葛飾北斎とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格も紹介】

葛飾北斎の功績

功績1「化政文化の代表者の1人」

化政文化の代表作・東洲斎写楽「市川蝦蔵」

江戸時代後期、1804年から1830年にかけての文化文政時代を中心に、江戸を中心として発展した町人文化を「化政文化」といいます。その場限りの快楽を楽しむ享楽的な性質が強く、庶民のための文化といわれています。

1760年生まれの北斎は、化政文化の花開いた時期の真っただ中に活躍していました。同じ時期の浮世絵師には、東洲斎写楽や歌川広重など現在でもよく知られている面々が並んでいます。

功績2「海外の芸術にも影響した『ジャポニスム』の原型」

ジャポニスムの代表作
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」

たくさんの浮世絵師のなかでも、北斎がジャポニスムの中心といわれるのはなぜでしょうか。それは北斎の描いたモチーフの幅広さにあります。

北斎は人物画から風景画まで何でも描き、動植物でも建物でも何でもモチーフにしていました。ヨーロッパで描かれている絵画のモチーフを1人で網羅するほどの人物であったので「Hokusai=浮世絵」とまで認識されたのでしょう。北斎のあくなき探求心が、ジャポニスムの世界的大流行を生み出したのです。

功績3「当時の大衆文化を現代に伝える「北斎漫画」」

「北斎漫画」

日本で初めての「漫画」と呼べるものは、平安末期から鎌倉初期の「鳥獣戯画」だといわれています。けれども、漫画を大衆的な文化として打ち出したのはなんといっても「北斎漫画」でしょう。

「北斎漫画」は絵手本として描かれた作品で、全15編におよそ4000図が収められています。画家を志す人々のために描かれたものが評判を呼び、さまざまな職人がデザインの手引きにするようにもなりました。当時の庶民の様子がいきいきと描かれた「北斎漫画」は、江戸時代後期の文化や雰囲気を今に伝えてくれる貴重な史料でもあります。

葛飾北斎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説1「葛飾北斎は隠密だった?」

隠密(忍者)だったかもしれない?

住むところや画号をころころ変え、無類の旅行好きだった北斎。そんな北斎が実は隠密(忍者)だったのではないか、という噂があります。

江戸後期、全国の各藩が情報収集を必死に行っていたであろう時代に、北斎は全国を何度も旅行し、数々のスケッチを描いています。たしかに見たものを正確に描ける能力は、隠密として有益なスキルのように思えますね。

また、鎖国の時代でありながらオランダ人との交流を持っていたり、江戸の人別帳で北斎だけが住居不定と記載されていたりする点も、この疑惑を強めています。

確かなことはまだ分かっていませんが、もし本当に隠密だったのするならば、これまでの「奇人・狂人」という北斎のイメージが覆る面白さがありますね。

都市伝説2「北斎の由来は”アホくさい”?」

北斎の借金証文

確かではないのですが、「北斎(ほくさい)」とい名前は「アホくさい」や「ヤボくさい」という言葉が由来、要はダジャレだという噂があります。

最も有力な説は「柳嶋妙見(やなぎしまみょうけん)というお寺に祭られていた菩薩の名前から」という説ですが、北斎は版元へ送った借金の証文で自らを「へくさい」や「屁クサイ」と呼んだりするユーモアセンスの持ち主です。ダジャレ説もあながちウソではなのではないのでは、むしろそうであってほしいな、と思ってしまいます。

ちなみに、北斎が春画「蛸と海女」を描いた時の画号は「鉄棒ぬらぬら」。こういう画号を自ら名乗っているあたりもダジャレ説をより強めますね。

葛飾北斎の生涯年表


1760年
武蔵国葛飾郡に生まれる

葛飾北斎は宝暦10年(1760年)、現在の墨田区の一角である武蔵国葛飾郡本所割下水(かほんしょわりげすい)に川村家の息子として誕生しました。
1778年
勝川春章の元に入門

安永7年(1778年)、19歳の北斎は「自分がしたいことは絵を描くことだ」と分かり、当時のトップ浮世絵師である勝川春章の元に入門します。
1779年
勝川春朗として絵師デビュー

入門翌年の安永8年(1779年)、早くも勝川春朗(かつかわしゅんろう)の画号をもらい絵師としてデビューします。この頃に最初の妻と結婚、長男・富之助、長女・お美与、次女・お辰を授かります。
1795年
勝川派から琳派・俵屋宗理へ

