1814年 – 55歳「北斎漫画、初編刊行」
北斎漫画の初編が刊行、ベストセラーに
文化11年(1814年)、庶民の様々な表情や生活風景、動植物のスケッチを収めた北斎漫画の初編を名古屋の版元である永楽屋東四郎から刊行します。
単なる絵の教本ではなく、町人が割り箸を鼻の穴に突っ込んで変な顔をしていたり、ロウソクを鼻息で懸命に吹く顔など、北斎のユーモアが詰まった内容でベストセラーとなります。
その後、北斎漫画は続編が北斎没後までも刊行され続け、最後となる第15編は明治11年(1878年)になってから刊行されました。まさに世代を超えた作品といえるでしょう。
絵手本「略画早指南 後編」を刊行
この年には「略画早指南」の後編も刊行しています。後編ではひらがなや簡単な漢字などの文字を利用して絵を描く方法などを解説した内容でした。
1817年 – 58歳「再び名古屋へ」
名古屋の「だるせん」
文化17年(1817年)、北斎は再び大好きな名古屋を訪れます。一説には初編を刊行した北斎漫画の宣伝活動の一環で訪れたと言われています。
10月5日、名古屋市大須の西本願寺掛所(現在の本願寺名古屋別院)。北斎は江戸で行った大達磨を即興で描くパフォーマンス・アートを再び行います。これが大変な話題となり北斎は名古屋では「だるせん」(だるま先生の略)というあだ名で親しまれるほどになります。
このときの様子は、尾張藩士の高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)が書き留めた「北斎大画即書細図」に画材から当時の賑わいの様子まで絵とあわせて詳細に記載されています。
2017年には、この資料をもとに本願寺名古屋別院で当時と同じ材質の筆や紙を用いてパフォーマンス・アートを再現するイベントが行われました。
現代の人が見ても圧巻のパフォーマンスを江戸時代にやってのけた北斎はパフォーマーとしても一流だったんですね。
1823年- 64歳「富嶽三十六景の制作開始」
富嶽三十六景の制作開始
文政6年(1823年)、北斎は後の代表作となり世界にも多大な影響を与える「富嶽三十六景」の制作を始めます。
名古屋旅行の際に立ち寄った東海道五十三次の宿場から見える富士をスケッチし、何年もかけて構想を練っていたという話もあるので、並々ならぬ想いをこめて制作していたのだと思います。
この頃には娘であり、のちに美人画では北斎に「天才」と言わせるほどの絵師となる「お栄」が離縁、出戻りし、富嶽三十六景の制作を手伝っていたと言われています。
一筆画譜が大ヒット
富嶽三十六景の制作を開始したその年に、北斎は「一筆画譜(いっぴつがふ)」という絵手本を北斎漫画の時と同じ名古屋の版元である永楽屋東四郎から刊行します。
武士や子供などの人物、鳥や亀、猫などの動物などを一筆で書く方法が100以上のスケッチで解説された内容で、北斎漫画に通じる軽妙さ、可愛さ、ユーモアにあふれた作品でこれまた大ヒットとなります。
刊行のきっかけは、北斎が名古屋を訪れたときに見た文人画家・福善斎(ふくぜんさい)が描いた一筆画を大変気に入り、このまま埋もれさせるのは惜しいと思ったからといわれています。
1826年- 66歳「北斎とシーボルト、出会う」
絵を値切られ怒る北斎
文政9年(1826年)、オランダ商館長と付添いのシーボルトが北斎のもとを訪れ、絵を依頼した時の逸話は有名です。
オランダの商館長は絵の代金150金を支払いましたが、シーボルトは「薄給なので半額の75金にしてほしい」と値切ります。
北斎は
「なぜそれを初めに言わないのか。知っていれば同じ絵でも彩色などを抑えて半額で描いたのに。これで半額で売ってしまっては商館長に高値を請求したことになり心苦しい」
と怒り絵を売りませんでした。
絵を持ち帰った北斎は妻に「貧乏なんだから半額でも売ったらよかったのに」と言われますが「貧乏は承知だが、約束を違えた外国人に対して、日本人は人によって売値を変えると笑われたくなかった」答えたそうです。
その後、この話を知ったオランダ商館長は感心し、残りの絵も150金で買取ってオランダに持ち帰ります。そうして持ち帰られた絵がきっかけとなり、オランダ人からたくさんの依頼がくるようになったといわれています。
ちなみにこの2年後、シーボルトは伊能忠敬の日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し国外追放(シーボルト事件)となります。
