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葛飾北斎とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や作品、エピソードについても紹介】

葛飾北斎(かつしかほくさい)宝暦10年(1760年10月31日)~嘉永2年4月18日(1849年5月10日)は、江戸後期に活躍した武蔵国葛飾郡出身(現在の墨田区の一角)の浮世絵師。

本名は「川村鉄蔵(てつぞう)」と言います。出生に関しては不明な部分が多く、貧しい農家の家庭である川村家に生まれ、4歳ころに幕府御用達鏡磨師(かがみとぎし)に養子として迎えられたと言われています。

19歳という若さで絵の才能を認められ絵師としてデビューするも、貧乏な暮らしが続きます。しかし執念ともいえる絵に対する異常なまでの向上心で30代後半で才能を開花させ、大ヒットを連発する人気絵師へと成長していきます。

富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

生涯で脳卒中に2度倒れるなどの苦難がありながらも、常に絵に対して執着とも言える程に研鑽し、「北斎漫画(ほくさいまんが)」や「富嶽三十六景」といった、海外でジャポニズムを引き起こすきっかけとなる影響力をもった作品を多く世に生み出します。

北斎が残した作品の影響力は、1998年にアメリカ「ライフ」誌が企画した「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に日本人で唯一人ランクインするほどです。

また、2019年(平成31年)、新しくなる日本国パスポートのデザインは北斎に決定されるなど、現代においても色褪せない傑作を残しています。まさに日本を代表する偉人と言えるでしょう。

2020年3月から発行されるパスポート

目次

葛飾北斎の来歴は?

名前葛飾北斎(かつしかほくさい)
誕生日1760年10月31日
生地武蔵国葛飾郡(東京都)
没日1849年5月10日
没地浅草(東京)
埋葬場所東京都台東区元浅草 誓教寺

葛飾北斎の生まれは?

葛飾北斎生誕地に立つ看板

北斎は宝暦10年9月23日(1760年10月31日)、現在の墨田区の一角である武蔵国の葛飾郡本所割下(かつしかぐんほんしょわりげすい)に川村家の息子として誕生します。

両親に関してはハッキリとしたことは分かっていませんが、生家は川村家という説があり、4歳の頃には幕府御用達鏡磨師の中島伊勢(いせ)の養子となります。しかし家督は後に実子に継がせ、自らは家を出て絵師となります。

ちなみに、身長は180cm。江戸時代の平均身長が155cmと言われているので当時はかなり長身で目立ったのではないでしょうか。

生涯に2度結婚しており、最終的には子供が6人いました。
家族構成は以下の通りです。

  • 父:川村
  • 母:不明
  • 最初の妻:不明
  • 長女:お美代
  • 長男:富之助
  • 次女:お辰
  • 2番目の妻:こと
  • 三女:お栄(おえい)
  • 四女:お猶(おゆう)
  • 次男:崎十郎

葛飾北斎が絵師となった経緯は?

勝川春章の浮世絵

北斎が絵に対して興味を持ち始めたのは6歳の頃。この当時は木版技術が発達し、多色刷りの錦絵が出回り始めた頃でした。

12歳のころに貸本屋に丁稚(でっち)として働きます。仕事の合間に本の挿絵を見ては勉強していたといいます。また14歳のころには木版彫刻しの徒弟(とてい)となって、木版印刷の技術を学びます。

安永7年(1778年)、貸本屋や木版彫刻師での仕事を通して次第に「自分でも描いてみたい」という思いが強くなり、人気浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の元に入門し、絵師としての道を歩み始めました。

葛飾北斎の本名は?

東都名所「柳島妙見堂」

「葛飾北斎」の名は海外でも知られるほど有名ですが、これは画号(ペンネームのようなもの)であり、本名は「川村鉄蔵(かわむらてつぞう)」といいます。意外に普通な名前ですね。

「北斎」という名は、柳嶋妙見(やなぎしまみょうけん)というお寺から取ったと言われています。

ちなみに北斎は、生涯に30回も画号を変えたと言われていますが、「北斎」という画号を使い始めてからは「北斎改め◯◯◯」といった形で「元北斎」として使われることが多かったため、「北斎」という画号が定着した、という説があります。

葛飾北斎の性格は?

悔し涙を流すほど向上心の塊

北斎は、絵に関しては執念とも言える上昇志向の塊で、娘であるお栄には「80歳を過ぎてなお、筆をとらない日はないというのに、先日も“猫1匹、上手く描けやしない”と涙を流していた。」と言われるほどでした。

また、人を楽しませたり驚かせたりするのが好きなパフォーマー気質でもあったようです。120畳(縦約18メートル、横約11メートル)の巨大な布に大きなダルマを描いたりと、北斎は人が驚いたりする様を楽しんでいたに違いありません。

一方で、絵のこと以外には全くの無頓着だったようです。酒は飲まず、煙草も嗜まず、部屋は一切片付けないためゴミ屋敷状態。部屋が散らかったら引越していたため生涯引越し回数は 93 回。金銭にも無頓着で、人気絵師にも関わらず常に生活費には困っていたようです。

葛飾北斎の代表作は?

