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北宋とはどんな国?歴史や文化、経済大国だった理由を解説

「北宋ってどんな国?」
「北宋の歴史や金、南宋はどんな関係?」
「北宋時代の絵画や書道、陶器など美術とは?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。

北宋とは、趙匡胤が960年に建国した王朝です。開封に都をおいた宋王朝は979年に中国全土を統一します。宋は農業生産力の向上や商業の発展により経済大国となります。

しかし、軍事力は弱く北方の遼や西方の西夏の侵入に苦しみ、歳幣をはらうことで平和を維持しました。

この記事では、北宋とはどんな国だったのか、北宋の歴史や金王朝、南宋とのかかわり、北宋時代に発達した美術などについて解説します。

北宋とはどんな国?

北宋時代の地図

北宋が存在したのはいつからいつまで?

北宋が存在したのは10世紀後半から12世紀前半にかけてです。中国の北方には遊牧民の国である遼(契丹)、シルクロード沿いの河西回廊にはタングート人の西夏がありました。

朝鮮半島では高麗による支配が続きます。日本は平安時代の中期にあたり、摂関政治が行われていたころです。

中東ではセルジューク朝が支配地域を拡大させ、ビザンツ帝国から小アジアを奪います。ビザンツ帝国はローマ教皇に支援を要請し、第1回十字軍が始まりました。

北宋はどの地域を支配した国?

北宋が支配した地域は、現在の中国の中でも漢民族が多く住む地域です。前の唐王朝と比べるとかなり狭いのが特徴です。

979年、北宋は五代十国の最後の国となった北漢を滅ぼし、中国を統一しました。しかし、燕雲十六州とよばれる現在の北京のまわりにあたる地域は遼に占領されたままとなります。

北宋の歴代皇帝は燕雲十六州の奪還を悲願としましたが、結局果たせませんでした。

豊かな富を生み出した北宋の経済力の要因は?

繁栄する首都開封を描いた「清院本清明上河図」

北宋時代にレベルアップした農業技術

水を用水路からくみ上げる道具「竜骨車」

北宋時代は中国史の中でも経済力がとても発達した時代でした。北宋の経済成長を支えたのは農業技術の発展です。

水田に種をじかまきするのではなく苗を植える田植えは、唐の時代に始まっていました。田植えが本格化するのは北宋時代です。水田に水をくみ上げる道具である「竜骨車」の導入も進みました。

また、石炭を燃料として使用することで火力が上がり、質の良い鉄や銅を大量に作り出せるようになります。そのおかげで鉄製農具の大量生産が可能となりました。安くなった鉄製農具を使うことで農業生産力もアップします。

占城稲と似た品種である「赤米」

北宋時代、干ばつに強い占城稲が導入されました。占城とは現在のベトナム中部にあったチャンパ王国のことです。干ばつに強い占城稲の登場により、コメの生産量は増加します。

また、早熟の占城稲と従来の収穫が遅い稲を組み合わせることで1年に2回収穫する二期作が可能となりました。これも農業生産力の向上につながります。

「清明上河図」に描かれた首都開封の繁栄

12世紀に描かれた「清明上河図」

「清明上河図」とは、北宋の都となった開封がさかえている様子を描いた絵のことです。開封は五代十国の時代から各国の首都となりました。なぜ、開封は繁栄したのでしょうか。

その理由は大運河にあります。大運河を本格的に整備したのは隋の煬帝でした。大運河は農業地帯である江南と消費地である華北を結ぶ物流のかなめとなります。

開封は南から伸びた大運河が黄河とむすびつく場所にある都市です。中国大陸の南北をつなぐ位置に存在する開封は経済の一大中心地となりました。

また、開封では商業がさかんにおこなわれます。唐の都長安では決められた場所でしか商売ができなかったのに対し、開封はいたるところに商店が立ち並びました。中には深夜営業をする「夜市」もありました。

北宋の歴史年表

開封市の竜亭公園

960年:趙匡胤が北宋を建国

北宋の建国者、趙匡胤

北宋を建国した趙匡胤は後周の節度使でした。後周の皇帝が急死し、幼い君主が即位します。趙匡胤の部下たちは、幼い君主のままでは不安だとして趙匡胤に皇帝にしようと考えました。

ある日、武装した部下たちは酔いつぶれている趙匡胤に皇帝の衣装である黄色の上着を着せ、無理やり皇帝にしてしまいました。これを陳橋の変といいます。皇帝となった趙匡胤は前王朝の幼い皇帝を殺さず、厚く遇しました。

趙匡胤は中国歴代皇帝の中でも非常に高く評価されている人物です。無益な殺害をせず、武人たちを抑えて官僚中心の文治主義を行ったのがその理由です。

国内体制を整備し、権力基盤を固めた趙匡胤は地方政権を次々と併合します。残すは遼を後ろ盾とする北漢のみとなりました。しかし、趙匡胤は976年に急死してしまいます。

979年:2代目太宗が中国を統一

2代皇帝太宗

急死した趙匡胤にかわって弟の趙光義が即位しました。これが2代皇帝太宗です。趙匡胤には成人した男子が何人もいたのに、弟が即位したことから、趙匡胤は弟の趙光義に殺害されたのではないかという疑惑が生まれます。

