二葉亭四迷とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名前の由来、性格や死因についても紹介】

1887年 – 23歳「代表作「浮雲」の発表」

浮雲

二葉亭四迷の代表作となる「浮雲」の発表

1887年、「浮雲」の第一編を坪内逍遥の本名・坪内雄蔵をペンネームにして刊行することになります。この時、師匠の名をペンネームとして使用したことを恥じ、自身に向かって「くたばってしめえ」となじったことから、「二葉亭四迷」という名前を生み出すことになりました。

「浮雲」はその後、第二編、第三編も出版され、日本の近代小説の始まりとしてとらえられるようになります。特徴的だったのは言文一致の文体で書かれていたこと、写実主義の描写であったことです。これまでに言文一致で書かれた書物はほとんどなかったため、当時の他の小説家たちには衝撃を与えることとなりました。

ツルゲーネフの作品を翻訳

ツルゲーネフ

四迷は東京外国語学校でロシア語を専攻し、ロシア文学へ興味を持ったことから文学の世界へと入ってきました。特にロシア写実主義文学に陶酔しており、ツルゲーネフの作品などを好んで読んでいたのです。

四迷は1888年にツルゲーネフの作品を翻訳し、「めぐりあひ」と「あひびき」として刊行することになりました。そのうち「猟人日記」という作品を訳した「あひびき」は、その翻訳技術が国木田独歩をはじめとする同業者からも賞賛されます。そして、その後もトルストイ、アンドレーエフ、ゴーゴリなどの作品を翻訳しました。

1889年 – 25歳「内閣官報局の官吏に」

貧民街

内閣官報局の職を得ると貧民救済策を講じる

1889年に内閣官報局へ就職すると、貧富の差を是正するべく、貧民救済策を講じることになります。四迷は常々、「人間の美しい天真はお化粧をして綾羅に包まれてる高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の下層者にかえって真のヒューマニティを見ることができる」と言っていました。そして、毎日のように貧民街へ出入りし、貧民問題や労働問題について考える日々が続いたのです。

このときに貧民街で出会った娼婦・福井つねと1893年に結婚することになります。1男1女をもうけましたが、3年間の結婚生活を経て、1896年に離婚することになってしまったのでした。

1895年 – 31歳「ロシア語の教師として活躍」

教師 イメージ

ロシア語の教師として様々な機関に勤める

ロシア語を習得した経験を生かして、1895年に陸軍大学校ロシア語教示嘱託となったことを皮切りに、1899年には東京外国語学校のロシア語教授、海軍大学校ロシア語教授嘱託を勤めました。四迷の講義は評判が良く、教え子からも慕われていたそうです。

エスペラントの書籍を出版

1902年にロシアや中国(ハルビンや北京)へと旅立つことになります。ロシア滞在中にはエスペラントと呼ばれる人工言語を学びました。エスペラントは母国語の異なる人の間でコミュニケーションを可能にする国際補助語で、世界で最も認知されているものです。

エスペラント

日本へ帰国すると、エスペラントに関する書籍を執筆し始め、1906年には入門書として出版することになるのでした。

1904年 – 40歳「朝日新聞社に就職し、小説を発表」

其面影

大阪朝日新聞に入社、東京朝日新聞へ異動し、小説を発表

日本へと帰国すると、1904年に友人の紹介により、大阪朝日新聞社に勤めるようになります。しかし、当初与えられた仕事は四迷には向いておらず、東京朝日新聞へと異動することになりました。東京朝日新聞社では小説を書くように勧められ、「其面影」や「平凡」を発表します。

給料も良く、読者からも好感触が得られたため、小説家としてはまずまずの再スタートを切ることになったのです。

ロシアへ赴任

舞姫

1908年に朝日新聞の特派員としてロシアへ赴任することになります。滞在中は森鴎外の「舞姫」をロシア語に訳したり、東京外国語学校の恩師がいるペテルブルクを訪問したりしました。

一方で、ロシアの気候に馴染むことができず、次第に体調を崩すことが多くなっていくのでした。

1909年 – 45歳「二葉亭四迷死去・死因は肺結核による肺炎」

ベンガル湾 海岸線

肺結核を患い、日本へ帰還中に帰らぬ人に

四迷は、ロシア滞在中に出席したウラジーミル大公の葬儀で発熱を来たし、弱っているところへ肺結核に罹患しました。大事を取って日本へ帰国することとなりますが、帰国途中のベンガル湾上で肺炎が悪化し、そのまま帰らぬ人となるのです。享年45歳でした。

四迷の死後、1910年には二葉亭四迷全集が出版されることが決定します。この時校閲を務めたのは、「一握の砂」で知られる石川啄木でした。

二葉亭四迷の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

浮雲

言わずと知れた二葉亭四迷の代表作です。四迷が23歳の時に執筆された作品で、人間がいかに生きていくべきかを自問し、自らの考えを表しています。言文一致体で書かれ、日本における近代小説の始まりを告げることになった名作となっています。

平凡

1907年、二葉亭四迷が33歳の時に書かれた小説で、主人公が半生を振り返るという形で文学への批判を述べている作品となっています。四迷が何を考え、どのように生きるべきかを自問し続け、出て来た答えを自らの言葉でつづっています。

其面影

大きな変遷期にあった明治の日本、価値観が目まぐるしく変化する中で四迷が経験した葛藤を記した作品となっています。この時代における成功とは何なのか、幸福とは何なのか、二つは両立できるのか、深い洞察力によって執筆された名作です。

おすすめの翻訳作品・エスペラント入門書

あいびき

19世紀ロシアの代表的な小説家であるイワン・ツルゲーネフによる小説を二葉亭四迷が翻訳した作品です。男女の心理の微妙な揺れ動きを、自然の移ろいとともに描写しています。この作品は後年、国木田独歩や田山花袋などに多大な影響を及ぼしました。

エスペラントの話

二葉亭四迷がロシアに滞在した時に学んだエスペラントを、帰国した際に入門書として出版した書籍です。わずか数ページほどの内容となっていますので、興味のある方は読んでみてください。これをきっかけにエスペラントを学びたくなるかもしれません。

二葉亭四迷についてのまとめ

二葉亭四迷は幼少期から漢学やフランス語などの勉学に励み、学生となってからもロシア語の習得に力を注ぎました。その過程で出会ったロシア文学に魅せられ、文学の道を歩むことになるのです。

彼が弱冠23歳で執筆した「浮雲」は当時としては珍しい言文一致体で構成されました。これが日本における近代小説の始まりとなり、多くの小説家に影響を与えたのです。四迷は翻訳の腕も確かなものを持っており、ツルゲーネフの「猟人日記」を訳した「あひびき」も国木田独歩をはじめとする小説家を魅了したのでした。

最期は肺結核によって帰らぬ人となってしまいますが、四迷が日本の近代文学に与えた影響は計り知れません。この功績は今後も語り継がれていくことでしょう。

今回は二葉亭四迷についてご紹介しました。この記事をきっかけにさらに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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