北斎は数え90歳でこの世を去るまでに3万点もの作品を残しました。ざっくり計算すると1日に1作品以上描いていたことになります。数多くの作品の中でも北斎の生涯を振り返った時に代表作として挙げるなら以下の作品です。

富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)

行楽ブームが到来した江戸時代後期にベストセラーとなり、中でも特に「神奈川沖浪裏」は、海外で「GREAT WAVE(グレートウェーブ)」という名で親しまれ、レオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」と並ぶほど有名な絵です。

北斎漫画(ほくさいまんが)

北斎漫画

庶民の様々な表情やポーズ、動植物、妖怪などのスケッチ約4000点、全15編からなる絵手本で、北斎没後の1856年(安政3年)にヨーロッパでジャポニズムを起こすきっかけとなったり、最後の第15編は明治になってから刊行されるなど、時代や国境をまたいだ大作です。

富士越龍図(ふじこしのりゅうず)

富士越龍図

数え90歳で永眠する3ヶ月前に描かれた、北斎最後の作品とも言われています。富士から立ちのぼる黒煙の中に龍が描かれていて、この龍は北斎自身を描いたものだとする説が有力です。

葛飾北斎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説1「葛飾北斎は隠密だった?」

隠密(忍者)だったかもしれない?

住むところや画号をころころ変え、無類の旅行好きだった北斎。そんな北斎が実は隠密(忍者)だったのではないか、という噂があります。

江戸後期、全国の各藩が情報収集を必死に行っていたであろう時代に、北斎は全国を何度も旅行し、数々のスケッチを描いています。たしかに見たものを正確に描ける能力は、隠密として有益なスキルのように思えますね。

また、鎖国の時代でありながらオランダ人との交流を持っていたり、江戸の人別帳で北斎だけが住居不定と記載されていたりする点も、この疑惑を強めている点のようです。

確かなことはまだ分かっていませんが、もし本当に隠密だったのするならば、これまでの「奇人・狂人」という北斎のイメージが覆る面白さがありますね。

都市伝説2「北斎の由来は”アホくさい”?」

北斎の借金証文

確かではないのですが、「北斎(ほくさい)」とい名前は「アホくさい」や「ヤボくさい」という言葉が由来、要はダジャレだという噂があります。

最も有力な説は「柳嶋妙見(やなぎしまみょうけん)というお寺の名前から」という説ですが、北斎は版元へ送った借金の証文で自らを「へくさい」や「屁クサイ」と呼んだりするユーモアセンスの持ち主です。ダジャレ説もあながちウソではなのではないのでは、むしろそうであってほしいな、と思ってしまいます。

ちなみに、北斎が春画「蛸と海女」を描いた時の画号は「鉄棒ぬらぬら」。こういう画号を自ら名乗っているあたりもダジャレ説をより強めますね。

葛飾北斎の生涯年表

1760年
武蔵国葛飾郡に生まれる
葛飾北斎は宝暦10年(1760年)、現在の墨田区の一角である武蔵国葛飾郡本所割下水(かほんしょわりげすい)に川村家の息子として誕生しました。
1778年
勝川春章の元に入門
安永7年(1778年)、19歳の北斎は「自分がしたいことは絵を描くことだ」と分かり、当時のトップ浮世絵師である勝川春章の元に入門します。
1779年
勝川春朗として絵師デビュー
入門翌年の安永8年(1779年)、早くも勝川春朗(かつかわしゅんろう)の画号をもらい絵師としてデビューします。この頃に最初の妻と結婚、長男・富之助、長女・お美与、次女・お辰を授かります。
1795年
勝川派から琳派・俵屋宗理へ
寛政7年(1795年)、葛飾北斎は勝川派を離れ琳派(りんは)に加わり三代目俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名。独自の美人画スタイル「宗理画美人」を生み出し人気絵師となっていきます。
1798年
宗理から北斎へ
寛政10年(1798年)、人気のわりにはお金がなく、「宗理」の画号を門人に売ります。
そしてこの頃から「北斎」という画号を使い始めます。この頃から北斎はどこの派にも属さない独立した絵師となります。
1804年
のちの重要文化財「二美人図」を発表
文化元年(1804年)、画狂人北斎(がきょうじんほくさい)の画号でのちの重要文化財となる「二美人図」を発表。また、曲亭馬金(きょくていばきん)や十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)と組み、一世を風靡します。
1814年
北斎漫画の初編刊行
文化9年(1814年)、関西旅行の途中で立ち寄った名古屋で描いた約300カットのスケッチを元にした北斎漫画が刊行されベストセラーとなります。
1827年
脳卒中、後妻「こと」の死去
文政10年(1827年)、北斎は脳卒中に倒れますが柚子を使った自家製の薬が効いたのか奇跡的に回復します。しかし、翌年の文政11年(1827年)に後妻「こと」を亡くし、「こと」の死後に北斎が美人画を描くことはありませんでした。
1831年
富嶽三十六景、行楽ブームでベストセラー
天保2年(1831年)、後妻「こと」を亡くした悲しみを振り払うかの如く、これまで以上に精力的に制作に取り組み、北斎の代表作となる富嶽三十六景を発表します。行楽ブームが到来していた江戸後期において大ベストセラーとなります。
1834年
富嶽百景を刊行、肉筆画へシフト
天保5年(1834年)、富嶽三十六景をさらに発展させた富嶽百景を刊行します。ただ、人々の評判は当時30代の若い天才絵師・広重に移っていました。北斎は富嶽百景の発表を境に風景画から肉筆画へとシフトしていきます。
1839年
生涯で初めて火事に遭う
天保10年(1839年)、80歳にして初めて火事に巻き込まれ、春朗だった10代から70年間も描きためてきたスケッチや資料などを消失してしまいます。火災直後は道具が無いため徳利を割って底の部分を筆洗いに、破片をパレットにしていたそうです。
1842年
2度目の脳卒中
天保13年(1842年)、北斎は2度目の脳卒中に倒れます。利き手が使えなくなる危機に見舞われながらも、日課として「獅子の略筆画」を描き続け、祈りが届いたのか奇跡的に回復します。
1849年
90歳で永眠
寛永2年(1849年)、北斎は数え90歳、浅草の地にて永眠します。永眠する3ヶ月前には「富士越龍図」を発表し、自ら称した「画狂人」にふさわしい絵に狂った生涯に幕を下ろしました。
1856年
ヨーロッパでジャポニズムを起こす
北斎没後の安政3年(1856年)、日本からヨーロッパへ送られた陶磁器の包み紙に使われていた北斎漫画がきっかけでヨーロッパにジャポニズムが起こります。