寛政7年(1795年)、葛飾北斎は勝川派を離れ琳派(りんは)に加わり三代目俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名。独自の美人画スタイル「宗理画美人」を生み出し人気絵師となっていきます。
1798年
宗理から北斎へ

寛政10年(1798年)、人気のわりにはお金がなく、「宗理」の画号を門人に売ります。
そしてこの頃から「北斎」という画号を使い始めます。この頃から北斎はどこの派にも属さない独立した絵師となります。
1804年
のちの重要文化財「二美人図」を発表

文化元年(1804年)、画狂人北斎(がきょうじんほくさい)の画号でのちの重要文化財となる「二美人図」を発表。また、曲亭馬金(きょくていばきん)や十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)と組み、一世を風靡します。
1814年
北斎漫画の初編刊行

文化9年(1814年)、関西旅行の途中で立ち寄った名古屋で描いた約300カットのスケッチを元にした北斎漫画が刊行されベストセラーとなります。
1827年
脳卒中、後妻「こと」の死去

文政10年(1827年)、北斎は脳卒中に倒れますが柚子を使った自家製の薬が効いたのか奇跡的に回復します。しかし、翌年の文政11年(1827年)に後妻「こと」を亡くし、「こと」の死後に北斎が美人画を描くことはありませんでした。
1831年
富嶽三十六景、行楽ブームでベストセラー

天保2年(1831年)、後妻「こと」を亡くした悲しみを振り払うかの如く、これまで以上に精力的に制作に取り組み、北斎の代表作となる富嶽三十六景を発表します。行楽ブームが到来していた江戸後期において大ベストセラーとなります。
1834年
富嶽百景を刊行、肉筆画へシフト

天保5年(1834年)、富嶽三十六景をさらに発展させた富嶽百景を刊行します。ただ、人々の評判は当時30代の若い天才絵師・広重に移っていました。北斎は富嶽百景の発表を境に風景画から肉筆画へとシフトしていきます。
1839年
生涯で初めて火事に遭う

天保10年(1839年)、80歳にして初めて火事に巻き込まれ、春朗だった10代から70年間も描きためてきたスケッチや資料などを消失してしまいます。火災直後は道具が無いため徳利を割って底の部分を筆洗いに、破片をパレットにしていたそうです。
1842年
2度目の脳卒中

天保13年(1842年)、北斎は2度目の脳卒中に倒れます。利き手が使えなくなる危機に見舞われながらも、日課として「獅子の略筆画」を描き続け、祈りが届いたのか奇跡的に回復します。
1849年
90歳で永眠

寛永2年(1849年)、北斎は数え90歳、浅草の地にて永眠します。永眠する3ヶ月前には「富士越龍図」を発表し、自ら称した「画狂人」にふさわしい絵に狂った生涯に幕を下ろしました。

1856年
ヨーロッパでジャポニズムを起こす

北斎没後の安政3年(1856年)、日本からヨーロッパへ送られた陶磁器の包み紙に使われていた北斎漫画がきっかけでヨーロッパにジャポニズムが起こります。

葛飾北斎の具体年表

1760年「葛飾郡に生を授かる」

1760年、武蔵国葛飾郡にて生まれる

葛飾北斎は宝暦10年(1760年)、現在の墨田区の一角である武蔵国の葛飾郡本所割下水(ほんじょわりげすい)に川村家の息子として誕生しました。

姓は川村、幼名は時太郎(ときたろう)。1770年に鉄蔵(てつぞう)と改名します。家族構成は不明な部分が多く、4歳のころに幕府御用達の鏡磨師だった中島伊勢の養子になったと言われています。

6歳のころから絵を描いていたようで、晩年発表する富嶽百景のあとがきに「6歳のころから物の形を写生する癖があった」と自ら記しました。

北斎の幼少期は、木版技術が発達し多色刷り浮世絵である錦絵(にしきえ)が出回り始め、まさに浮世絵版画が普及し、成熟していく時期でした。もしかしたらそういった浮世絵の影響を受けて絵を描き始めたのかもしれません。

浮世絵は庶民の娯楽

浮世絵は、江戸時代に発達した風俗を描いた版画です。プロの絵師が描く絵画(肉筆画)はとても高価で庶民が楽しむことはできませんでしたが、版画にすると大量生産が可能になるため、庶民でも手にして楽しめる娯楽として広く親しまれました。

