二葉亭四迷は、近代小説の先駆けとして知られる「浮雲」で有名な小説家です。当時としては珍しい「言文一致」という手法を用いて執筆され、当時の小説家たちに大きな影響を与えました。また、ツルゲーネフをはじめとするロシア写実主義文学の翻訳を手がけたことも有名です。
小説を執筆するかたわらで内閣官報局に務めて貧民救済策を講じたり、ロシア語の教師として活躍したり、幅広い分野で社会に貢献した人物でもあります。
二葉亭四迷の生きた時代は政治や文化の変遷期で、世間の価値観も目まぐるしく変わっていく時代でした。その中で生きた小説家たちは各々の洞察力や想像力を働かせ、人の生きる意味や幸せとは何かについて深い考察の元に様々な文献を執筆していくのです。
その中でも近代小説の開祖となった二葉亭四迷は現在でも脚光を浴びることの多い作家です。今回は彼の代表作「浮雲」を読んで感銘を受けた筆者が、彼の文献を漁った結果得た知識を元に、二葉亭四迷の生涯、代表作、意外なエピソードまでをご紹介して行きます。
この記事を書いた人
二葉亭四迷とはどんな人物か
名前 | 本名・長谷川辰之助、作家名・二葉亭四迷 |
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誕生日 | 1864年4月4日 |
没日 | 1909年5月10日 |
生地 | 江戸 市ヶ谷 |
没地 | ベンガル湾上 |
配偶者 | 福井つね(1893年-1896年)、高野りう(1904年-) |
埋葬場所 | 東京都豊島区駒込 |
二葉亭四迷の生涯をハイライト
二葉亭四迷の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1864年4月4日、江戸の市ヶ谷、尾張藩上屋敷にて二葉亭四迷が誕生
- 幼少期は漢学やフランス語を学んで過ごす
- 高等学校卒業と同時に軍人を目指すも、陸軍士官学校に不合格
- 外交官を目指して、東京外国語学校へ入学
- 大学を卒業すると、作家志望となり、坪内逍遥の家に足繁く通うように
- 1886年に「小説総論」を中央学術雑誌へ発表
- 1887年に二葉亭四迷の代表作となる「浮雲」を刊行
- ツルゲーネフの作品を翻訳し、「めぐりあひ」、「あひびき」として出版
- 内閣官報局の管理となり、貧困問題に取り組む
- ロシア語教師として務めた後、ロシア・中国に滞在
- 帰国すると朝日新聞社に務め、小説を執筆
- 特派員としてロシアへ赴任するも、肺結核を患い、日本へ帰還する際にベンガル湾上で亡くなる
近代小説の始まりと言われる代表作品「浮雲」とは?
二葉亭四迷の代表作「浮雲」は1887年から1889年にかけて発表された小説です。「浮雲」は坪内逍遥の書いた「当世書生気質(小説神髄の理論を小説化した書物)」に対抗して執筆され、その内容を補填する形で完成させられました。かねてから逍遥の「小説神髄」には足りない部分があると感じていた四迷はこれを批判する形で内容を充実させようとしたのです。
「浮雲」は当時の書物としては珍しい「言文一致体」という手法で執筆されました。「言文一致体」とは日常の会話調で文章を書くことで、広義の意味では口語文とも言います。明治時代に言文一致運動が巻き起こったのは二葉亭四迷の「浮雲」がきっかけと言われ、それまでの文語文に代わって多くの「言文一致体」の書籍が出版されるようになったのでした。
また、これまでの書物のような「勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)」ではなく、人間同士の繋がりに重点を置いたことも新しい試みだったのです。
二葉亭四迷はロシア文学の影響を受けて言文一致体を採用したと考えられており、「浮雲」の参考となったのはロシアの作家イワン・ゴンチャロフの「オブローモフ」ではないかと言われています。
浮雲を「坪内逍遥」の名前を借りて出版した理由
二葉亭四迷は「浮雲」を発表する際に師である坪内逍遥の本名「坪内雄蔵」名義で出版しました。逍遥の後押しを受けたことや、先に世に出て名が知れている逍遥の名前を借りることで「本の販売を促進しよう」と考えたことから、逍遥の本名を借りたのです。
四迷はのちにこの事を後悔し、反省の意味も込めて、自らに向かって「くたばってしめえ」と罵ったそうです。ここから「くたばってしめえ→くたばてしめい→ふたばていしめい」というペンネームが誕生したという逸話が残っています。
なお、二葉亭四迷のペンネームの由来については諸説あり、四迷が文学の道へ進むことを快く思っていなかった父親から「くたばってしまえ」と言われたという説や、読者の評価を気にしてそれに迎合した文章を書いてしまう自分に嫌気がさして「くたばってしめえ」と言ったという説があります。
二葉亭四迷がロシア文学にハマったきっかけ
二葉亭四迷はロシア文学の翻訳や、ロシアに何回も赴任するなどロシアとの関わりが強くありました。四迷がロシア語を学ぼうと思ったきっかけは、軍人や外交官になる目標のある四迷にとって、近い将来敵国となるであろうロシアの言語を習得しておくべきであると感じたことです。
しかし、実際に東京外国語学校に入学してみると、当時教鞭を執っていたニコラス・グレイと言う教師が、文学書を朗読するだけの授業をしており、またそれが非常にうまかったため、四迷は次第にロシア文学へと引き込まれていくようになるのでした。
東京外国語学校在学中、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、トルストイの「戦争と平和」までを授業において読破してしまったのです。この講義のスタイルに影響された四迷は自身も文学の道に進むことを決めるのでした。
二葉亭四迷の功績
功績1「ツルゲーネフなどの海外作家の翻訳を行う」
二葉亭四迷は学生時代にロシア語を専攻していたことから、ロシア文学にも親しみを持っていました。特にツルゲーネフの作品を好み、1886年に初めて「父と子」という作品の翻訳に取り組みます。この翻訳は一部のみにとどまり、未発表に終わりますが、1887年には「めぐりあひ」と「あひびき」の2作品を発表しました。
「あひびき」はツルゲーネフの「猟人日記」という作品を翻訳したもので、若い男女の心の動きを自然の描写とともに描かれており、この自然描写の文体が国木田独歩や田山花袋ら多くの小説家に影響を与えました。
功績2「内閣官報局で貧民救済策に骨を折る」
二葉亭四迷は「浮雲」を最後に小説活動を休止すると、内閣官報局の官吏としての仕事を担うようになりました。四迷は社会主義の考えを支持していたため、世の中をよくするためには貧富の差の是正が重要課題であると考えます。
昔から四迷は「人間の美しい天真はお化粧をして綾羅に包まれてる高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の下層者にかえって真のヒューマニティを見ることができる」という思想を持っていたため、貧民救済策を講じるべく、奔走する日々を送るようになりました。そして、最初に結婚した福井つねという女性とはこの貧民街で出会うことになります。