葛飾北斎の具体年表

1760年「葛飾郡に生を授かる」

1760年、武蔵国葛飾郡にて生まれる

現在の北斎通り

葛飾北斎は宝暦10年(1760年)、現在の墨田区の一角である武蔵国の葛飾郡本所割下水(ほんしょわりげすい)に川村家の息子として誕生しました。

姓は川村、幼名は時太郎(ときたろう)。1770年に鉄蔵(てつぞう)と改名します。家族構成は不明な部分が多く、4歳のころに幕府御用達の鏡磨師だった中島伊勢の養子になったと言われています。

6歳のころから絵を描いていたようで、晩年発表する富嶽百景のあとがきに「6歳のころから物の形を写生する癖があった」と自ら記しました。

この当時は木版技術が発達し多色刷り浮世絵である錦絵(にしきえ)が出回り始め、まさに浮世絵版画が普及し、成熟していく時期でした。もしかしたらそういった浮世絵の影響を受けて絵を描き始めたのかもしれません。

浮世絵は庶民の娯楽

浮世絵は、江戸時代に発達した風俗を描いた版画です。プロの絵師が描く絵画(肉筆画)はとても高価で庶民が楽しむことはできませんでしたが、版画にすると大量生産が可能になるため、庶民でも手にして楽しめる娯楽として広く親しまれました。

1777年 – 18歳「「絵が描きたい」ということを悟る」

木版彫刻師の徒弟として働いていた

貸本屋の丁稚、木版彫刻師の徒弟として働く

12歳の頃には貸本屋で丁稚(でっち)として働き、仕事の合間に本の挿絵を見て絵の独学をしていたそうです。

14歳になると木版彫刻師の徒弟(とてい)となって木版の彫刻技術を習得します。しかし「自分のやりたいことは彫ることではなく絵を描くことだ」と悟り彫刻師のもとを離れ、絵師になることを決意します。北斎が18歳の時のことでした。

1778年 – 19歳「勝川春章の元に入門」

勝川春章の元で絵師への道を歩み始める

黄表紙

絵師になることを決意した北斎は当時、役者絵で革命を起こしたと言われるほどの天才浮世絵師、勝川春章(かつかわしゅんしょう)の元に入門し、本格的に絵師としての修行を始めます。

入門早々に実力を認められ、黄表紙(きびょうし)の挿絵や錦絵、洒落本(しゃれぼん。遊郭での遊びについて書かれた読物)や春画(しゅんが)の挿絵、肉筆美人画など様々な画法を学びます。この頃には西洋の遠近法を用いた建物や風景を描く遠視画も経験します。

黄表紙とは
黄表紙は大衆向けに挿絵を多く使った「マンガ風」の読み物です。古典に洒落を交えた物語が書かれました。松平定信の寛政の改革(1787年- 1793年)により多くが発行禁止になりました。

1779年 – 19歳「絵師・春朗としてデビュー」

勝川春朗(北斎)「初代中村仲蔵」

勝川春朗として役者絵3図を発表

入門翌年の安永7年(1778年)、北斎は20歳という若さで勝川春朗(かつかわしゅんろう)の画号で役者絵を3図発表、絵師としてデビューします。

ただし当時は鳥居清鳥(とりいせいちょう)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)といった巨匠が人気を博しており、北斎の評判はまだまだ二流どまりでした。

しかし、北斎は持ち前の好奇心と画法の探求・研鑽への貪欲なまでの欲求から、師匠に隠れて他派である狩野派や堤等琳(つつみとうりん)、土佐風や西洋画、明画まであらゆる画法を猛勉強します。

最初の妻と結婚

北斎はこの頃に最初の妻と結婚し、長男・富之助、長女・お美与、次女・お辰を授かります。

のちに長男・富之助は北斎が養子となった中島伊勢の家督を継ぐものの早くに亡くなり、長女・お美代は北斎の弟子である柳川重信と結婚し一男を授かるものの離婚します。次女・お辰は北斎ゆずりの画才があったものの早くに嫁ぎ、病死します。

生活は厳しくアルバイト

20歳という若さで絵師デビューし、結婚もして順風満帆かと思いきや、生活は貧乏で苦しかったようです。

七味唐辛子などを売り歩いたり、灯籠や団扇に絵入れをして生活費の足しにしていた、という話が伝えられています。北斎自身がお金に無頓着な性格だったので、少なからずそれが影響していたのかもしれません。