1777年 – 18歳「「絵が描きたい」ということを悟る」

木版彫刻師の徒弟として働いていた

貸本屋の丁稚、木版彫刻師の徒弟として働く

12歳の頃には貸本屋で丁稚(でっち)として働き、仕事の合間に本の挿絵を見て絵の独学をしていたそうです。

14歳になると木版彫刻師の徒弟(とてい)となって木版の彫刻技術を習得します。しかし「自分のやりたいことは彫ることではなく絵を描くことだ」と悟り彫刻師のもとを離れ、絵師になることを決意します。北斎が18歳の時のことでした。

1778年 – 19歳「勝川春章の元に入門」

勝川春章の元で絵師への道を歩み始める

黄表紙

絵師になることを決意した北斎は当時、役者絵で革命を起こしたと言われるほどの天才浮世絵師、勝川春章(かつかわしゅんしょう)のもとに入門し、本格的に絵師としての修行を始めます。

入門早々に実力を認められ、黄表紙(きびょうし)の挿絵や錦絵、洒落本(しゃれぼん:遊郭での遊びについて書かれた読物)や春画(しゅんが)の挿絵、肉筆美人画など様々な画法を学びます。この頃には西洋の遠近法を用いた建物や風景を描く遠視画も経験しました。

黄表紙とは

黄表紙は大衆向けに挿絵を多く使った「マンガ風」の読み物です。古典に洒落を交えた物語が書かれました。松平定信の寛政の改革(1787年- 1793年)により多くが発行禁止になりました。

1779年 – 19歳「絵師・春朗としてデビュー」

勝川春朗(北斎)
「初代中村仲蔵」

勝川春朗として役者絵3図を発表

入門翌年の安永7年(1778年)、北斎は20歳という若さで勝川春朗(かつかわしゅんろう)の画号で役者絵を3図発表、絵師としてデビューします。

ただし当時は鳥居清鳥(とりいせいちょう)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)といった巨匠が人気を博しており、北斎の評判はまだまだ二流どまりでした。

しかし北斎は、持ち前の好奇心と貪欲なまでの画法への探求心から、師匠に隠れて他派である狩野派や堤等琳(つつみとうりん)、土佐風や西洋画、明画まであらゆる画法を猛勉強します。

最初の妻と結婚

北斎はこの頃に最初の妻と結婚し、長男・富之助、長女・お美与、次女・お辰を授かります。

のちに長男・富之助は北斎が養子となった中島伊勢の家督を継ぐものの早くに亡くなり、長女・お美代は北斎の弟子である柳川重信と結婚し一男を授かるものの離婚します。次女・お辰は北斎ゆずりの画才があったものの早くに嫁ぎ、病死します。

生活は厳しくアルバイト

20歳という若さで絵師デビューし、結婚もして順風満帆かと思いきや、生活は貧乏で苦しかったようです。

七味辛子などを売り歩いたり、灯籠や団扇に絵入れをして生活費の足しにしていた、という話が伝えられています。北斎自身がお金に無頓着な性格だったので、少なからずそれが影響していたのかもしれません。

北斎はそんな状況でも「餓死してでも絵の仕事はやり通して見せる」と覚悟を決め、早朝から晩の遅くまで灯籠や団扇に絵を描いていたという逸話もあります。

初めての挿絵の作品

「 驪山比翼塚 」

安永9年(1780年)、北斎は黄表紙「驪山比翼塚(めぐろひよくづか)」の挿絵を描きます。そしてこれが初めての挿絵の作品だと言われています。

この後、1781~1789年にかけて50作品以上の黄表紙の挿絵を手掛けることになります。

1785年 – 26歳「「春朗改め」の号を用いる」

「親譲鼻高名 」

心境の変化?春朗改め群馬亭

天明5年(1785年)に刊行された黄表紙「親譲鼻高名(おやゆずりはなのこうみょう)」では「春朗改群馬亭」という画号を用いました。また、この時期に残された作品は多くありません。

この時期は他派の勉強をしていたためという説や、経済的に困窮し副業を多くしていたためという説があります。

1793年 – 34歳「師・春章、他界」

兄弟子・勝川春好の役者絵

師匠の勝川春章が他界

寛政5年(1793年)、北斎の師匠である勝川春章が67歳で他界します。この翌年に北斎は勝川派から破門されています。破門の理由には諸説ありますが、師匠の死がきっかけで自ら勝川派から離れたのかもしれません。

兄弟子からのパワハラ

この時期には兄弟子である勝川春好(しゅんこう)からパワハラを受けていました。ある日、北斎が絵草紙屋から看板絵の依頼を受けて絵を描いた際に、絵草紙屋の店の前で絵の出来を罵られ、絵を破り捨てられました。

