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アルマダの海戦とは?原因や経緯、勝敗、その後の影響まで解説

「アルマダの海戦ってなに?」
「アルマダの海戦はどんな戦争で、どこが勝ったの?」

英仏海峡で行われたアルマダの海戦。当時、世界で最も勢力の強かったスペインを相手に、イングランドが戦い、そして勝利した戦争です。誰もがイングランドが勝利するなど考えてもおらず、「スペインの無敵艦隊が敗北した」と大きな騒ぎとなりました。

本記事ではアルマダの海戦について概要を簡単に紹介した後、アルマダの海戦の経緯や主要な人物たちについて解説していきます。ぜひ最後までお読みください。

アルマダの海戦とは?簡単に概要を解説

アルマダの海戦

アルマダの海戦とは英仏海峡で行われた海戦の総称です。この海戦によってスペインの無敵とも称された無敵艦隊は敗北し、イングランドが英仏海峡の覇権を制しました。

当時のスペインとイングランドの間では宗教問題があったことや、入植地・スペイン船からの海賊行為が目立ったことで、スペイン側がイングランドへの侵攻を決意したとされています。

そして1588年、スペインのメディナ・シドニアが率いるスペインの無敵艦隊がスペイン領土を出発し、無敵艦隊とイングランド海軍は英仏海峡でぶつかることになったのです。しかしイングランドの奇策と嵐などの悪条件によって、スペインは大敗を喫し、出発時130隻もあったスペイン船は、約半分の67隻しか本国に帰還できませんでした。

アルマダの海戦が起きた原因は?

アルマダの海戦の原因はなに?

アルマダの海戦が起きた原因は2つあります。それが以下の2つです。

  • 宗教の対立
  • 海賊を支援
    それぞれ見ていきましょう。

宗教の対立

信仰の違いが争いの原因に

当時イングランドの女王であったメアリ1世は、敬虔なカトリック教徒の一人でした。父王ヘンリー8世は宗教改革によって、カトリックからイギリス国教会という教皇権と分離した派閥を作り、イングランドの国教をこれに定めました。

しかしメアリ1世はこれを覆し、国教をカトリックに戻しました。先代のエドワード6世はイングランドの国教をプロテスタントへと考え動いていたため、イングランドの国教は「カトリック→イギリス国教会→(プロテスタント)→カトリック」と変遷し、人々に大きな混乱を招きました。

ヘンリー8世

またメアリ1世はカトリックに戻した際に、イギリス国教会とプロテスタント教徒を厳しく取り締まり、約300人もの人々を処刑しています。このことから一部では「ブラッディー・メアリ(血まみれメアリ)」とも呼ばれていたのです。

メアリ1世が死去後、即位した異母妹エリザベス1世は、メアリ1世の改革や施策を覆し、イングランドの国教をイギリス国教会に戻しました。以降イングランドは宗教を変えることなく、イギリス国教会の強化に努めます。

しかしこの宗教改革によって、カトリックであるローマ教皇からエリザベス1世は破門。カトリック教徒圏の国々を敵にまわすことになったのです。

海賊を支援

イングランドの海賊フランシス・ドレーク

メアリ1世の時代、イングランドはカトリックとして近隣諸国と関係を築いていました。特にスペインのフェリペ2世との仲は深く、親スペイン政策を取っていたほどです。

しかしエリザベス1世はこれを不快に思い、即位後スペインとの国交を拒絶します。さらにスペイン近海で海賊行為をしていたイングランド出身の海賊たちを称賛、海賊行為を黙認したのです。

金品を強奪する海賊の様子

海賊たちは植民地からスペイン本国に帰還する船の積荷を強奪したり、スペインの貿易商を狙ったりと、好き放題やっていました。もちろんスペイン側としては、こんなことをされてはたまったものではありません。

宗教上の問題やこの海賊行為に反感を強めたスペインは、イングランドを征服・侵攻する手はずを整え、そして英仏海峡へ出立していったのでした。

争いが起こった背景

スペイン船から荷物を奪う海賊たち

親スペイン政策

母方がスペイン王家の血を引いていたメアリ1世は、結婚相手として従兄弟のカール5世の息子アストゥリアス公フェリペを選びました。後にフェリペはフェリペ2世としてスペイン国王に即位します。

フェリペ2世はメアリ1世の夫として、イングランドの共同統治者として任命され王位を与えられました。このことからイングランドはスペインに友好的な政策をとっていくようになりました。

エリザベス1世の即位

神輿で担がれているのがエリザベス1世

メアリ1世が死去し、女王として即位したエリザベス1世はメアリ1世の政策を翻していきます。宗教問題や親スペイン政策です。

エリザベス1世は即位後、メアリ1世がプロテスタントを排斥し、多くの処刑者を出した「異端排斥法」を撤廃します。さらにイングランド国教会を復活させた後も強い弾圧を行うことはありませんでした。

さらに親スペイン政策を翻したことで、スペインとの国交はなくなります。イングランドの財政難を補うため、イングランド出身の海賊たちがスペイン近郊で海賊行為を行うことを黙認していました。