北斎はそんな状況でも「餓死してでも絵の仕事はやり通して見せる」と覚悟を決め、早朝から晩の遅くまで灯籠や団扇に絵を描いていたという逸話もあります。

初めての挿絵の作品

「 驪山比翼塚 」

安永9年(1780年)、北斎は黄表紙「驪山比翼塚(めぐろひよくづか)」の挿絵を描きます。そしてこれが初めての挿絵の作品だと言われています。

この後、1781~1789年にかけて50作品以上の黄表紙の挿絵を手掛けることになります。

1785年 – 26歳「「春朗改め」の号を用いる」

「親譲鼻高名 」

心境の変化?春朗改め群馬亭

天明5年(1785年)に刊行された黄表紙「親譲鼻高名(おやゆずりはなのこうみょう)」では「春朗改群馬亭」という画号を用いました。また、この時期に残された作品は多くありません。

この時期は他派の勉強をしていたためという説や、経済的に困窮し副業を多くしていたためという説があります。

1793年 – 34歳「師・春章、他界」

兄弟子・勝川春好の役者絵

師匠の勝川春章が他界

寛政5年(1793年)、北斎の師匠である勝川春章が67歳で他界します。この翌年に北斎は勝川派から破門されています。破門の理由には諸説ありますが、師匠の死がきっかけで自ら勝川派から離れた一つの要因なのかもしれません。

兄弟子からのパワハラ

この時期には兄弟子である勝川春好(しゅんこう)からパワハラを受けていました。ある日、北斎が絵草紙屋から看板絵の依頼を受けて絵を描いた際に、絵草紙屋の店の前で絵の出来を罵られ、絵を破り捨てられました。

その後、北斎は悔しながらも反骨精神で更に絵の修業に励んだそうです。晩年「兄弟子からの辱めがあったからこそ自分の絵の技量が向上できた」と語ったという逸話があります。また、このパワハラがきっかけで勝川派を離れたとする説もあります。

1794年 – 35歳「勝川派から破門」

勝川派時代の作品「豆まきをする金太郎」

勝川派から破門

寛政7年(1794年)、約15年間にわたって錦絵や黄表紙本の挿絵を描いて過ごした勝川派を破門されます。

破門の理由は諸説あり、師に隠れて他派の絵を勉強していたことが発覚ししたためという説や、兄弟子・春好からのパワハラが原因で自ら勝川派を去ったという説があります。

ただ、師に隠れて他派の画法を勉強するほど好奇心旺盛で貪欲な北斎です。「もっと絵の技術を高めたい、もっと色々な画法を吸収したい」と思って勝川派を離れたのかもしれません。

1795年 – 36歳「琳派・三代目俵屋宗理を襲名」

琳派の代表作・尾形光琳「燕子花図屏風」

琳派に加わる

寛政7年(1795年)、北斎は尾形光琳・俵屋宗達が興した流派、琳派(りんは)へ加わり、三代目 俵屋宗理を襲名します。琳派は花鳥画や肉筆美人画を得意とする流派で、北斎も美人画や花鳥画に注力します。

私生活ではこの頃に最初の妻を亡くします。

花鳥画とは
中国で発展し日本にも広まった画題の一つです。花や鳥だけでなく四季折々の草木、虫、小動物などを描くため、鋭い観察眼や繊細な筆さばきが要求される画題です。

「宗理型美人」で人気絵師に

美人画に注力した北斎は独自の美人画スタイル「宗理型美人」を生み出し、これがきっかけで北斎の人気も次第に上昇していきます。

しかし、相変わらずお金には困っていたため副業はしていたようです。その副業の中で「鍾馗」(しょうき。中国に伝わる神)を魔除けとして幟(のぼり)に描く仕事で大金を稼いだことで、生涯絵師である決意をしたという逸話があります。

「師造化」森羅万象のみを師とする

この頃の北斎は「造化(ぞうか)」つまり森羅万象こそが師であるとして「師造化」という印を使用していました。

流派に囚われることなく己の思うがままに万物を描きたい、という北斎らしい言葉です。

1798年 – 39歳「宗理から北斎へ。絵師として独立」

北斎の娘・応為作「吉原格子先之図」

宗理の画号は門人へ売り、北斎を名乗る

人気があるもののお金がない北斎。七味唐辛子売りなどの副業をするもののそれでは足りず、「宗理」の画号を門人の宗二に売ります。

そして寛政10年(1798年)、初めて「北斎」という画号を用い、絵師としてどの派にも属さず独立することになります。

ちなみに、この時の画号を売った経験から味をしめて、お金に困ると弟子に画号を売りつけていたとも言われ、生涯で画号を30回も変えることになった要因の一つだと言われています。

2番目の妻「こと」と結婚

この頃に2番目の妻「こと」と結婚し、三女・お栄、四女・お猶、次男・崎十郎を授かります。

三女のお栄は特に北斎の才能を受け継いでおり、のちに葛飾応為という絵師となります。美人画においては北斎以上、「おんな北斎」とも言われていたそうです。

お栄は一度結婚するも同じ絵師である夫の絵が自分よりもヘタだと言ったことが原因で離婚。離婚後は北斎と一緒に暮らします。北斎と同じく片付けが嫌いで散らかるたびに引越していたそうなので、北斎の引越し回数が多い原因の一つはお栄なのかもしれません。

絵を描く気違い「画狂人」

この時期も相変わらずお金には困っていて、生計を立てるために浮世絵や美人画だけでなく絵本(よみほん)の挿絵から武者絵、相撲画など手当り次第に絵を描いていたそうです。

