北宋とはどんな国?歴史や文化、経済大国だった理由を解説

1127年:靖康の変で北宋滅亡

靖康の変で北方に連れ去られた徽宗

1100年、北宋の徽宗が8代皇帝となります。徽宗の時代になっても、北宋のなかでは新法党と旧法党の対立が続いていました。徽宗は政治を臣下に任せ、大好きな書画の世界に没頭するようになります。

このころ、遼に支配されていた女真族は完顔阿骨打にひきいられて金を建国しました。北宋は金と同盟し遼をはさみうちにしようとします。同盟にもとづき、金は遼を攻め大打撃を与えました。

そして、金はほぼ自力で遼を滅ぼします。金は同盟の時に約束していた歳幣を北宋にもとめました。しかし、北宋は約束した金額を支払いません。怒った金は北宋の都の開封を攻め落としました。

金は皇帝から退位した徽宗と、かわって即位した欽宗など北宋の皇族を北方に連れ去ります。この事件を靖康の変といいました。靖康の変により北宋は滅亡します。

なぜ、北宋はこんなに戦争に弱いのか?

科挙

北宋は経済的にとても豊かでした。にもかかわらず、宋軍は遼や西夏、金との戦いにしばしば敗れます。なぜ、こんなにも宋軍は弱かったのでしょうか。理由は三つあります。

一つ目は、宋が科挙官僚を中心とする文官に治められた国だったからです。北宋の初代皇帝趙匡胤は節度使出身でした。そのため、軍人が力を持ちすぎると皇帝権力が危うくなることを理解しています。だから、趙匡胤は節度使や藩鎮の力を徐々に削りました。

二つ目は、地方軍が弱かったことです。北宋の軍事力は都にある「禁軍」に集中していました。地方の国境警備に当たった廂軍(しょうぐん)は老兵が多く、遼や西夏、金の軍とまともに戦うことはできません。

三つ目は、北宋の軍が金で雇われる傭兵だったことです。傭兵は戦局が不利になれば自分の命を大事と考え、逃げ腰になります。

こうして、北宋の軍は数ばかり多いが実戦では弱い軍隊となってしまいました。

経済力を背景とした北宋時代の文化

文化や経済の担い手になった士大夫

皇帝が画家!?北宋で花開いた院体画

徽宗が描いたとされる「桃鳩図」

北宋時代、豊かな経済力を背景に華麗な文化が花開きました。中でも、絵画の世界では皇帝の徽宗自らが画家として腕を振るいます。徽宗が得意としたのは花鳥を題材とする院体画でした。

院体画は写実と色彩を重視する画風で、徽宗のほかに馬遠、夏珪などがいます。極彩色で華麗な画風が特徴です。

皇帝の鶴の一声でつくられた「雨下天晴」の青磁

南宋時代、龍泉窯で焼かれた青磁

北宋時代、景徳鎮などでは磁器が生産されるようになります。磁器のうち、白いものを白磁、青っぽいのを青磁といいます。青磁の中でも色鮮やかなものに「天青色」があります。この色の誕生にも徽宗が深くかかわりました。

あるとき、徽宗は臣下に「雨上がりの空の青さ(天晴色)」の青磁を作れと命じました。青磁は青といっても緑がかった青でした。徽宗は空の青空のような青を作れと命じたのです。試行錯誤の末出来上がったのが「雨下天青」とよばれる青磁でした。

現在、「雨下天青」の青磁は再現不可能だとされます。北宋滅亡と同時に技術が失われたからです。「雨下天青」の青磁は、北宋と共にきえさってしまいました。

南宋時代、龍泉窯で青磁が焼かれますが、北宋時代に天青色を生み出した汝窯の青磁には及びませんでした。

書道に精通した北宋四大家

米芾が書いた「蜀素帖」

書道を芸術の域に高めたのは南北朝時代の王羲之です。その後、の時代に初時代に三大家(虞世南・欧陽詢・褚遂良)によって楷書が完成しました。盛の顔真卿は力強い筆法で知られます。

彼らに続いたのが北宋時代の書の名手、北宋四大家でした。四大家とは、蔡襄(さいじょう)・蘇軾(そしょく)・黄庭堅(こうていけん)・米芾(べいふつ)のことです。彼らは唐の時代までに確立した伝統的な書道ではなく、創作を重視します。

靖康の変の前後を描いた歴史ドラマ『岳飛伝』

岳飛を祀った廟にある秦檜夫妻の像

岳飛を祀った廟にある秦檜夫妻の像靖康の変で徽宗や欽宗が北方に連れ去られた後も、中国各地で宋軍が金軍に抵抗していました。中でも大活躍したのが岳飛です。

岳飛は中国でとても愛された英雄です。彼にまつわるドラマが中国で制作されました。その名も『岳飛伝』です。岳飛は北宋や南宋の将軍として金軍をたびたび打ち破りました。しかし、南宋の宰相である秦檜は金から華北を取り戻すことをあきらめ、和平を結ぼうとします。

秦檜は金との和平に反対する岳飛を罪に陥れ殺してしまいました。秦檜は屈辱的な和平を結び、巨額の賠償を支払った売国奴として民衆から憎悪されました。ドラマ『岳飛伝』では、岳飛の活躍と秦檜の暗躍がとてもわかりやすく描かれています。かなりの長編ドラマですが、オススメです。

北宋に関するまとめ

いかがだったでしょうか。

北宋は10世紀後半から12世紀前半にかけて中国を支配した王朝です。軍事力が弱く遼や西夏、金に攻め込まれ、歳幣を支払うことで平和を維持します。
経済的にはとても豊かで、農業生産量や商業の発達がみられました。しかし、北宋の後半には財政的に行き詰まり、神宗の宰相である王安石による改革が実行されます。

ところが、王安石の新法に賛成する勢力と反対する勢力が朝廷でぶつかり合うようになり、かえって北宋は混乱状態に陥ってしまいます。

最終的に、北宋は遼を滅ぼした金によって都の開封を攻め落とされ、国土の半分を失い滅亡しました。北宋の皇族の一人が江南に逃げ南宋を建てたことで宋王朝自体は100年以上延命します。

北宋とはどんな国だったのか、北宋の建国者や北宋の歴史とはどんなものだったのか、北宋と南宋や遼、金との関係はどうだったのかなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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