二葉亭四迷の名言
「死んでもいいわ。」
これはツルゲーネフの「片恋」に出てくる「I LOVE YOU.」という文章を四迷が「死んでもいいわ。」と訳したことから来ています。夏目漱石が「I LOVE YOU.」を「月が綺麗ですね。」と訳したことは有名ですが、実は四迷の訳の方が先なのです。
「いや、人生は気合だね。」
なんとも力強い言葉ですが、短い文言なので、真の意味について推し量りかねます。人生は誰しも順風満帆にいくものではないので、苦難を乗り越えるためには気合が必要だということを伝えているのでしょう。
「信ずる理由があるから信じているのではなくて、信じたいから信じているのだ。」
人の世は簡単に信じると容易に騙されてしまう世界です。この人は絶対に大丈夫と言い切れないのが人間でしょう。それでも人を信用したいのであれば、自分が信じたいと思って信じるのが良いのではないかということを教えてくれている気がします。
二葉亭四迷にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「夏目漱石が最後の晩餐に同席」
二葉亭四迷は1908年に朝日新聞の特派員としてロシアに赴くことになり、その壮行会を東京・上野の精養軒で行いました。その壮行会には文豪・夏目漱石も出席していたそうです。また、この直前にも神田明神にある鰻料理店「神田川」で、二葉亭四迷、夏目漱石、鳥居素川(大阪朝日新聞主筆)の3人で会食を行いました。
四迷はその後、ロシアへと出張しましたが、赴任先での仕事の最中に体調を崩し、肺結核を患います。そして日本への帰国途中のベンガル湾上で亡くなってしまうのでした。つまり、漱石とともにした食事が四迷の最後の晩餐となったのです。
都市伝説・武勇伝2「死後に全集を出版する際に校閲をしたのは石川啄木」
二葉亭四迷の死後一年後の1910年、四迷の全集が出版されることが決定します。この時に四迷の作品を校閲したのは、当時朝日新聞校閲係だった石川啄木(代表作「一握の砂」、26歳で夭折)でした。この校閲をした際に、啄木は「二葉亭四迷は革命的色彩に富んだ文学者だ」と評したそうです。
啄木は借金をしやすいタイプの人間であったため、当時は収入を得るためにどんな仕事でももらうようにしていました。そして、朝日新聞で西村眞次が行っていた四迷全集の校閲を引き受けることとなるのです。ちなみに四迷の全集を編集したのは四迷の師匠でもあった坪内逍遥でした。
都市伝説・武勇伝3「森鴎外の『舞姫』をロシア語訳」
二葉亭四迷は森鴎外に「舞姫」のロシア語訳をさせてもらえるように許しを請い、承諾を得ることになります。鴎外は四迷の書いた「浮雲」に関心を持っており、自身の雑記帳に「長谷川辰之助(二葉亭四迷の本名)に会いたい」となんども書いていたようです。
その四迷から直々に書簡によって翻訳の申し出が来たため、鴎外は「舞姫」の翻訳を快く承諾したという経緯でした。そして、鴎外と四迷は後日、会見することとなり、その際に鴎外は「長谷川辰之助君は、舞姫を訳させてもらってありがたいというような事を最初に言われた。それはあべこべで、お礼は私が言うべきだ、あんな詰まらないものを、よく面倒をみて訳して下さった。」と述べたそうです。
二葉亭四迷の簡単年表
二葉亭四迷(長谷川辰之助)の出生場所に関しては諸説ありますが、江戸の市ヶ谷合羽坂にある尾張藩上屋敷に誕生した説が有力です。父は鷹狩り供役を務めていた長谷川吉数で、母は志津という名前でした。
4歳になると名古屋へと移ることになります。そこでは国学者の野村秋足の私塾で漢学を学び、修了後、名古屋藩学校へと入学し、軍事学者で翻訳家でもある林正十郎のもとでフランス語を勉強することになりました。
父の異動とともに島根県松江に引っ越すことになりました。辰之助(二葉亭四迷)は漢学者の内村友輔から漢学を学ぶようになります。
洋学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)を卒業すると、軍人になることを目指して陸軍士官学校を受験します。結果は不合格であったため、外交官に目標を変更し、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科へと進みました。当初はロシアと日本の関係性に危機感を抱いたことがロシア語を学ぶきっかけでしたが、辰之助はロシア文学へとのめり込むようになります。
東京外国語学校と東京商業学校(現在の一橋大学)が合併し、新しく校長が就任することになりますが、辰之助はその校長が気に入らず、退学を申し出ることにします。その後は専修学校(現在の専修大学)へと移籍することになるのでした。
専修学校を卒業すると、辰之助は「小説神髄」や「当世書生気質」で有名な坪内逍遥の自宅へと赴くようになります。足しげく通ううちに完成した「小説総論」を中央学術雑誌へと発表しました。「小説総論」は逍遥の「小説総論」の内容をさらに深めて、より完成度の高い作品に仕上げたとされる評論です。