そんな自分を「絵を描く気違い」と称して「画狂人」という画号も使っていました。異常にすら見える画に対する貪欲さ執着心はまさに「画狂人」ですね。

読本(よみほん)とは
会話文主体で内容が簡単な滑稽本や草双紙とは違い、文学性が高い読み物です。高価だっため、多くの庶民は貸本屋で読本を読んでいたそうです。

1804年 – 45歳「美人画、読本絵で一世を風靡」

「二美人図」部分

のちの重要文化財「二美人図」を発表

文化元年(1804年)、のちに重要文化財となる「二美人図」を発表します。宗理の頃に描いていたスラリとした美人図とは違い、ふくよかな色気が表現されている点が特徴です。

読本絵師として一世を風靡

この頃になると、北斎は本格的に読本の挿絵を手掛けるようになり曲亭馬琴(きょくていばきん)や十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)といった絵本作家とともに多数の絵本を刊行します。

寛政の改革(1787年~1793年)の影響で読本が流行していたこともあり、北斎の斬新な構図の挿絵はたちまち評判になります。

パフォーマンス・アートで人々を驚かせる

この頃から北斎は積極的にパフォーマンス・アートも行うようになります。文化元年(1804年)には、江戸護国寺の観世音開帳で120畳(縦約18メートル、横約11メートル)の紙に即興で巨大な達磨を描くというパフォーマンスを行いました。

また、米粒に2羽の雀を描いてみせたり、徳川第11代将軍家斉の御前で横長の紙の上に藍色の線を引き、その上に足の裏に紅をつけた鶏を走らせた足跡を紅葉に見立て「竜田川にございます」と言い放ち一同を唖然とさせたり。

評判を広めるためにやっていたのかもしれませんが、北斎の性格から察するに人々が驚く様が面白くてやっていたのではないかと思います。

1807年 – 48歳「曲亭馬琴宅に居候」

文・馬琴、絵・北斎の『新編水滸画伝』部分

葛飾北斎、曲亭馬琴宅に居候

文化3年(1807年)の春から夏にかけて北斎は馬琴宅に居候して挿絵を作成していました。ただこの居候生活は長くは続きません。というのも、二人とも頑固な性格であったことと、北斎が馬琴の指示どおりに挿絵を描かなかったりして喧嘩が絶えなかったためです。

そんな二人でしたが、知人にお互いのことを話すときは褒めちぎっていたという逸話もあります。お互いにプロとしての実力は認め合っていたのかもしれませんね。

1810年 – 51歳「弟子200人以上。絵手本に制作に傾注」

『北斎絵手本集成』

全国の200人以上の弟子のために絵手本制作に傾注

文化7年(1810年)、この時点で北斎の弟子は全国に200人以上。当時の浮世絵界で最大勢力の歌川派に匹敵する人数でした。

北斎は全国200名以上の弟子に直接教えることが難しくなってきたため、江戸時代の通信教育ともいうべき絵手本の制作に傾注します。

のちに国内だけでなく海外にも多大な影響を及ぼす「北斎漫画」の制作はここからはじまったと言われています。

1812年 – 53歳「馬琴と絶交、名古屋へ逗留」

文・馬琴、絵・北斎の『椿説弓張月』

曲亭馬琴と絶交する

文化8年(1812年)、北斎はこれまでに数多くの作品をともに作ってきた曲亭馬琴と絶交します。

絶交の原因は、この年に刊行を予定していた「占夢南柯後期」(ゆめあわせなんかこうき)の制作中、馬琴が登場人物の口に草履を咥えさせるように挿絵の指示を出したところ、北斎は「誰がこんなに汚い草履を口にするか。そんなに言うなら、あんたがまず咥えたらどうだ」と言い放ち、馬琴を激怒させたからだそうです。

もともと喧嘩が絶えなかった二人ですが、これが決定打になったようです。

名古屋に逗留、300点以上のスケッチを描く

曲亭馬琴と絶交した同年。北斎は関西旅行に行く途中、弟子であり尾張藩士である牧墨僊(まきぼくせん)宅がある名古屋に半年間逗留し、300点以上のスケッチを描きます。

この時に描いたスケッチが名古屋の版元(出版社)である永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう)の目にとまり、のちに北斎漫画として刊行されることになります。

ちなみに当時、北斎は

もう江戸には帰らない。ここ自分の死に場所

と言うほどに名古屋を気に入っていたようです。

絵手本「略画早指南 前編」を刊行

「略画早指南」

この年にはコンパスや定規を使って簡単に絵を描く方法を解説した絵手本「略画早指南 前編」(りゃくがはやおしえ)を江戸の版元である角丸屋甚助(かどまるやじんすけ)から刊行します。

江戸時代のコンパス
江戸時代の北斎も絵を描く際にはコンパスや定規を利用することがあったそうです。現代の漫画家のようですね。コンパス自体は寛永元年~寛永20年(1624~1643年)に南蛮人によって日本に伝わったとされ、「ぶんまわし」という名前で測量や製図に用いられていました。

1814年 – 55歳「北斎漫画、初編刊行」

北斎漫画

北斎漫画の初編が刊行、ベストセラーに

文化11年(1814年)、庶民の様々な表情や生活風景、動植物のスケッチを収めた北斎漫画の初編を名古屋の版元である永楽屋東四郎から刊行します。

単なる絵の教本ではなく、町人が割り箸を鼻の穴に突っ込んで変な顔をしていたり、ロウソクを鼻息で懸命に吹く顔など、北斎のユーモアが詰まった内容でベストセラーとなります。

その後、北斎漫画は続編が北斎没後までも刊行され続け、最後となる第15編は明治11年(1878年)になってから刊行されました。まさに世代を超えた作品と言っても過言ではないでしょう。