植民地政策

奴隷商人:植民地から奴隷を自国へ連れて行く様子

イングランドはメアリ1世の治世に、大陸内唯一の領土カレーを失っています。このことからイングランドは孤立した島国しか自国領土がなく、植民地を欲していました。

エリザベス1世が即位し、国力増強路線に入ります。国力を増やすためには植民地の存在は必要不可欠です。こうしてイングランドの植民地政策は始まっていきました。

オランダ独立戦争

ネーデルラント:丸で囲ってある地域

1568年、ネーデルラント(現在のオランダやベルギーを含む地域)はオーストリアのハプスブルク家が治めていました。しかしハプスブルク家がスペイン系と分離したことで、ネーデルラントはスペイン領地となったのです。

ネーデルラントでは商工業が盛んに行われていましたが、その利益はスペインに送られており、金銭的な反発に加えて宗教的な対立もありました。その中でフェリペ2世がカトリックへの信仰を強要したことで、ネーデルラント連邦共和国として、スペインからの独立を宣言します。

この独立を阻止するため、スペイン本国は軍隊を派遣。独立戦争指導者のオラニエ公ウィレムはネーデルラント連邦共和国を率いて戦いましたが、1584年にデルフトの地で暗殺されてしまいます。

オラニエ公ウィレム

戦争の指導者を失ったネーデルラント連邦共和国は、スペインと対立を深めていたイングランドに支援を要請します。それに応えたイングランドはスペイン近海での海賊行為を通してスペインの貿易活動を妨害しました。

フェリペ2世はこの行為に激昂し、イングランドも侵攻対象に定めました。そしてアルマダの海戦へと発展していったのです。

英仏海峡での戦いの経緯

アルマダの海戦の様子

前哨戦

1588年7月31日、イングランド艦隊は先回りし、スペイン艦隊の風上の位置に陣取りました。夜明けとともにスペイン艦隊を右翼から攻撃し、その後方向を変え左翼後方の位置取っていた艦隊を砲撃します。

もちろんスペイン艦隊も黙ってはいません。砲撃を返し応戦を繰り広げましたが、状況的に不利と判断し、一時撤退します。しかし撤退中に主艦が爆発事故にあり、その後別の艦隊も衝突事故で行動不能に陥ります。

スペインとイングランドの交戦の軌跡

イングランドは夜撤退していったスペイン艦隊を追撃し、スペイン海軍から漂流していたヴァルデス提督を捕らえ捕虜にしました。しかし途中スペイン艦隊を見失ってしまったことで、夜の追撃はそこまでとなりました。

翌日、改めてスペイン軍を追いかけ発見したイングランド軍は、スペイン艦隊に攻撃を仕掛けます。両者の激しい砲撃合戦が行われましたが、そこで決着はつきませんでした。

カレー沖海戦

カレー沖海近隣の都市ダンケルク

スペイン海軍は増援を求め、カレー沖海に移動します。予定ではカレー沖海近隣のダンケルクにパルマ公の増援がいるはずだったのですが、疫病により進軍準備が遅れていたため、援軍の準備を待つためにスペイン海軍はカレー沖で待機することになりました。

しかしながらダンケルク近海は浅瀬が多く、大きな軍艦を進軍させることは難しい状況でした。それを狙ったイングランド海軍は機動性の高い船で攻撃を仕掛けてきました。

もちろんスペイン海軍は大きな混乱が起こります。そして、これによってスペイン海軍は散り散りとなり、敗走することとなったのです。

グラヴリンヌ沖海戦

スペインの無敵艦隊

総指揮官のメディナ=シドニア公は、グラヴリンヌで再起を図ろうと考え、艦隊の再編成をしていました。グラヴリンヌはイングランドに最も近いスペイン領と言われ、攻勢に出るには優位な土地でした。

しかしこれまでの戦いによって、イングランド側はスペイン海軍の戦力や戦い方を把握してしまっていました。そのためスペイン海軍の得意とする「接舷斬り込み」戦法が通用せず、イングランド海軍の機動性をうまく利用し撹乱しながら戦っていました。

スペイン軍艦の砲弾が尽きたところで、イングランド海軍に抵抗することはできませんでした。そしてスペイン無敵艦隊はこの戦いにより10隻以上もの艦隊が失われ、敗北したとされています。

この戦いでスペインの無敵艦隊は敗北!原因は?

嵐によって大破するスペイン無敵艦隊

スペインの無敵艦隊が敗北した要因として2つが挙げられます。まず1つが指揮官の存在です。

これまでスペイン海軍を指揮していたのはバザンという男でした。しかしアルマダの海戦前に突然急死し、彼の跡を継いだのがメディナ=シドニア公でした。

シドニア公は優秀な軍人ではありましたが、海軍の指揮経験はなく、手探り状態で指揮を執っていたのです。意外と苦戦を強いられるイングランド戦や、援軍として参加するはずだったパルマ公の不在など、多くの要因によって海軍の士気は低下していきます。