その後、北斎は悔しながらも反骨精神で更に絵の修業に励んだそうです。晩年「兄弟子からの辱めがあったからこそ自分の絵の技量が向上できた」と語ったという逸話があります。また、このパワハラがきっかけで勝川派を離れたとする説もあります。

1794年 – 35歳「勝川派から破門」

勝川派時代の作品
「豆まきをする金太郎」

勝川派から破門

寛政7年(1794年)、約15年間にわたって錦絵や黄表紙本の挿絵を描いてきた勝川派を破門されます。

破門の理由はいろいろな説があり、師に隠れて他派の絵を勉強していたことが発覚したためだとか、兄弟子・春好からのパワハラが原因で自ら勝川派を去ったという説もあります。

ただ、師に隠れて他派の画法を勉強するほど好奇心旺盛で貪欲な北斎です。「もっと絵の技術を高めたい、もっと色々な画法を吸収したい」と思って勝川派を離れたのかもしれません。

1795年 – 36歳「琳派・三代目俵屋宗理を襲名」

琳派の代表作・尾形光琳「燕子花図屏風」

琳派に加わる

寛政7年(1795年)、北斎は尾形光琳・俵屋宗達が興した流派、琳派(りんは)へ加わり、三代目 俵屋宗理を襲名します。琳派は花鳥画や肉筆美人画を得意とする流派で、北斎も美人画や花鳥画に注力します。

私生活ではこの頃に最初の妻を亡くします。

花鳥画とは

中国で発展し日本にも広まった画題の一つです。花や鳥だけでなく四季折々の草木、虫、小動物などを描くため、鋭い観察眼や繊細な筆さばきが要求される画題です。

「宗理型美人」で人気絵師に

美人画に注力した北斎は独自の美人画スタイル「宗理型美人」を生み出し、これがきっかけで北斎の人気も次第に上昇していきます。

しかし、相変わらずお金には困っていたため副業はしていたようです。その副業のなかで「鍾馗(しょうき:中国に伝わる神)」を魔除けとして幟(のぼり)に描く仕事で大金を稼いだことで、生涯絵師でい続ける決意をしたという逸話があります。

「師造化」森羅万象のみを師とする

この頃の北斎は「造化(ぞうか)」つまり森羅万象こそが師であるとして「師造化」という印を使用していました。

流派にとらわれることなく己の思うがままに万物を描きたい、という北斎らしい言葉です。

1798年 – 39歳「宗理から北斎へ。絵師として独立」

北斎の娘・応為作「吉原格子先之図」

宗理の画号は門人へ売り、北斎を名乗る

人気があるもののお金がない北斎。七味辛子売りなどの副業をするもののそれでは足りず、「宗理」の画号を門人の宗二に売ります。

そして寛政10年(1798年)、初めて「北斎」という画号を用い、絵師としてどの派にも属さず独立することになります。

ちなみに、この画号を売った経験から味をしめて、お金に困ると弟子に画号を売りつけていたらしく、生涯で画号を30回も変えることになった要因の1つだといわれています。

2番目の妻「こと」と結婚

この頃に2番目の妻「こと」と結婚し、三女・お栄、四女・お猶、次男・崎十郎を授かります。

三女のお栄は特に北斎の才能を受け継いでおり、のちに葛飾応為という絵師となります。美人画においては北斎以上、「おんな北斎」とも言われていたそうです。

お栄は一度結婚するも同じ絵師である夫の絵が自分よりもヘタだと言ったことが原因で離婚。離婚後は北斎と一緒に暮らします。北斎と同じく片付けが嫌いで散らかるたびに引越していたそうなので、北斎の引越し回数が多い原因の1つはお栄なのかもしれません。

絵を描く気違い「画狂人」

この時期も相変わらずお金には困っていて、生計を立てるために浮世絵や美人画だけでなく読本(よみほん)の挿絵から武者絵、相撲画など手当り次第に絵を描いていたそうです。

そんな自分を「絵を描く気違い」と称して「画狂人」という画号も使っていました。異常にすら見える画に対する貪欲さ、執着心はまさに「画狂人」ですね。

読本(よみほん)とは
会話文主体で内容が簡単な滑稽本や草双紙とは違い、文学性が高い読み物です。高価だっため、多くの庶民は貸本屋で読本を読んでいたそうです。

1804年 – 45歳「美人画、読本絵で一世を風靡」

「二美人図」部分

のちの重要文化財「二美人図」を発表

文化元年(1804年)、のちに重要文化財となる「二美人図」を発表します。宗理を名乗っていた頃に描いていたスラリとした美人図とは違い、ふくよかな色気が表現されているのが特徴です。