絵手本「略画早指南 後編」を刊行

この年には「略画早指南」の後編も刊行しています。後編ではひらがなや簡単な漢字などの文字を利用して絵を描く方法などを解説した内容でした。

1817年 – 58歳「再び名古屋へ」

高力種信『北斎大画即書細図』

名古屋の「だるせん」

文化17年(1817年)、北斎は再び大好きな名古屋を訪れます。一説には初編を刊行した北斎漫画の宣伝活動の一環で訪れたと言われています。

10月5日、名古屋市大須の西本願寺掛所(現在の本願寺名古屋別院)。北斎は江戸で行った大達磨を即興で描くパフォーマンス・アートを再び行います。これが大変な話題となり北斎は名古屋では「だるせん」(だるま先生の略)というあだ名で親しまれるほどになります。

この時の様子は尾張藩士の高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)が書き留めた「北斎大画即書細図」に画材から当時の賑わいの様子まで絵とあわせて詳細に記載されていています。

2017年にはこの資料を元に当時と同じ場所の本願寺名古屋別院で、当時と同じ材質の筆や紙を用いてパフォーマンス・アートを再現するイベントが行われました。

現代の人が見ても圧巻のパフォーマンスを江戸時代にやってのけた北斎はパフォーマーとしても一流だったんですね。

1823年- 64歳「富嶽三十六景の制作開始」

富嶽三十六景 凱風快晴

富嶽三十六景の制作開始

文政6年(1823年)、のちに北斎の代表作となり世界にも多大な影響を与える富嶽三十六景の制作を開始します。

名古屋旅行の際に立ち寄った東海道五十三次の宿場から見える富士をスケッチし、何年もかけて構想を練っていたという話もあるので、並々ならぬ想いをこめて制作していたのだと思います。

この頃には娘であり、のちに美人画では北斎に「天才」と言わせるほどの絵師となる「お栄」が離縁、出戻りし、富嶽三十六景の制作を手伝っていたと言われています。

一筆画譜が大ヒット

富嶽三十六景の制作を開始したその年に、北斎は「一筆画譜(いっぴつがふ)」という絵手本を北斎漫画の時と同じ名古屋の版元である永楽屋東四郎から刊行します。

武士や子供などの人物、鳥や亀、猫などの動物などを一筆で書く方法が100以上のスケッチで解説された内容で、北斎漫画に通じる軽妙さ、可愛さ、ユーモアあふれた作品でこれまた大ヒットとなります。

刊行のきっかけは、北斎が名古屋を訪れた際に見た文人画家・福善斎(ふくぜんさい)が描いた一筆画を大変気に入り、このまま埋もれさせるのは惜しいと思ったからと言われています。

1826年- 66歳「北斎とシーボルト、出会う」

シーボルト

絵を値切られ怒る北斎

文政9年(1826年)、オランダ商館長と付添いのシーボルトが北斎のもとを訪れ、絵を依頼した時の逸話は有名です。

オランダの商館長は絵の代金150金を支払いましたが、シーボルトは「薄給なので半額の75金にしてほしい」と値切ります。

北斎は

「なぜそれを初めに言わないのか。知っていれば同じ絵でも彩色などを抑えて半額で描いたのに。これで半額で売ってしまっては商館長に高値を請求したことになり心苦しい」

と怒り絵を売りませんでした。

絵を持ち帰った北斎は妻に「貧乏なんだから半額でも売ったらよかったのに」と言われますが「貧乏は承知だが、約束を違えた外国人に対して、日本人は人によって売値を変えると笑われたくなかった」答えたそうです。

その後、この話を知ったオランダ商館長は関心し、残りの絵も150金で買取りオランダに持ち帰ります。そうして持ち帰られた絵がキッカケとなり、オランダ人からたくさんの依頼がくるようになったと言われています。

ちなみに、この2年後。シーボルトは伊能忠敬の日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し国外追放(シーボルト事件)となります。

シーボルトの北斎コレクションはのちに自ら刊行する自著「NIPPON」(1832~1851年)にも掲載されていたり、2016年にはシーボルトが持ち帰ったとみられる北斎が描いた西洋画がオランダのライデン国立民族博物館で見つかったりしています。

北斎が描いた西洋画を見ると、北斎は西洋画も深く研究し理解していたことがひと目で分かり、あらためて北斎の天才ぶりを感じることができます。

1827年- 67歳「脳卒中で倒れる」

柚子で脳卒中から回復

脳卒中になるも自家製の柚子薬で回復

文政10年(1827年)、北斎は脳卒中で倒れますが、柚子で作った自家製の薬を服用することで回復したと言われています。

柚子の皮の白い綿部分に含まれるヘスペリジンというポリフェノールは毛細血管を強くしたり血液の廻りを改善する効果があるそうなのであながち間違っていもいない処方だったようです。

孫の悪事の尻拭いに追われる

この頃になると、娘・お美代の孫が遊び呆けるようになり悪事を繰り返しては北斎が尻拭いをしいたそうです。

北斎が75歳の時には、孫が博打にハマり借金取りに追われた挙げ句、裁判に負け、親戚を頼りに浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に一時身を隠さざるを得なくなったという逸話もあります。

当人は笑い事ではなかったのかもしれませんが、奇人とも言われる北斎が孫に手を焼いたという普通の人間らしい一面が垣間見えるエピソードですね。

2番目の妻「こと」、他界

文政11年(1828年)、2番目の妻「こと」が亡くなります。この時を境に北斎は美人画を描くことがなくなりました。一説には美人画のモデルは妻の「こと」だっったのではないか、と言われています。