シドニア公は軍人としては優秀だったのかもしれませんが、海軍指揮官としてはまだ未熟だったということですね。

沈没する船

そして2つ目の要因がイングランド海軍とスペイン海軍の軍艦の差です。スペイン海軍の軍艦は、弾を発射するのに時間がかかり、かつ射程距離も短いというものでした。

それに対しイングランド海軍の軍艦は、素早く弾を発射できる大砲を利用していました。また機動性が良く、容易に移動可能なところも功を奏したのでしょう。イギリス海軍はスペイン無敵艦隊を翻弄しながら攻撃し、そして勝利したのです。

アルマダの海戦が与えた影響

英仏海峡

アルマダの海戦の勝利により、イングランド国内は大いに喜びます。エリザベス1世の名を広く知らしめ、英仏海峡の覇権を手にしました。

イングランド無敵艦隊とも呼ばれますが、その威光は長くは続きません。アルマダの海戦があった翌年1589年、イングランドはポルトガル遠征に失敗し、多大な損害を出しています。

それに対してスペイン側も敗戦の結果から、海軍の改革に着手します。改革によりさらに強固となったスペイン海軍はスペイン近海や外洋航路では、優位な状態のままでした。

アルマダの海戦によりイングランドが得られた見返りは少なく、最終的にフェリペ2世およびエリザベス1世の2人が亡くなったのち、ロンドン条約という講和が締結され、両国の争いは終わりました。

アルマダの海戦における主要人物

エリザベス1世から海軍指揮官に任命されるドレーク

フェリペ2世

フェリペ2世(西暦1527ー1598年)

スペイン黄金期の最盛期に君臨した王で、スペイン、ヨーロッパ人、アジア、中南米と広大な土地を支配しました。彼の治世はスペイン絶頂期にあり、「太陽の沈まない国」と形容されるほどでした。

神聖ローマ帝国皇帝カール5世とポルトガル王女のイザベラとの間に生まれた、生粋の王家の出身です。父の退位や叔父の皇位継承権を受け継ぎ、スペイン王として即位します。

積極的な対外政策により、広大な領土を手に入れました。しかしアルマダの海戦の敗北によってスペインの威光は衰退の兆しが現れ始め、1596年以降に流行したペストによって、スペインの時代は終わりを告げました。

メアリ1世

メアリ1世(西暦1516ー1588年)

ヘンリー8世の長子で、イングランドとアイルランドの女王。ヘンリー8世が死去した後は異母弟のエドワード6世が即位しましたが、病気がちな王だったこともあり、15歳の若さで亡くなりました。

ヘンリー8世は亡くなる前に「エドワード6世の後継にはメアリ1世を」と遺言を残していました。しかしエドワード6世の側近で、実質の権力者でもあったノーサンバランド公ジョン・ダドリーによりかき消されてしまいました。

エドワード6世 

エドワード6世の後継として、ジェーン・グレイという父ヘンリー8世の妹の孫娘という遠縁の女性が女王に任命されました。しかしイングランド市民はこれに反発し、メアリ1世こそ真の後継者だと反乱を起こしたのです。

この反乱によりジェーン・グレイと先代王の側近ノーサンバランド公は捕らえられ、名実ともにメアリ1世がイングランドの女王となりました。彼女はイングランドの歴史で初めて市民からの支持を得て女王となったのです。

ノーサンバランド公ジョン・ダドリー

しかし彼女への支持も長くは続きません。彼女が行った政策や宗教改革は、市民や貴族たちからの強い反発と混乱を招きました。

プロテスタントを排斥し300人余りの人々を処刑したことからも「ブラッディ・メアリ(血まみれメアリ)」との異名で恐れられていました。さらには夫のフェリペ2世とともに参戦した第六次イタリア戦争に敗戦し、大陸における唯一のイングランドの領土「カレー」を失うという失態ぶりでした。

彼女は卵巣腫瘍により死を迎えます。そして彼女の命日は、約200年間にわたって圧政から解放された日として祝われたのです。

エリザベス1世

エリザベス1世(西暦1533ー1603年)

ヘンリー8世の次女で、母親はアン・ブーリン。メアリ1世の後継者として、イングランド女王となりました。

女王として、彼女がまず初めに行ったのが宗教改革です。先代メアリ1世はイギリス国教会からカトリックへ宗教改革を行いました。

しかしエリザベス1世は礼拝統一法を制定し、カトリックからイギリス国教会へ宗教を戻しました。これにより、イギリス国教会は国家の支柱として位置付けられることとなったのです。

イギリス国教会の教会

さらにメアリ1世の夫であったフェリペ2世と敵対し、アルマダの海戦やフランス王アンリ4世を支援するなど、積極的な対外政策を行いました。もちろん国内の反乱分子に対しても容赦なく、女性も子ども関係なく虐殺したと記録に残っています。

エリザベス1世は誰とも婚姻関係を結ばず、生涯独身でした。そのことから「処女王」とも言われています。

アルマダの海戦に関するまとめ

アルマダの海戦について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

アルマダの海戦はイングランド勢力とスペイン勢力の覇権争いではありますが、背景には複雑なイングランド王室の歴史が隠されています。また当時世界最大の勢力を誇っていたスペインに対し、イングランドが勝利するという番狂わせを起こした戦争の一つでもあります。

ぜひ本記事を読んで、アルマダの海戦についてさらに興味を持っていただけますと幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。

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