英雄ナポレオンとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格、功績や逸話、死因も簡単に紹介】

ナポレオンの簡単年表

1769年
ナポレオン誕生

ナポレオンは1769年コルシカ島の貴族の四男として生まれました。

ナポレオンの父はナポレオンが生まれる少し前にフランスに寝返っており、その甲斐もあってかフランスの貴族としての身分が認められていました。

1784年
ナポレオンフランスの陸軍士官学校に入学

ナポレオンは15歳の時にフランスの陸軍士官学校に入学。

ナポレオンは砲兵科を専攻して大砲の戦術を学び、僅か11ヶ月で卒業しました

1789年
フランス革命勃発

フランス国王ルイ16世と妃であったマリーアントワネットの豪華な生活に腹を立てていたフランス市民がバスティーユ牢獄に襲撃したことで革命が勃発。

ナポレオンはこの時コルシカ島に戻り、コルシカ島の独立支援を行いますが、失敗に終わりフランス本土のマルセイユに逃亡しました。

1799年
ブリュメールのクーデターを起こす

フランスの革命軍の指揮官としてイタリアやエジプトに遠征を行い名をどんどん上げていったナポレオン。

ナポレオンはこの当時フランスを支配していた総裁政府を倒す軍事クーデターを起こし、自ら国のトップに当たる第一統領に就任しました。


1804年
フランス皇帝に即位

第一統領に就任した後もナポレオンは自らの権力を強くするために憲法を書き換え一緒国のトップになれる終身頭領に変更。

そして1804年に国会の議決と国民投票を経てナポレオンの世襲制を認める決議を行い、皇帝に即位しました。

1805年
アウステルリッツの戦い

皇帝に即位した翌年、ナポレオンはフランスに反発するオーストリアとロシアとアウステルリッツにて激突。

巧みな戦術でオーストリアとロシアを圧倒し、プレスブルク条約にでオーストリアを屈服させました。

1812年
ロシア遠征

最後の最後までフランスに降ることが無かったロシア。

ナポレオンの大陸封鎖令を無視してイギリスと通商していたことを理由に60万の大軍でロシアに侵攻しました。

しかし、冬の寒さとロシアの粘り強い反撃に苦戦して敗北してしまい、これを機にナポレオンは没落してしまいました。

1814年
エルバ島へ島流しにされる

フランスはロシア遠征後反フランス連合軍によって首都のパリが陥落。

ナポレオンは退位を余儀なくされ、フランス南部の小島エルバ島に島流しとされました。

1815年
百日天下 セントヘレナ島に流される

エルバ島に流された後も野心が潰えることがなかったナポレオンはエルバ島から脱出し、フランス皇帝に返り咲きます。

しかし、ワーテルローの戦いで敗北し再び退位を余儀なくされ、再びフランスに戻ってくることがないように大西洋の孤島であるセントヘレナ島に流されました。

ナポレオンの生涯年表

1769年 – 0歳「コルシカ島に生まれる」

ナポレオン、コルシカ島の貴族の息子として生まれる

コルシカ島

ナポレオンは1769年にコルシカ島の貴族であるシャルル・マリ・ド・ポナパルトとマリア・レティツィア・ポナパルトの間に生まれました。

実はナポレオンが生まれたコルシカ島は元々イタリアの都市国家が領有していた島で3ヶ月前にフランス領になったばかりで、そのためナポレオンの幼少の頃の名前はナブリオーネ・ブオナパルテとイタリアぽい名前だったそうです。

父は元々コルシカ島の判事だったそうですが、コルシカ島が独立する動きを見せ始めるとフランス側に転向し、最終的にはコルシカ島がフランス領に成るために尽力していたそうで、その功績が認められフランスの貴族階級としての身分が認められるという特権を獲得します。

しかし、ナポレオンが生まれたのが後5年ほど早かったら、フランスではなくイタリアの都市国家の軍人となっていたと考えると歴史って面白いですね。

1785年 – 16歳「ナポレオン砲兵士官に任官」

軍人として活躍し始める

砲兵科を46番目に卒業したナポレオン。砲兵科は戦の花形であった騎兵科とは対照的にあまり人気のないものだったのですが、ナポレオンは先見の明を見て砲兵がのちの戦いのキーとなると睨んでいたのです。