もしそうだとすると、北斎にも「妻が大好き」という可愛い一面があったのかもしれませんね。

1831年- 72歳「富嶽三十六景、発表」

富嶽三十六景 田子の浦

行楽ブームで富嶽三十六景は大ベストセラー

江戸時代後期のこの時期は、経済発展にともなって人の往来が盛んになり、行楽や旅行を楽しむブームが到来します。

庶民が「どこかへ行きたい」と思い始めている時に富嶽三十六景が発表され、もちろん大ベストセラーとなります。

荒波の中や鳥居の奥、大きな丸い桶の中など、さまざまに趣向をこらした富士の配置と、それを取りまく庶民の生活がリアイリティを持って描かれ、「北斎といえば富士、富士と言えば北斎」とまで称賛されました。

あまりの人気に10図を追加し、最終的には富嶽三十六景は46図となります。

みなが愛した北斎ブルー

富嶽三十六景の初版の10図はベロ藍(べろあい)と呼ばれる染料を用いて青一色の濃淡のみで刷られました。この美しい青は、のちに「北斎ブルー」と呼ばれ、江戸の庶民だけでなくゴッホなど海外の芸術家にも称賛されることになります。

ちなみに初版10図以降は徐々に色を増やしながら刷られていきました。これは版元の「庶民が飽きないようにするための戦略」だったという説があります。

江戸時代であっても、現代のマーケティングのようなことを考える人たちがいたんだ、と改めて思わせてくれる逸話です。

広重を奮い立たせた富嶽三十六景

歌川広重の肖像

この当時、歌川広重も「東都名所」という自信作の風景画を発表しますが富嶽三十六景に評判を取られ、売れ行きは今ひとつでした。これに触発されて風景画の研究、研鑽を重ね「東海道五十三次」を発表するにいたったと言われています。

この頃から北斎と広重はライバルとして技術やセンスを競い合うことになります。

百物語を発表、大流行

富嶽三十六景の初版が発表されたのと同じ年に、北斎は怪談話をテーマにした「百物語」を発表します。実際には100作品あるわけでなく5作品ですが、これまた大流行します。

この頃の北斎は何か発表すれば当たる、というフィーバー状態だったようです。

1833年- 74歳「広重「東海道五十三次」発表」

東海道五十三次 日本橋

東海道五十三次、空前の大ヒット

天保4年(1833年)、富嶽三十六景がベストセラーとなった影で風景画の研究を重ねた広重の傑作「東海道五十三次」が発表されます。

日本の五街道の一つとして有名な東海道の宿場をテーマにしたシリーズで、行楽ブームという追い風もあり、富嶽三十六景を超えんばかりの大ヒットを記録します。

北斎の人気に陰りが。版画から肉筆画へ

広重の東海道五十三次の発表と同年、北斎も「諸国瀧巡り」や「千絵の海」などの名作を発表しますが世間の話題は若い天才絵師・広重に移り、北斎の人気に陰りが見え始めました。

その後、風景画だけでなく花鳥画でも競い合うようになり、テクニックの北斎と抒情のある画風の広重という構図で火花を散らしますが、庶民に評価されたのは広重でした。

そんな中、天保5年(1834年)に北斎は富嶽三十六景からのシリーズである富嶽百景を発表します。北斎は富嶽百景のあとがきでこう述懐しています。

私は6歳の頃から物の姿を絵に移してきた。50歳の頃から随分たくさんの絵や本を出したが、ようやく考えてみると70歳までに描いたものにはろくな絵はない。73歳になってどうやら鳥や獣、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそうう奥まで見極めることができ、100歳になったら思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう

この富嶽百景の発表を境に北斎は作品の軸を浮世絵から肉筆画へ移していきます。富嶽三十六景や富嶽百景などの大作を発表し、一区切りつけて次の境地に向かう決意を語ったのかもしれませんね。

この年齢になっても、自ら確立した風景版画というジャンルを捨て、新たなジャンルへ前進し続けられる能力が、北斎が偉大な画業を残せた要因の一つなんだと思います。

天保の大飢饉

天保3~7年(1833~1827年)には天保の大飢饉が起き、江戸中でも餓死者が多数でる状態となりました。世の中は徐々に浮世絵どころではなくなります。

北斎は肉筆画の画帳を紙草紙屋(当時の本屋)に並べてもらい飢えをしのいでいたそうです。

1839年- 80歳「生涯初めて火事にあう」

火事に遭ってしまった北斎

80歳にして初めての火事

天保10年(1839年)、北斎は生涯で初めて火事にあいます。常に引越しをし続けていたためか、火事が多かった江戸時代に80歳まで火事にあわなかったのはむしろ「奇跡的」だと言われています。

北斎は火事によって春朗と名乗っていた10代の頃から約70年間描き溜めたスケッチや資料を焼失します。また、家財道具の一切が焼失してしまったため、火災直後は徳利を割って底の部分を筆洗いに、破片をパレットにしていたそうです。

1842年- 83歳「2度目の脳卒中に倒れる」

北斎の「日新除魔図」

日課の「獅子の略奪画」で奇跡の回復

天保13年(1842年)、北斎は生涯で二度目となる脳卒中に倒れます。

利き手が使えなくなる可能性もありましたが、「日新除魔(にっしんじょま。日を新たに魔を除く)」として「獅子の略奪画」を描くことを日課としました。その祈りが通じたのか脳卒中から奇跡的に回復したと言われています。

