北宋の歴史年表
960年:趙匡胤が北宋を建国
北宋を建国した趙匡胤は後周の節度使でした。後周の皇帝が急死し、幼い君主が即位します。趙匡胤の部下たちは、幼い君主のままでは不安だとして趙匡胤に皇帝にしようと考えました。
ある日、武装した部下たちは酔いつぶれている趙匡胤に皇帝の衣装である黄色の上着を着せ、無理やり皇帝にしてしまいました。これを陳橋の変といいます。皇帝となった趙匡胤は前王朝の幼い皇帝を殺さず、厚く遇しました。
趙匡胤は中国歴代皇帝の中でも非常に高く評価されている人物です。無益な殺害をせず、武人たちを抑えて官僚中心の文治主義を行ったのがその理由です。
国内体制を整備し、権力基盤を固めた趙匡胤は地方政権を次々と併合します。残すは遼を後ろ盾とする北漢のみとなりました。しかし、趙匡胤は976年に急死してしまいます。
979年:2代目太宗が中国を統一
急死した趙匡胤にかわって弟の趙光義が即位しました。これが2代皇帝太宗です。趙匡胤には成人した男子が何人もいたのに、弟が即位したことから、趙匡胤は弟の趙光義に殺害されたのではないかという疑惑が生まれます。
しかし、証拠が何もないことから今もって結論が出ていません。千年たっても結論は出ないだろうという意味で、この一件は「千載不決(せんさいふけつ)の議」といわれます。
2代皇帝となった太宗は北漢を攻め滅ぼし中国を統一しました。しかし、統一からもれた地域がありました。それが、のちに遼と領有権を争う「燕雲十六州」です。
燕雲十六州を取り戻せず、遼と無念の和睦となった澶淵(せんえん)の盟
中国が宋によって統一される前の五代十国の時代、モンゴル高原から中国の東北地方にあたる地域を支配していたのは契丹人が建てた遼でした。遼は五代の一国である後晋の建国を助け、その見返りとして燕雲十六州を得ます。
燕雲十六州は現在の北京周辺にあたる地域で、古代から漢民族が住む地域でした。北宋は遼から燕雲十六州をうばいかえそうとしました。しかし、軍事力にまさる遼を打ち破ることができません。
1004年、遼の皇帝聖宗は20万と号する大軍で北宋に攻め込みます。大軍の侵攻に驚いた北宋は遼に和平を提案しました。結局、北宋を兄、遼を弟として北宋のメンツを立てる一方、毎年絹20万疋、銀10万両を歳幣として北宋が遼に支払うことで和平が成立しました。
1004年に結ばれたこの和平のことを澶淵の盟といいます。歳幣を支払うことで侵攻を逃れた澶淵の盟は北宋にとって屈辱的な和平でした。
河西回廊を西夏に明け渡した慶暦の和約
1038年、中国北西部の河西回廊とよばれた地域にタングート人が西夏を建国しました。西夏は東西交易の中継地点である西域を抑えることで発展しました。
西夏は遼と友好関係を結び、共通の敵である北宋に対抗します。
攻め込んできた西夏に対し、北宋は和平策を取りました。1044年、西夏王は形式的に北宋の臣下になるかわりに、毎年絹13万疋、銀5万両、茶2万斤を得ることになりました。この和約を慶暦の和約といいます。
1070年:王安石の改革がはじまる
王安石の改革とは
北宋は澶淵の盟や慶暦の和約により外敵の侵入が少ない平和を手に入れました。しかし、増加する官吏への給与や遼や西夏に送る歳幣、国境警備の費用などがかさみ、北宋は財政難となりました。
1070年、6代皇帝の神宗は王安石を宰相に任じ改革を行わせました。世にいう王安石の改革の始まりです。
王安石は農業・商業・軍事などあらゆる面で政治改革を実行しました。王安石が行った政治改革を「新法」といいます。
「新法」の主な内容として、農民に資金や種子を貸し付ける青苗法や各地の特産物を政府が買い上げ、不足している地域に政府が転売する均輸法、中小商人に貸し付けを行う市易法、農民の労役のかわりに銭を納めさせる募役法、農閑期に農民を訓練し兵士とする保甲法、政府が農民に馬を貸し与え、戦時に軍馬として徴用する保馬法などがあります。
改革で国が混乱!?新法党と旧法党の対立とは
王安石の新法は、中小農民の土地を買い占めていた地主や中小商人を締め出すことで利益を独占してきた大商人の利害と衝突します。王安石の新法を支持する勢力は「新法党」、反対する勢力は「旧法党」とよばれました。
旧法党の代表人物はのちに歴史書『資治通鑑』を書く司馬光や文人の蘇軾・蘇轍兄弟です。彼らは王安石の新法が急進的だとして強く反対しました。
そのため、北宋の朝廷では新法党と旧法党の対立が激しくなってしまいます。結果的に王安石の改革は北宋を混乱させてしまいました。