フランス革命勃発

フランス革命

ナポレオンが軍人として活躍し始めようとしていた矢先、1789年にフランスにてフランス革命が勃発します。

この頃のフランスはルイ14世の頃から続いていたヨーロッパや北アメリカにおける戦争の費用などによって国内の財政は破綻寸前に追い込まれており、さらに世界規模の冷害が起こってしまい小麦の大不作などが影響して食料の確保が難しくなってくるもフランス国民のほとんどを占める市民や農民たち今日生きていけるかどうかの生活を送っているような状態となってしまいました。

しかし、フランスは聖職者と貴族たちには税金がかかっておらず、生きるだけでもしんどい農民や市民に重税がかかっており、ルイ16世やその妃であるマリーアントワネットなど一部の聖職者と貴族たちの豪華な暮らしが暴露されるとフランス国民の怒りはついに爆発。

フランス王ルイ16世

ルイ16世は流石にまずいと思い貴族に対して税金をかけたり、貴族や市民を含んだフランス三部会を招集するなど努力をするのですが、市民や農民などといった第三身分と呼ばれる人たちは国民による議会の開設と憲法の制定が認められるまで解散しないことを誓うテニスコートの誓いを行い断固として改革を求める動きにでます。

さらに、特権階級に課税を行うように財政改革を推し進めていったネッケルが貴族たちの圧力を受けてクビになるとついに民衆たちはパリのバスティーユ牢獄に襲撃し、革命へと変わっていくようになりました。

マリーアントワネット

その後、フランス国民は8月27日に人権宣言を採択。パリの女性たちがヴェルサイユ宮殿に集まり、ルイ16世とマリーアントワネットを監禁するようになるとフランスは改革を一気に推し進めていくことになり、さらにルイ16世とマリーアントワネットがマリーの故郷であるオーストリアに逃亡するといういわゆるバレンヌ逃亡事件が発覚するとフランスはこれまでの穏健的な考えは一気に冷めてしまい、フランス政府では全てフランス国民の男子に投票権を与え、国民の選挙に基づいた議会である国民公会が成立するとルイ16世は「国を売った売国奴」としてついに処刑されてしまいました。

この革命の頃ナポレオンはどうしていたかというと、彼はフランス革命には興味はなくこれを機にコルシカ島に帰郷してコルシカ島の独立を支援しようと画策していましたが、親フランス派の人々によって家族全員フランスから追放される処分を受けてしまい、ナポレオンはフランス本土のマルセイユに移住することになりました。

しかし、1793年にフランスの軍隊に復帰するとコルシカ島から亡命した貴族という立場となっており一気に大尉に昇進。この当時フランス革命に干渉していたイギリスが占領していた南フランスのトゥーロンを制圧する功績を上げ、これまで無名であったナポレオンの名を一気に知らしめることになります。

ナポレオン逮捕される

とばっちりを受け逮捕されてしまう

ナポレオンが軍人として活躍していたこの頃、フランス政府は大混乱に陥っていました。

フランス革命によって対仏大同盟が結ばれ、イギリスなどの王国から干渉を受けるようになっていたフランスは革命を防衛するために公安委員会や反革命的な人物を裁く革命裁判所などを設置。急進派であるジャコバン派のロベスピエールが権力を握るようになっていき、反革命的だと思われる人物をことごとくギロチンにて処刑に追いやりました。

しかし、国民からしたらこんなことは全く望んでおらず、民衆から見放されてしまいロベスピエールはテルミドールのクーデターにて失脚。自ら処刑されてしまいます。

これのとばっちりを受けたのがナポレオン。この頃には少将にまで上り詰めていましたが、ナポレオンがロベスピエールの弟と仲が非常に良かったこともあってかナポレオン自身も逮捕されてしまい、一時期は予備役に降格される処分も食らってしまいます。

まさしくとばっちりなんですが、それでもナポレオンはくじけずに功績を挙げ、1795年のヴァンデミェールの反乱の時にはパリの中心部に大砲をぶっ放すという非常に大胆な戦法で鎮圧に成功し、再びその名を知らしめたのでした。

1796年 – 27歳「 イタリア方面軍の司令官となる」

フランスの英雄ナポレオン

ナポレオンが活躍したヴァンデミエールの反乱

ヴァンデミエールの反乱にて功績を挙げたナポレオンはフランス政府からイタリア方面の総司令官に任命されました。

この頃のイタリアは北部はオーストリアが支配しており、フランスを脅かしていたのですが、これをナポレオンは撃破。北イタリアを解放して1797年にカンポ・フォルミオ条約が結ばれて南ネーデルラントを併合し、北イタリアにフランスの衛星国を樹立してナポレオンはイタリアを解放した英雄として国民から人気を集めるようになったのでした。