読本絵師として一世を風靡

この頃になると北斎は本格的に読本の挿絵を手掛けるようになり、曲亭馬琴(きょくていばきん)や十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)といった読本作家とともに多数の読本を刊行します。

寛政の改革(1787年~1793年)の影響で読本が流行していたこともあり、北斎の斬新な構図の挿絵はたちまち評判になります。

パフォーマンス・アートで人々を驚かせる

この頃から北斎は積極的にパフォーマンス・アートも行うようになります。文化元年(1804年)には、江戸護国寺の観世音開帳で120畳(縦約18メートル、横約11メートル)の紙に即興で巨大な達磨を描くというパフォーマンスを行いました。

また、米粒に2羽の雀を描いてみせたり、徳川第11代将軍・家斉の御前で横長の紙に藍色の線を引き、その上に足の裏に紅をつけた鶏を走らせた足跡を紅葉に見立て「竜田川にございます」と言い放ち一同を唖然とさせたり、突飛なエピソードには事欠きません。

評判を広めるためにやっていたのかもしれませんが、北斎の性格から察するに人々が驚く様子が面白くてやっていたのではないかと思います。

1807年 – 48歳「曲亭馬琴宅に居候」

文・馬琴、絵・北斎の『新編水滸画伝』部分

葛飾北斎、曲亭馬琴宅に居候

文化3年(1807年)の春から夏にかけて、北斎は馬琴宅に居候して挿絵を作成していました。ただこの居候生活は長くは続きません。というのも、2人とも頑固な性格で、さらに北斎が馬琴の指示どおりに挿絵を描かなかったりして喧嘩が絶えなかったためです。

そんな二人でしたが、知人にお互いのことを話すときは褒めちぎっていたという逸話もあります。お互いにプロとしての実力は認め合っていたのかもしれませんね。

1810年 – 51歳「弟子200人以上。絵手本に制作に傾注」

『北斎絵手本集成』

全国200人以上の弟子のために絵手本制作

文化7年(1810年)、この時点で北斎の弟子は全国に200人以上、当時の浮世絵界で最大勢力の歌川派に匹敵する人数でした。

北斎は全国200名以上の弟子に直接教えることが難しくなってきたため、江戸時代の通信教育ともいうべき絵手本の制作を始めます。

後に国内だけでなく、海外にも大きな影響を及ぼす「北斎漫画」の制作はここから始まったといわれています。

1812年 – 53歳「馬琴と絶交、名古屋へ逗留」

文・馬琴、絵・北斎の『椿説弓張月』

曲亭馬琴と絶交する

文化8年(1812年)、北斎はこれまでに数多くの作品をともに作ってきた曲亭馬琴と絶交します。

絶交の原因は、この年に刊行を予定していた「占夢南柯後期(ゆめあわせなんかこうき)」の制作中、馬琴が挿絵について登場人物の口に草履をくわえさせるように指示を出したところ、北斎は「誰がこんなに汚い草履を口にするか。そんなに言うなら、あんたがまず咥えたらどうだ」と言い放ち、馬琴を激怒させたからだそうです。

もともと喧嘩が絶えなかった二人ですが、これが決定打になったようです。

名古屋に逗留、300点以上のスケッチを描く

曲亭馬琴と絶交した同年。北斎は関西旅行に行く途中、弟子であり尾張藩士である牧墨僊(まきぼくせん)宅がある名古屋に半年間逗留し、300点以上のスケッチを描きます。

この時に描いたスケッチが名古屋の版元(出版社)である永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう)の目にとまり、のちに北斎漫画として刊行されることになります。

ちなみに当時、北斎は

もう江戸には帰らない。ここが自分の死に場所

と言うほどに名古屋を気に入っていたようです。

絵手本「略画早指南 前編」を刊行

「略画早指南」

この年にはコンパスや定規を使って簡単に絵を描く方法を解説した絵手本「略画早指南 前編」(りゃくがはやおしえ)を江戸の版元である角丸屋甚助(かどまるやじんすけ)から刊行します。

江戸時代のコンパス

江戸時代の北斎も絵を描く際にはコンパスや定規を利用することがあったそうです。現代の漫画家のようですね。コンパス自体は寛永元年~寛永20年(1624~1643年)に南蛮人によって日本に伝わったとされ、「ぶんまわし」という名前で測量や製図に用いられていました。
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