1887年、辰之助は23歳にして「浮雲」を発表することになります。この第一編を発表する際に用いたペンネームが逍遥の本名でした。辰之助はのちに、師匠の名を借りて本を出版することを恥じるようになり、「くたばってしめえ」と自らを罵ります。この言葉を文字って、「二葉亭四迷」という作家名を使用することになるのでした。
四迷はロシア語を専攻していたことから、ロシア写実主義文学の翻訳を行うようになります。ツルゲーネフの「めぐりあひ」や「あひびき」は当時の作家に大きな影響を与えることになるのでした。
25歳になると、内閣官報局に職をもらい、貧民救済策に精を出すようになりました。最初の妻である福井つねとはこの時に出会います。
内閣官報局の職員として貧民街に出入りしている際に出会った当時、娼婦として生活していた福井つねと結婚することになります。同年に長男玄太郎が誕生しました。翌年にも長女せつが誕生しますが、3年間の結婚生活を経て1896年に離婚することとなります。
四迷はロシア語に精通していることを買われ、1895年に陸軍大学校ロシア語教示嘱託、1899年に東京外国語学校のロシア語教師、1901年に海軍大学校ロシア語教授嘱託を勤めることになりました。
四迷は1902年から1903年にかけてロシアと中国・ハルビンに滞在することになります。ロシアではエスペラント(国際補助語として世界でもっとも認知されている人工言語で、異国間のコミュニケーションを可能とする)を学び、日本へ帰国後に教科書を出版しました。
日本へ帰国すると、大阪朝日新聞に勤務することになりますが、すぐに東京朝日新聞へと移籍することが決まります。東京朝日新聞では小説を連載することを勧められ、「其面影」や「平凡」を発表することになりました。
前の妻・福井つねと離婚してから8年後、高野りうという女性と再婚します。りうとの間には2人の子供をもうけました。そして、四迷がなくなるまで寄り添うことになります。
会社の特派員としてロシアへと派遣されます。恩師のいるペテルブルクを訪ねたり、森鴎外の「舞姫」をロシア語訳したりしていましたが、ロシアの環境に合わず、体調を崩すことが多くなりました。
1909年に行われたロシア皇帝の三男・ウラジーミル大公の葬儀に参加します。しかし、その直後から発熱をきたし、肺結核に犯されていることが発覚しました。帰国を試みましたが、日本へ帰る途中のベンガル湾上で肺炎が悪化し、そのまま帰らぬ人となります。
四迷の死後一年後の1910年、二葉亭四迷の全集が朝日新聞社から出版されることが決定します。この時に校閲を行ったのは「一握の砂」で有名な石川啄木でした。
二葉亭四迷の年表
1864年 – 0歳「二葉亭四迷の誕生」
江戸の市ヶ谷にて長谷川辰之助(二葉亭四迷)誕生
二葉亭四迷は本名を長谷川辰之助と言い、尾張藩士の鷹狩り(鷹を訓練し、他の鳥類やウサギなどの哺乳類を捕獲する)の父・長谷川吉数と母・志津との間に生まれました。生まれた場所は諸説ありますが、江戸市ヶ谷合羽坂の尾張藩上屋敷が有力であるとされています。
1868年、辰之助が4歳の時に母の実家がある名古屋に移ったことが記録として残っています。そこでは国学者の野村秋足のもとで漢学を、名古屋藩学校に入学後は軍事学者かつ翻訳家の林正十郎のもとでフランス語を学ぶことになりました。1872年、8歳の時に、父・吉数が島根県松江に転勤となったため、辰之助も一緒に引っ越すことになり、松江の地では漢学者の内村友輔から漢学を学ぶようになります。
1881年 – 17歳「東京外国語学校ロシア語科に進学」
高等学校卒業後、外交官を目指して東京外国語学校へ
辰之助は幼少期から順調に勉強を重ね、17歳で洋学校を卒業すると、軍人を目指して陸軍士官学校を受験しました。しかし、結果は不合格であったため、外交官に目標を変更し、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)ロシア語科に進学します。
当時の軍人や外交官になるという目標は千島樺太交換条約での日本とロシアの関係性に危うさを感じたことからで、自分でこの状況を変えていこうと意気込んでいました。しかし、実際にロシア語を学んでいくと、ツルゲーネフをはじめとするロシア文学にのめり込んでいくようになります。
専修大学へ移籍
東京外国語学校は辰之助の在籍中に東京商業学校(現在の一橋大学)との合併することになります。両校を合わせて東京商業学校となると、校長の入れ替えも行われ、辰之助にはその人物が気に入りませんでした。そのため、退学届を提出します。
1883年2月からは専修学校(現在の専修大学)へ通うようになり、約3年をかけて卒業しました。大学卒業後は文学の道へ進むことを決意し、「小説神髄」や「当世書生気質」で有名な坪内逍遥の元を訪ねます。逍遥に書生として受け入れられ、1886年には「小説神髄」の内容を補填する形の「小説総論」を中央学術雑誌に発表することになりました。