ナポレオンのエジプト遠征

ナポレオンのエジプト遠征

オーストリアがフランスと条約を結んだことによって対仏大同盟から脱落させることに成功したのですが、フランスから見て最大の敵だったのかイギリス。

このイギリスをなんとかしないことにはなんともならないことを受けて、ナポレオンは当時イギリスの生命線であったインドとイギリス本土の重要なルートであったエジプトに遠征を開始。ピラミッドの戦いでこの地域を支配していたオスマン帝国軍に勝利するのですが、直後のナイルの海戦でフランス艦隊が敗北するとナポレオンはエジプトにて孤立してしまいました。

この結果ナポレオンのエジプト遠征は失敗に終わってしまいましたが、この時発掘された石碑であるロゼッタストーンによってエジプト象形文字が解読されるという影響を与えることになるのです。ナポレオンはこんなところで重要な功績を残していたんですね。

ブリューメルのクーデター

ブリュメールのクーデター

ナポレオンがエジプトに遠征していた頃、フランス打倒を諦めていなかったイギリスの呼びかけにより第二次対仏大同盟が結ばれてフランス本国では当時政権を握っていた総裁政府を非難する声が日に日に高まっていました。

これを知ったナポレオンは軍隊をエジプトに残したまま単身フランスに帰国。国民からの圧倒的な支持を受けてブリュメールのクーデターを起こして総裁政府を打倒し、第一統領に就任したのでした。

こうして15年前は一介の軍人だったナポレオンはついに実質的なフランスの支配者となったのです。

1804年 – 35歳「 フランス皇帝となる」

ナポレオンの内政改革

ナポレオンの戴冠式

ナポレオンは軍人としてのイメージが強いのですが、今のフランスの基本となる法律を整備したのは実は彼でした。

ナポレオンは1802年に長年の敵であったイギリスとの間にアミアンの和約を結び、戦争を一時的に終わらせると内政改革を次々と推し進めていくことになるのです。1800年にはフランスの中央銀行(日本における日本銀行)であるフランス銀行を設立して革命なよって大混乱に陥っていたフランスの経済を立て直していき、交通網の整備も推進。

1802年には今もフランス最高の勲章であるレジオンドヌール勲章を創設し、1804年には今のフランスの法律の基準となっており、革命の理想であった「法の前の平等」、「信仰・経済活動の自由」などが盛り込まれたナポレオン法典を制定。これによってこれまでのフランスの制度は完全に解体され、ナポレオンに権力を集中させる準備を整えたのでした。

フランス国民の皇帝に

フランス皇帝となったナポレオン

こうして国内体制も整えたナポレオン。そしてついに自らを終身統領として独裁色をどんどん強めていくようになりました。

1804年5月、フランスの頂点に完全に君臨したナポレオンは国民の投票と議会による議決によってフランス人民の皇帝に就任しました。(一応、国民投票と議会の議決は行なっているんで民主主義ではあるんですけどね。)

軍人が皇帝に就任した瞬間は各国に衝撃を与え、これまでフランス革命を守護しているとして支援を行なっていたベートーヴェンは「ナポレオンが皇帝になっただと!?結局はあいつも権力欲の塊だったのだな!」とひどく落胆し、ナポレオンのために作っていた楽曲のナポレオンを賛美している部分を破り捨てるなど革命を喜んでいた人は期待はずれとして受け取られてしまいました。

1805年- 36歳「アウステルリッツの戦い」

オーストリアを支配下に

アウステルリッツの戦い

ナポレオンはフランス皇帝に就任した後も戦争を継続することになります。1805年には第三次対仏大同盟を結成し、トラファルガーの海戦でフランス艦隊は敗北してしまうという痛手を受けてしまいました。

しかし、ナポレオンはこんなことではくじけずに陸戦で連戦連勝。特に1805年のウルム戦役では7万2千人いたオーストリアの軍勢のうち6万人を捕虜にするなどの大戦果を挙げ、オーストリアの首都であるウィーンを陥落させるに至りました。さらに、オーストリア軍がロシア軍と合流した時にはナポレオン率いるフランス陸軍7万がアウステルリッツに集結。いわゆるアウステルリッツの戦いが幕を開けます。

このアウステルリッツの戦いでもナポレオンの戦略が光り、ロシア・オーストリア軍は1万5千人の捕虜を出して壊滅してオーストリアはフランスとの間にプレスブルク条約を締結。第三次対仏大同盟は崩壊し、オーストリアはフランスの影響下に置かれることになったのです。