しかし、証拠が何もないことから今もって結論が出ていません。千年たっても結論は出ないだろうという意味で、この一件は「千載不決(せんさいふけつ)の議」といわれます。

2代皇帝となった太宗は北漢を攻め滅ぼし中国を統一しました。しかし、統一からもれた地域がありました。それが、のちに遼と領有権を争う「燕雲十六州」です。

燕雲十六州を取り戻せず、遼と無念の和睦となった澶淵(せんえん)の盟

遼が支配した燕雲十六州(地図中の黄色部分)

中国が宋によって統一される前の五代十国の時代、モンゴル高原から中国の東北地方にあたる地域を支配していたのは契丹人が建てた遼でした。遼は五代の一国である後晋の建国を助け、その見返りとして燕雲十六州を得ます。

燕雲十六州は現在の北京周辺にあたる地域で、古代から漢民族が住む地域でした。北宋は遼から燕雲十六州をうばいかえそうとしました。しかし、軍事力にまさる遼を打ち破ることができません。

1004年、遼の皇帝聖宗は20万と号する大軍で北宋に攻め込みます。大軍の侵攻に驚いた北宋は遼に和平を提案しました。結局、北宋を兄、遼を弟として北宋のメンツを立てる一方、毎年絹20万疋、銀10万両を歳幣として北宋が遼に支払うことで和平が成立しました。

1004年に結ばれたこの和平のことを澶淵の盟といいます。歳幣を支払うことで侵攻を逃れた澶淵の盟は北宋にとって屈辱的な和平でした。

河西回廊を西夏に明け渡した慶暦の和約

西夏の都、興慶(現在の銀川市)にある西夏王の墓

1038年、中国北西部の河西回廊とよばれた地域にタングート人が西夏を建国しました。西夏は東西交易の中継地点である西域を抑えることで発展しました。

西夏は遼と友好関係を結び、共通の敵である北宋に対抗します。

攻め込んできた西夏に対し、北宋は和平策を取りました。1044年、西夏王は形式的に北宋の臣下になるかわりに、毎年絹13万疋、銀5万両、茶2万斤を得ることになりました。この和約を慶暦の和約といいます。

1070年:王安石の改革がはじまる

北宋で政治改革をおこなった王安石

王安石の改革とは

北宋は澶淵の盟や慶暦の和約により外敵の侵入が少ない平和を手に入れました。しかし、増加する官吏への給与や遼や西夏に送る歳幣、国境警備の費用などがかさみ、北宋は財政難となりました。

1070年、6代皇帝の神宗は王安石を宰相に任じ改革を行わせました。世にいう王安石の改革の始まりです。

王安石は農業・商業・軍事などあらゆる面で政治改革を実行しました。王安石が行った政治改革を「新法」といいます。

「新法」の主な内容として、農民に資金や種子を貸し付ける青苗法や各地の特産物を政府が買い上げ、不足している地域に政府が転売する均輸法、中小商人に貸し付けを行う市易法、農民の労役のかわりに銭を納めさせる募役法、農閑期に農民を訓練し兵士とする保甲法、政府が農民に馬を貸し与え、戦時に軍馬として徴用する保馬法などがあります。

改革で国が混乱!?新法党と旧法党の対立とは

資治通鑑

王安石の新法は、中小農民の土地を買い占めていた地主や中小商人を締め出すことで利益を独占してきた大商人の利害と衝突します。王安石の新法を支持する勢力は「新法党」、反対する勢力は「旧法党」とよばれました。

旧法党の代表人物はのちに歴史書『資治通鑑』を書く司馬光や文人の蘇軾・蘇轍兄弟です。彼らは王安石の新法が急進的だとして強く反対しました。

そのため、北宋の朝廷では新法党と旧法党の対立が激しくなってしまいます。結果的に王安石の改革は北宋を混乱させてしまいました。

1127年:靖康の変で北宋滅亡

靖康の変で北方に連れ去られた徽宗

1100年、北宋の徽宗が8代皇帝となります。徽宗の時代になっても、北宋のなかでは新法党と旧法党の対立が続いていました。徽宗は政治を臣下に任せ、大好きな書画の世界に没頭するようになります。

このころ、遼に支配されていた女真族は完顔阿骨打にひきいられて金を建国しました。北宋は金と同盟し遼をはさみうちにしようとします。同盟にもとづき、金は遼を攻め大打撃を与えました。

そして、金はほぼ自力で遼を滅ぼします。金は同盟の時に約束していた歳幣を北宋にもとめました。しかし、北宋は約束した金額を支払いません。怒った金は北宋の都の開封を攻め落としました。

金は皇帝から退位した徽宗と、かわって即位した欽宗など北宋の皇族を北方に連れ去ります。この事件を靖康の変といいました。靖康の変により北宋は滅亡します。

なぜ、北宋はこんなに戦争に弱いのか?

