イェルサレムの3つの史跡
嘆きの壁
嘆きの壁は、紀元前20年頃にヘロデ王が改築したイェルサレム神殿の外壁の一部です。70年に起きたユダヤ戦争でローマ軍に鎮圧された際、神殿は破壊されましたが西側の一部だけが残りました。破壊された神殿は再建されることもなく、破壊されたことを悲しみ、嘆いた事から「嘆きの壁」と呼ばれるようになったといわれています。
唯一残った嘆きの壁はユダヤ教徒にとって最も神聖な場所であり、嘆きの壁の前では現在も多くのユダヤ教徒が祈りを捧げています。かつての神殿の一部であるこの壁に手紙を入れると、その祈りが神に届くといわれており、嘆きの壁の隙間にはユダヤ人たちの祈りが込められた手紙が差し込まれています。
聖墳墓教会
聖墳墓教会は、イェルサレム旧市街(東イェルサレム)にあるキリストのお墓に立つ教会です。キリストが磔にされたゴルゴダの丘があったとされる場所に建ち、十字架が建てられた跡地や、遺体を横たわらせた岩、そして復活を遂げたとされる石墓があります。
聖墳墓教会は、325年コンスタンティヌス帝の命によって建てられました。その後、イスラムの支配下になった際に一度破壊されましたが、1048年に再建されました。現在は、カトリック教会、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会による共同管理となっています。
岩のドーム
岩のドームは東イェルサレムにあり、イスラム世界の最古の建造物となっています。ドームは、メッカ、メディナに次ぐイスラム教の第3の聖地で、ドームの中央にある岩は、ムハンマドが天に召された場所とされており、イスラム教徒にとっての聖域となっています。
岩のドームは、7世紀末にかつてイェルサレム神殿があった場所に建てられました。ドームは、礼拝所としてのモスクではなく、「聖なる岩」を祀る記念堂としての役割を果たしています。
イェルサレムの歴史を年表で振り返る
紀元前10世紀「古代イスラエル王国の首都となる」
紀元前1000年頃、古代イスラエル王国(ヘブライ王国)が成立し、ダビデ王によってイェルサレムが王国の首都と定められました。ダビデ王の息子ソロモン王は、イェルサレムに神殿を建設するとユダヤ人にとっての信仰の中心となります。
ソロモン王の御世で最盛期を迎えた古代イスラエル王国は、紀元前930年ころ南北に分裂し、イェルサレムは、南のユダ王国の都となりました。
紀元前586年「ユダ王国の滅亡と破壊」
紀元前597年、ユダ王国は新バビロニア王国の支配下になり、紀元前586年、ユダ王国が滅んだ際、イェルサレムの神殿を含む全てが破壊され、イェルサレムの民全てがバビロンへ連行されました。
紀元前539年「イェルサレムの再建」
紀元前539年、アケメネス朝ペルシアが新バビロニア王国を滅ぼすと、ユダヤ人はイェルサレムへ帰還し、イェルサレムを再建しました。紀元前515年には、イェルサレム神殿(第二神殿)も再建され、イェルサレムはユダヤ人の中心地として栄えます。
紀元前140年頃、ユダヤ人がハンモス朝という独立した王国をつくりますが、紀元前63年、ローマ帝国お支配下に置かれます。紀元前37年、ローマ宗主権のもと、ヘロデ王がイェルサレム神殿を完全に改築し、巨大な神殿を建設し、イェルサレムは大繁栄しました。
30年「イエス・キリストが処刑される」
紀元前4年頃、ナザレの地にイエス・キリストが誕生しました。神の教えを伝導していたイエスは、伝統的なユダヤ教の一派であるファリサイ派を批判したため、政治犯として捕らえられます。捕らえられたイエスは、イェルサレムにあるゴルゴタの丘で、十字架刑に処され、処刑されました。
66年「ローマの植民市となる」
66年に起きたユダヤ戦争により、イェルサレムは陥落し、ユダヤ人の居住が禁止されました。ハドリアヌス帝の時代には、神殿の跡にユーピテルの神殿が築かれ、都市名をアエリア・カピトリナと改名し、ローマ植民市となりました。