この頃の北斎は、弟子が長旅をする際には現地の特産品などの写生を依頼するなど、なおも絵に対する探究心は衰えていなかったそうです。

1849年- 90歳「永眠」

東京・誓教寺にある葛飾北斎の墓

数え90歳で永眠

嘉永2年(1849年)、肉筆画「富士越龍図(ふじこしのりゅうず)」を描くものの体調を崩し、床に伏せます。そして同年5月10日、浅草の聖天町・遍照院境内の長屋にて永眠します。数え90歳の生涯でした。

貧乏だった北斎でしたが葬儀は友人や門人がお金を出し合い、立派に執り行われたと言われています。

辞世の句は「ひと魂でゆく気散(きさん)じや夏の原」。「死んだ後は人魂(ひとだま)になって夏の草原をのびのびと飛んでゆこう」という意味で、百物語などの妖怪なども描いてきた北斎のユーモアセンスが感じられる句です。

臨終の言葉

北斎は臨終の際にこう言い残したと言わています。

天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵師になることができるだろう

最後の最後まで現状に満足しなかった、北斎の絵に対する執念が伝わってくる言葉です。

富士越龍は葛飾北斎自身

「富士越龍図」は北斎の生涯最後の作品と言われています。富士山をモチーフにした北斎らしい構図で、富士から立ちのぼる黒煙の中に天へ昇っていく龍が描かれています。

この龍は絵師としてさらに上を目指していく北斎自身を描いたものだとする説が有力です。

永眠の3ヶ月前に描かれたとは思えない意欲溢れる作品で、生涯の最後の最後まで絵を極めようと上を目指し続けた北斎の生涯を表しているかのようです。

1856年- 没後7年「ジャポニズム、起こる」

ドガ「踊り子たち ピンクと緑」

「ホクサイ・スケッチ」でジャポニズムが起こる

安政3年(1856年)、フランスの銅版画家フィリックス・ブラックモンは友人の印刷工房で日本から送られてきた陶磁器の梱包に使われている北斎漫画を見つけます。

これがきっかけでヨーロッパではジャポニズムが起こり、北斎漫画は「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれ大ベストセラーとなります。

北斎の作品は日本だけにとどまらず、ゴッホやモネ、ドガといった印象派の画家たちに多大な影響を与えました。

葛飾北斎に影響を受けた世界のアーティストたち

印象派のドガが描いた「踊り子たち・ピンクと緑」という作品は北斎漫画11編に収録されている力士の構図を参考に描かれたと言われています。

作曲家のドビュッシーは富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」から影響を受けて交響曲「海」を作曲したとされ、本人の希望で初版譜面の表紙に「神奈川沖浪裏」を使用したそうです。

人魂となった北斎は名古屋で大達磨を描いた時のように、北斎の作品に驚く世界の人々の姿を楽しんでいるのかもしれませんね。

葛飾北斎の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

葛飾北斎伝

葛飾北斎に関する唯一の伝記と言われ、現在世間に出回っている逸話のほとんどがこの本からきています。

明治時代に出版された書籍のため文章が読みづらい部分はあるものの、北斎没後40年で北斎のことを知る人たちから取材した内容も盛り込まれているため、一番詳細かつ正確な内容の本です。

もっと知りたい葛飾北斎―生涯と作品

北斎の生涯を代表作を交えながら順を追って書かれている本です。カラーの資料も掲載されていてとても読みやすく、分かりやすい内容のため、こかから北斎についてもっと知りたいと思っている方には最適な本です。

百日紅

葛飾北斎と娘のお栄を中心に江戸の庶民の生活を描いた漫画です。漫画なので北斎やその周りの人達、当時の様子などがイメージしやすく、他の書籍を読む前に一読しておくと読書がより捗るのでおすすめです。

おすすめ映画

北斎漫画

北斎と娘のお栄、友人の曲亭馬琴との交流を描いた映画作品です。戯作家の矢代静一の戯曲を映画化したもので、史実とは違う箇所も多々ありますが、北斎を想像する一つの参考として見れる作品です。

ちなみに映画タイトルの「北斎漫画」となっていますが、映画の内容は北斎漫画とはあまり関係ありません。

百日紅 ~Miss HOKUSAI~

北斎の娘・お栄(葛飾応為)を主人公にしたアニメ映画作品です。特に事前の知識がなくても江戸の暮らしを想像しながら見れます。またアニメならではの妖怪画の表現などもあり、これから北斎の作品に触れる際の想像を掻き立ててくれること間違いなしです。

おすすめドラマ

眩(くらら)~北斎の娘~

北斎の娘であり、北斎とともに暮らし、北斎の臨終を看取ったお栄(葛飾応為)が主人公のドラマ作品です。主人公のお栄は宮崎あおいさんが演じています。北斎は主人公ではないですが、北斎という人物を違った角度から見れ、特に当時の北斎たちがどういった生活を送っていたのかイメージができるドラマです。

関連外部リンク

終わりに

私自身、絵を描くことが好きで、中学生の頃から北斎の絵は好きで、展示会に行って絵を見る機会も何回もあったのですが、今回の記事にあるような北斎の人となりや生涯についてはあまりよく知りませんでした。

今回、北斎の人生を改めて深掘ることで、北斎のような狂人レベルまではいかないまでも「まだまだ自分も頑張らないとな、好きなことにもっと打ち込もう」というモチベーションが湧いてきました。

本記事を読んだ方にもそういったプラスの影響が少しでも与えられれば幸いです。

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