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北宋とはどんな国?歴史や文化、経済大国だった理由を解説

「北宋ってどんな国?」
「北宋の歴史や金、南宋はどんな関係?」
「北宋時代の絵画や書道、陶器など美術とは?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。

北宋とは、趙匡胤が960年に建国した王朝です。開封に都をおいた宋王朝は979年に中国全土を統一します。宋は農業生産力の向上や商業の発展により経済大国となります。

しかし、軍事力は弱く北方の遼や西方の西夏の侵入に苦しみ、歳幣をはらうことで平和を維持しました。

この記事では、北宋とはどんな国だったのか、北宋の歴史や金王朝、南宋とのかかわり、北宋時代に発達した美術などについて解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

北宋とはどんな国?

北宋時代の地図

北宋が存在したのはいつからいつまで?

北宋が存在したのは10世紀後半から12世紀前半にかけてです。中国の北方には遊牧民の国である遼(契丹)、シルクロード沿いの河西回廊にはタングート人の西夏がありました。

朝鮮半島では高麗による支配が続きます。日本は平安時代の中期にあたり、摂関政治が行われていたころです。

中東ではセルジューク朝が支配地域を拡大させ、ビザンツ帝国から小アジアを奪います。ビザンツ帝国はローマ教皇に支援を要請し、第1回十字軍が始まりました。

北宋はどの地域を支配した国?

北宋が支配した地域は、現在の中国の中でも漢民族が多く住む地域です。前の王朝と比べるとかなり狭いのが特徴です。

979年、北宋は五代十国の最後の国となった北漢を滅ぼし、中国を統一しました。しかし、燕雲十六州とよばれる現在の北京のまわりにあたる地域は遼に占領されたままとなります。

北宋の歴代皇帝は燕雲十六州の奪還を悲願としましたが、結局果たせませんでした。

豊かな富を生み出した北宋の経済力の要因は?

繁栄する首都開封を描いた「清院本清明上河図」

北宋時代にレベルアップした農業技術

水を用水路からくみ上げる道具「竜骨車」

北宋時代は中国史の中でも経済力がとても発達した時代でした。北宋の経済成長を支えたのは農業技術の発展です。

水田に種をじかまきするのではなく苗を植える田植えは、の時代に始まっていました。田植えが本格化するのは北宋時代です。水田に水をくみ上げる道具である「竜骨車」の導入も進みました。

また、石炭を燃料として使用することで火力が上がり、質の良い鉄や銅を大量に作り出せるようになります。そのおかげで鉄製農具の大量生産が可能となりました。安くなった鉄製農具を使うことで農業生産力もアップします。

占城稲と似た品種である「赤米」

北宋時代、干ばつに強い占城稲が導入されました。占城とは現在のベトナム中部にあったチャンパ王国のことです。干ばつに強い占城稲の登場により、コメの生産量は増加します。

また、早熟の占城稲と従来の収穫が遅い稲を組み合わせることで1年に2回収穫する二期作が可能となりました。これも農業生産力の向上につながります。

「清明上河図」に描かれた首都開封の繁栄

12世紀に描かれた「清明上河図」

「清明上河図」とは、北宋の都となった開封がさかえている様子を描いた絵のことです。開封は五代十国の時代から各国の首都となりました。なぜ、開封は繁栄したのでしょうか。

その理由は大運河にあります。大運河を本格的に整備したのは隋の煬帝でした。大運河は農業地帯である江南と消費地である華北を結ぶ物流のかなめとなります。

開封は南から伸びた大運河が黄河とむすびつく場所にある都市です。中国大陸の南北をつなぐ位置に存在する開封は経済の一大中心地となりました。

また、開封では商業がさかんにおこなわれます。の都長安では決められた場所でしか商売ができなかったのに対し、開封はいたるところに商店が立ち並びました。中には深夜営業をする「夜市」もありました。

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