ちなみに、フランスの人気観光名所の一つである凱旋門はこのアウステルリッツの戦いにおける勝利を祝って建設されたもの。凱旋門の凱旋はアウステルリッツの戦いにおける凱旋だったのですね。

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プロイセンを支配下に

プロイセンへ侵攻

オーストリアを屈服させたナポレオンが次に狙ったのがオーストリアのお隣の国であるプロイセン。1806年に懲りずにプロイセン中心に第四次対仏大同盟を結成し、ナポレオンに対抗します。

しかし、これを予想していたかのようにナポレオンはプロイセンに侵攻を開始。10月にはナポレオンの側近であるダヴーの活躍によってイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を壊滅に追い込み、首都であるベルリンに入城。

これによってプロイセンとフランスとの間にティルジット条約が締結され、プロイセンは49%の領土を割譲などが取り決められてしまいました。そしてプロイセンを屈服させたことによってナポレオンはフランスだけではなく、ヨーロッパ全土も手中に収めたのでした。

オーストリアとプロイセンを降伏させた影響

神聖ローマ帝国の解体

オーストリアとプロイセンを屈服させたナポレオンは、支配権を確立させ防波堤を構築させるためにライン川周辺にライン同盟を作らせて保護国として支配していくことになります。

これによって「神聖でもなければ、ローマにもなく、そして帝国ですらない」と言われながらも中央ヨーロッパに君臨していた神聖ローマ帝国は解体。ヨーロッパの一つの時代が幕を下ろしたのでした。

しかし、プロイセンとオーストリアが受けた屈辱はとんでもないもので、屈辱を胸に秘めこれ以降オーストリアとプロイセンは軍事的な内容を中心とした改革を開始。そしてこの屈辱は民衆にも浸透し、この屈辱は大きなうねりとなりそしてバラバラだったドイツ統一を目指す動きが生まれ始めることになるのです。

ドイツ統一はここから60年ほど後のことなのですが、大元を作り上げたのはナポレオンだったのですね。

1812年「 ロシア遠征の失敗、ナポレオンの没落」

ロシア遠征を行った理由

ナポレオンにとってのロシア遠征とは

ナポレオンの最大の失敗であるロシア遠征。

ナポレオンがどうしてそこまで固執していたのかというとプロイセンを降伏させた後に発令した大陸封鎖令によるものでした。ナポレオンは陸戦にはめっぽう強かったものの、海軍の方ではからっきし。攻めようにもイギリスという国は島国であり百万の兵にも相当すると言われているドーバー海峡に阻まれています。

そこでナポレオンはイギリスを内側から苦しめようという形で大陸封鎖令を発令。この法律は要するに「イギリスの製品は買っちゃダメ!」というもので産業革命がこの時起こっていたイギリスの産業に打撃を与えようとしたのでした。

しかし、完璧に思われたこの作戦もナポレオンがスぺインにおける支配体制にしくじったことが原因となり、徐々にほころびが見え始めロシアなどはこの大陸封鎖令を無視してイギリスと貿易を開始。これに大激怒したナポレオンはついにロシア侵攻に踏み切ることになるのです。

ロシア遠征の大失敗

1812年、69万1千人の大軍を率いてフランスパリから当時ロシア第二の都市であったモスクワに侵攻を開始。ナポレオンは手始めにロシア領ポーランドを攻め入ったのですが、ロシア軍はピョートル・バグラチオン将軍によって焦土戦術を展開したのです。

補給というものを軽視していたナポレオンの軍勢は攻め入った年で略奪を行って補給を補っていましたが、ロシアが行っていた焦土戦術というのは文字通り都市を焦土化するもので都市は完全に荒廃するものの、敵に食料を渡さないようにするというまさしく究極の戦法だったのです。

しかもロシアの国土はフランスなんかとは桁違いの広さであり、さらに侵攻した時にはロシアの極寒の冬が迫ってきており、ナポレオンの軍勢はバタバタと倒れていく始末。モスクワに入る前にはなんと3分の1である20万人にまで減っていたんだそうです。

色々なトラブルがありながらも辛くもナポレオンはボロジノでロシア軍を破り、ついにモスクワへ入城したのですが、モスクワを占領すればここを拠点にロシアを倒せると信じていたナポレオンでしたが、モスクワには貧民以外は誰もいないまさにもぬけの殻状態。

さらには9月14日から4日間に渡ってモスクワは大火で焼け野原と化して木造建築が主であったモスクワの街並みは完全に破壊。ナポレオンのロシアの冬を目前にして物資の獲得と敵の撃破のいずれにも失敗したことをうけて、この時クレムリンにてようやくこの遠征の失敗を悟ったんだそうです。