シーボルトの北斎コレクションは、のちに自ら刊行する自著「NIPPON」(1832~1851年)にも掲載されていたり、2016年にはシーボルトが持ち帰ったとみられる北斎が描いた西洋画がオランダのライデン国立民族博物館で見つかったりしています。
北斎が描いた西洋画を見ると、北斎は西洋画も深く研究し理解していたことがひと目で分かり、あらためて北斎の天才ぶりを感じることができます。
1827年- 67歳「脳卒中で倒れる」
脳卒中になるも自家製の柚子薬で回復
文政10年(1827年)、北斎は脳卒中で倒れますが、柚子で作った自家製の薬を服用することで回復したと言われています。
柚子の皮の白い綿部分に含まれるヘスペリジンというポリフェノールは、毛細血管を強くしたり血液のめぐりを改善する効果があるそうなので、あながち間違ってない処方だったようです。
孫の悪事の尻拭いに追われる
この頃になると、娘・お美代の孫が遊び呆けるようになり悪事を繰り返しては北斎が尻拭いをしいたそうです。
北斎が75歳のときには、その孫が博打にハマって借金取りに追われた挙げ句、裁判に負けて親戚を頼りに浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に一時身を隠さざるを得なくなったというエピソードもあります。
当人は笑い事ではなかったのかもしれませんが、奇人とも言われる北斎が孫に手を焼いたという普通の人間らしい一面が垣間見えるエピソードですね。
2番目の妻「こと」、他界
文政11年(1828年)、2番目の妻「こと」が亡くなります。この時を境に北斎は美人画を描くことがなくなりました。一説には美人画のモデルは妻の「こと」だったのではないか、といわれています。
もしそうだとすると、北斎にも「妻が大好き」という可愛い一面があったのかもしれませんね。
1831年- 72歳「富嶽三十六景、発表」
行楽ブームで富嶽三十六景は大ベストセラー
江戸時代後期のこの時期は、経済発展にともなって人の往来が盛んになり、行楽や旅行を楽しむブームが到来します。
庶民が「どこかへ行きたい」と思い始めているときに富嶽三十六景が発表され、もちろん大ベストセラーとなりました。
荒波の中や鳥居の奥、大きな丸い桶の中など、さまざまに趣向をこらした富士の配置と、それを取りまく庶民の生活がリアイリティを持って描かれ、「北斎といえば富士、富士と言えば北斎」とまで称賛されました。
あまりの人気に10図を追加し、最終的には富嶽三十六景は46図となります。
みなが愛した北斎ブルー
富嶽三十六景の初版の10図はベロ藍(べろあい)と呼ばれる染料を用いて青一色の濃淡のみで刷られました。この美しい青は、のちに「北斎ブルー」と呼ばれ、江戸の庶民だけでなくゴッホなど海外の芸術家にも称賛されることになります。
ちなみに初版10図以降は徐々に色を増やしながら刷られていきました。これは版元の「庶民が飽きないようにするための戦略」だったという説があります。
江戸時代にも現代のマーケティングのようなことを考える人たちがいたんだ、と改めて思わせる逸話です。
広重を奮い立たせた富嶽三十六景
この当時、歌川広重も「東都名所」という自信作の風景画を発表しますが北斎の「富嶽三十六景」に評判を取られ、売れゆきはいまひとつでした。これに触発されて風景画の研究、研鑽を重ね「東海道五十三次」を発表するにいたったと言われています。
この頃から北斎と広重はライバルとして技術やセンスを競い合うことになります。
百物語を発表、大流行
富嶽三十六景の初版が発表されたのと同じ年に、北斎は怪談話をテーマにした「百物語」を発表します。実際には100作品あるわけでなく5作品ですが、これまた大流行します。
この頃の北斎は何か発表すれば当たる、というフィーバー状態だったようです。
1833年- 74歳「広重「東海道五十三次」発表」
東海道五十三次、空前の大ヒット
天保4年(1833年)、富嶽三十六景がベストセラーとなった影で風景画の研究を重ねた広重の傑作「東海道五十三次」が発表されます。
日本の五街道の一つとして有名な東海道の宿場をテーマにしたシリーズで、行楽ブームという追い風もあり、富嶽三十六景を超えんばかりの大ヒットを記録します。
北斎の人気に陰りが。版画から肉筆画へ
