりました。

1887年 – 23歳「代表作「浮雲」の発表」

浮雲

二葉亭四迷の代表作となる「浮雲」の発表

1887年、「浮雲」の第一編を坪内逍遥の本名・坪内雄蔵をペンネームにして刊行することになります。この時、師匠の名をペンネームとして使用したことを恥じ、自身に向かって「くたばってしめえ」となじったことから、「二葉亭四迷」という名前を生み出すことになりました。

「浮雲」はその後、第二編、第三編も出版され、日本の近代小説の始まりとしてとらえられるようになります。特徴的だったのは言文一致の文体で書かれていたこと、写実主義の描写であったことです。これまでに言文一致で書かれた書物はほとんどなかったため、当時の他の小説家たちには衝撃を与えることとなりました。

ツルゲーネフの作品を翻訳

ツルゲーネフ

四迷は東京外国語学校でロシア語を専攻し、ロシア文学へ興味を持ったことから文学の世界へと入ってきました。特にロシア写実主義文学に陶酔しており、ツルゲーネフの作品などを好んで読んでいたのです。

四迷は1888年にツルゲーネフの作品を翻訳し、「めぐりあひ」と「あひびき」として刊行することになりました。そのうち「猟人日記」という作品を訳した「あひびき」は、その翻訳技術が国木田独歩をはじめとする同業者からも賞賛されます。そして、その後もトルストイ、アンドレーエフ、ゴーゴリなどの作品を翻訳しました。

1889年 – 25歳「内閣官報局の官吏に」

貧民街

内閣官報局の職を得ると貧民救済策を講じる

1889年に内閣官報局へ就職すると、貧富の差を是正するべく、貧民救済策を講じることになります。四迷は常々、「人間の美しい天真はお化粧をして綾羅に包まれてる高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の下層者にかえって真のヒューマニティを見ることができる」と言っていました。そして、毎日のように貧民街へ出入りし、貧民問題や労働問題について考える日々が続いたのです。

このときに貧民街で出会った娼婦・福井つねと1893年に結婚することになります。1男1女をもうけましたが、3年間の結婚生活を経て、1896年に離婚することになってしまったのでした。

1895年 – 31歳「ロシア語の教師として活躍」

教師 イメージ

ロシア語の教師として様々な機関に勤める

ロシア語を習得した経験を生かして、1895年に陸軍大学校ロシア語教示嘱託となったことを皮切りに、1899年には東京外国語学校のロシア語教授、海軍大学校ロシア語教授嘱託を勤めました。四迷の講義は評判が良く、教え子からも慕われていたそうです。

エスペラントの書籍を出版

1902年にロシアや中国(ハルビンや北京)へと旅立つことになります。ロシア滞在中にはエスペラントと呼ばれる人工言語を学びました。エスペラントは母国語の異なる人の間でコミュニケーションを可能にする国際補助語で、世界で最も認知されているものです。

エスペラント

日本へ帰国すると、エスペラントに関する書籍を執筆し始め、1906年には入門書として出版することになるのでした。

1904年 – 40歳「朝日新聞社に就職し、小説を発表」

其面影

大阪朝日新聞に入社、東京朝日新聞へ異動し、小説を発表

日本へと帰国すると、1904年に友人の紹介により、大阪朝日新聞社に勤めるようになります。しかし、当初与えられた仕事は四迷には向いておらず、東京朝日新聞へと異動することになりました。東京朝日新聞社では小説を書くように勧められ、「其面影」や「平凡」を発表します。

給料も良く、読者からも好感触が得られたため、小説家としてはまずまずの再スタートを切ることになったのです。

ロシアへ赴任

舞姫

1908年に朝日新聞の特派員としてロシアへ赴任することになります。滞在中は森鴎外の「舞姫」をロシア語に訳したり、東京外国語学校の恩師がいるペテルブルクを訪問したりしました。

一方で、ロシアの気候に馴染むことができず、次第に体調を崩すことが多くなっていくのでした。

1909年 – 45歳「二葉亭四迷死去・死因は肺結核による肺炎」

ベンガル湾 海岸線

肺結核を患い、日本へ帰還中に帰らぬ人に

四迷は、ロシア滞在中に出席したウラジーミル大公の葬儀で発熱を来たし、弱っているところへ肺結核に罹患しました。大事を取って日本へ帰国することとなりますが、帰国途中のベンガル湾上で肺炎が悪化し、そのまま帰らぬ人となるのです。享年45歳でした。

四迷の死後、1910年には二葉亭四迷全集が出版されることが決定します。この時校閲を務めたのは、「一握の砂」で知られる石川啄木でした。

二葉亭四迷の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

浮雲

言わずと知れた二葉亭四迷の代表作です。四迷が23歳の時に執筆された作品で、人間がいかに生きていくべきかを自問し、自らの考えを表しています。言文一致体で書かれ、日本における近代小説の始まりを告げることになった名作となっています。

平凡

1907年、二葉亭四迷が33歳の時に書かれた小説で、主人公が半生を振り返るという形で文学への批判を述べている作品となっています。四迷が何を考え、どのように生きるべきかを自問し続け、出て来た答えを自らの言葉でつづっています。

其面影

大きな変遷期にあった明治の日本、価値観が目まぐるしく変化する中で四迷が経験した葛藤を記した作品となっています。この時代における成功とは何なのか、幸福とは何なのか、二つは両立できるのか、深い洞察力によって執筆された名作です。

おすすめの翻訳作品・エスペラント入門書

あいびき

19世紀ロシアの代表的な小説家であるイワン・ツルゲーネフによる小説を二葉亭四迷が翻訳した作品です。男女の心理の微妙な揺れ動きを、自然の移ろいとともに描写しています。この作品は後年、国木田独歩や田山花袋などに多大な影響を及ぼしました。

エスペラントの話

二葉亭四迷がロシアに滞在した時に学んだエスペラントを、帰国した際に入門書として出版した書籍です。わずか数ページほどの内容となっていますので、興味のある方は読んでみてください。これをきっかけにエスペラントを学びたくなるかもしれません。

二葉亭四迷についてのまとめ

二葉亭四迷は幼少期から漢学やフランス語などの勉学に励み、学生となってからもロシア語の習得に力を注ぎました。その過程で出会ったロシア文学に魅せられ、文学の道を歩むことになるのです。

彼が弱冠23歳で執筆した「浮雲」は当時としては珍しい言文一致体で構成されました。これが日本における近代小説の始まりとなり、多くの小説家に影響を与えたのです。四迷は翻訳の腕も確かなものを持っており、ツルゲーネフの「猟人日記」を訳した「あひびき」も国木田独歩をはじめとする小説家を魅了したのでした。

最期は肺結核によって帰らぬ人となってしまいますが、四迷が日本の近代文学に与えた影響は計り知れません。この功績は今後も語り継がれていくことでしょう。

今回は二葉亭四迷についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

コメントを残す