こうして撤退を決意したナポレオンは10万に減っていた軍勢を引き連れてフランスに帰国を果たそうもするも、これを待ち望んでいたロシア軍のゲリラ戦術に苦戦して、ポーランドの首都であるワルシャワに到着した時には僅か5千人にまで減少。

99%の軍勢を失ったナポレオンはこのロシア遠征を機に一気に転落の道を歩むことになるのでした。

ライプツィヒの戦い、そして失脚

敗走、そして失脚へ

ナポレオンがロシア遠征に大失敗したことはヨーロッパ中に広められ、復讐の機会を狙っていたプロイセンは諸国を呼びかけて第六次対仏大同盟を結成。

ロシア遠征で殆どの軍隊を失ったナポレオンは急いで若者を集めて軍隊の編成を急ぎますが、手塩に育てたナポレオンの軍隊がない今、フランスなんて恐れるに足りません。

連合軍はドイツのライプツィヒに集結し20万の軍勢を率いていたナポレオンを撃破。「諸国民の戦い」と呼ばれたこの一大戦争に敗れたナポレオンは敗走し、連合軍は翌年パリに入城しました。

ナポレオンは退位を余儀なくされてしまい、エルバ島に流刑されてしまい、12年にも及んだナポレオンの時代は幕を閉じたのでした。

1815年「 ワーテルローの戦い、百日天下」

ナポレオン、エルバ島から脱出

ウィーン会議

エルバ島にに流刑された後、連合軍は戦後処理を行うためにウィーンにてウィーン会議を開催。

しかし、諸国の要求がなかなかまとまることはなく、『会議は踊る、されど進まず』という形で会議はまったく進行しないが、舞踏会だけ盛り上がるというあっけらかんな状態となっており、フランス国内でもよりにもよって王政復古という形で王政が復活。

長きに渡った革命を全てぶち壊すようなこと出来事はフランス国民とったら耐えがたい出来事ですよね。

ワーテルローの大敗北

ワーテルローの戦い

このめちゃくちゃな状態を見たナポレオンはエルバ島から脱出して再び皇帝に舞い戻ることを決意。

1815年3月に再びパリに帰還して再びナポレオンは皇帝位に復位して再び復活を目指しますが、イギリス・プロイセン連合軍との間に起こったワーテルローの戦いが勃発することになりました。

最初の方はイギリス単独だったこともあり、優位に進んでいたのですが、プロイセン軍が到着したことによって形勢は逆転してしまい、側面を突かれたナポレオン軍は大混乱に陥ってしまい、4万人の被害を出して崩壊。

ナポレオンは再び退位を余儀なくされてしまい、いわゆる「百日天下」に幕を閉じたのです。

セントヘレナ島への流刑

2度目の流刑

ナポレオンはこの頃はまだ新天地であったアメリカに亡命して再起を図りますが、逃げようとしていた最中に港が封鎖され、イギリス軍艦に投降することを決意します。

イギリス側は二度とナポレオンが復活しないように大西洋の孤島であるセントヘレナ島に流すことに決定。

ナポレオンは絶海の孤島に流されてしまい、粗末な扱いを受けながら51年の人生に幕を下ろしたのでした。

しかし、ナポレオンは王政復古が行われたフランスて英雄として見られることとなり、そしてそのナポレオン復活の夢はナポレオンの甥であるナポレオン3世によって成し遂げられるのです。

まとめ

さて、ナポレオンはフランスだけではなく、ヨーロッパに多大な影響を与えた人物だということがわかったはずです。

ナポレオンは革命戦争を生き抜き、そして自身は皇帝となったものの、ナポレオン法典を制定してフランスの革命を確固たるものとしたことを述べましたが、ナポレオンが失脚するとこの考えは無きものとされてしまい、そして時代はウィーン体制へと移り変わっていくことになります。

でも、ナポレオンが民衆に与えた影響も計り知れないもので、このナポレオンの意識が後に二月革命や1848年革命、ナポレオン3世の登場、そしてドイツ・イタリアの統一へと繋がっていくことになるのでした。

昨今、フランス国内では政情不安や移民問題などで揺れ動いているのですが、この時代にナポレオンがいたらどんな解決策を示してくれるのでしょうか?と考えてしまいますね。

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4 COMMENTS

京藤 一葉

> ナポレオンオナパルトさん
コメントありがとうございます!記事を執筆する励みになります。引き続き宜しくお願い致します。

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