科挙

北宋は経済的にとても豊かでした。にもかかわらず、宋軍は遼や西夏、金との戦いにしばしば敗れます。なぜ、こんなにも宋軍は弱かったのでしょうか。理由は三つあります。

一つ目は、宋が科挙官僚を中心とする文官に治められた国だったからです。北宋の初代皇帝趙匡胤は節度使出身でした。そのため、軍人が力を持ちすぎると皇帝権力が危うくなることを理解しています。だから、趙匡胤は節度使や藩鎮の力を徐々に削りました。

二つ目は、地方軍が弱かったことです。北宋の軍事力は都にある「禁軍」に集中していました。地方の国境警備に当たった廂軍(しょうぐん)は老兵が多く、遼や西夏、金の軍とまともに戦うことはできません。

三つ目は、北宋の軍が金で雇われる傭兵だったことです。傭兵は戦局が不利になれば自分の命を大事と考え、逃げ腰になります。

こうして、北宋の軍は数ばかり多いが実戦では弱い軍隊となってしまいました。

経済力を背景とした北宋時代の文化

文化や経済の担い手になった士大夫

皇帝が画家!?北宋で花開いた院体画

徽宗が描いたとされる「桃鳩図」

北宋時代、豊かな経済力を背景に華麗な文化が花開きました。中でも、絵画の世界では皇帝の徽宗自らが画家として腕を振るいます。徽宗が得意としたのは花鳥を題材とする院体画でした。

院体画は写実と色彩を重視する画風で、徽宗のほかに馬遠、夏珪などがいます。極彩色で華麗な画風が特徴です。

皇帝の鶴の一声でつくられた「雨下天晴」の青磁

南宋時代、龍泉窯で焼かれた青磁

北宋時代、景徳鎮などでは磁器が生産されるようになります。磁器のうち、白いものを白磁、青っぽいのを青磁といいます。青磁の中でも色鮮やかなものに「天青色」があります。この色の誕生にも徽宗が深くかかわりました。

あるとき、徽宗は臣下に「雨上がりの空の青さ(天晴色)」の青磁を作れと命じました。青磁は青といっても緑がかった青でした。徽宗は空の青空のような青を作れと命じたのです。試行錯誤の末出来上がったのが「雨下天青」とよばれる青磁でした。

現在、「雨下天青」の青磁は再現不可能だとされます。北宋滅亡と同時に技術が失われたからです。「雨下天青」の青磁は、北宋と共にきえさってしまいました。

南宋時代、龍泉窯で青磁が焼かれますが、北宋時代に天青色を生み出した汝窯の青磁には及びませんでした。

書道に精通した北宋四大家

米芾が書いた「蜀素帖」

書道を芸術の域に高めたのは南北朝時代の王羲之です。その後、唐の時代に初唐時代に三大家(虞世南・欧陽詢・褚遂良)によって楷書が完成しました。盛唐の顔真卿は力強い筆法で知られます。

彼らに続いたのが北宋時代の書の名手、北宋四大家でした。四大家とは、蔡襄(さいじょう)・蘇軾(そしょく)・黄庭堅(こうていけん)・米芾(べいふつ)のことです。彼らは唐の時代までに確立した伝統的な書道ではなく、創作を重視します。

靖康の変の前後を描いた歴史ドラマ『岳飛伝』

岳飛を祀った廟にある秦檜夫妻の像

岳飛を祀った廟にある秦檜夫妻の像靖康の変で徽宗や欽宗が北方に連れ去られた後も、中国各地で宋軍が金軍に抵抗していました。中でも大活躍したのが岳飛です。

岳飛は中国でとても愛された英雄です。彼にまつわるドラマが中国で制作されました。その名も『岳飛伝』です。岳飛は北宋や南宋の将軍として金軍をたびたび打ち破りました。しかし、南宋の宰相である秦檜は金から華北を取り戻すことをあきらめ、和平を結ぼうとします。

秦檜は金との和平に反対する岳飛を罪に陥れ殺してしまいました。秦檜は屈辱的な和平を結び、巨額の賠償を支払った売国奴として民衆から憎悪されました。ドラマ『岳飛伝』では、岳飛の活躍と秦檜の暗躍がとてもわかりやすく描かれています。かなりの長編ドラマですが、オススメです。

北宋に関するまとめ

いかがだったでしょうか。

北宋は10世紀後半から12世紀前半にかけて中国を支配した王朝です。軍事力が弱く遼や西夏、金に攻め込まれ、歳幣を支払うことで平和を維持します。
経済的にはとても豊かで、農業生産量や商業の発達がみられました。しかし、北宋の後半には財政的に行き詰まり、神宗の宰相である王安石による改革が実行されます。

ところが、王安石の新法に賛成する勢力と反対する勢力が朝廷でぶつかり合うようになり、かえって北宋は混乱状態に陥ってしまいます。

最終的に、北宋は遼を滅ぼした金によって都の開封を攻め落とされ、国土の半分を失い滅亡しました。北宋の皇族の一人が江南に逃げ南宋を建てたことで宋王朝自体は100年以上延命します。

北宋とはどんな国だったのか、北宋の建国者や北宋の歴史とはどんなものだったのか、北宋と南宋や遼、金との関係はどうだったのかなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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