広重の「東海道五十三次」の発表と同じ年、北斎も「諸国瀧巡り」や「千絵の海」などの名作を発表しています。けれども世間の話題は若い天才絵師・広重に移り、北斎の人気に陰りが見え始めました。
その後、風景画だけでなく花鳥画でも競い合うようになり、テクニックの北斎と抒情のある画風の広重という構図で火花を散らしますが、庶民に評価されたのは広重でした。
そんな中、天保5年(1834年)に北斎は富嶽三十六景からのシリーズである富嶽百景を発表します。北斎は富嶽百景のあとがきでこう述懐しています。
私は6歳の頃から物の姿を絵に移してきた。50歳の頃から随分たくさんの絵や本を出したが、ようやく考えてみると70歳までに描いたものにはろくな絵はない。73歳になってどうやら鳥や獣、虫や魚の本当の形とか、草木の生きている姿とかが分かってきた。だから80歳になるとずっと進歩し、90歳になったらいっそうう奥まで見極めることができ、100歳になったら思い通りに描けるだろうし、110歳になったらどんなものも生きているように描けるようになろう
この富嶽百景の発表を境に北斎は作品の軸を浮世絵から肉筆画へ移していきます。富嶽三十六景や富嶽百景などの大作を発表し、一区切りつけて次の境地に向かう決意を語ったのかもしれませんね。
この年齢になっても、自ら確立した風景版画というジャンルを捨て、新たなジャンルへ前進し続けられる能力が、北斎が偉大な画業を残せた要因の一つなんだと思います。
天保の大飢饉
天保3~7年(1833~1827年)には天保の大飢饉が起き、江戸中でも餓死者が続出する状態となりました。世の中は徐々に浮世絵どころではなくなっていきます。
北斎は肉筆画の画帳を紙草紙屋(当時の本屋)に並べてもらい、飢えをしのいでいたそうです。
1839年- 80歳「生涯初めて火事にあう」
80歳にして初めての火事
天保10年(1839年)、北斎は生涯で初めて火事にあいます。常に引越しをし続けていたためか、火事が多かった江戸時代に80歳まで火事にあわなかったのはむしろ「奇跡的」だと言われています。
北斎は火事によって春朗と名乗っていた10代の頃から約70年間描き溜めたスケッチや資料を焼失します。また、家財道具の一切が焼失してしまったため、火災直後は徳利を割って底の部分を筆洗いに、破片をパレットにしていたそうです。
1842年- 83歳「2度目の脳卒中に倒れる」
日課の「獅子の略奪画」で奇跡の回復
天保13年(1842年)、北斎は生涯で二度目となる脳卒中に倒れます。
利き手が使えなくなる可能性もありましたが、「日新除魔(にっしんじょま:日を新たに魔を除く)」として「獅子の略奪画」を描くことを日課としました。その祈りが通じたのか脳卒中から奇跡的に回復したと言われています。
この頃の北斎は、弟子が長旅をする際には現地の特産品などの写生を依頼するなど、なおも絵に対する探究心は衰えていなかったそうです。
1849年- 90歳「永眠」
数え90歳で永眠
嘉永2年(1849年)、肉筆画「富士越龍図(ふじこしのりゅうず)」を描くものの体調を崩し、床に伏せます。そして同年5月10日、浅草の聖天町・遍照院境内の長屋にて永眠します。数え90歳の生涯でした。
貧乏だった北斎でしたが葬儀は友人や門人がお金を出し合い、立派に執り行われたと言われています。
辞世の句は「ひと魂でゆく気散(きさん)じや夏の原」。「死んだ後は人魂(ひとだま)になって夏の草原をのびのびと飛んでゆこう」という意味で、百物語などの妖怪なども描いてきた北斎のユーモアセンスが感じられる句です。
臨終の言葉
北斎は臨終の際にこう言い残したと言わています。
天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら、天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵師になることができるだろう
最後の最後まで現状に満足しなかった、北斎の絵に対する執念が伝わってくる言葉です。
富士越龍は葛飾北斎自身
「富士越龍図」は北斎の生涯最後の作品といわれています。富士山をモチーフにした北斎らしい構図で、富士から立ちのぼる黒煙の中に天へ昇っていく龍が描かれています。この龍は絵師としてさらに上を目指していく北斎自身を描いたものだとする説が有力です。
永眠の3ヶ月前に描かれたとは思えない意欲溢れる作品で、生涯の最後の最後まで絵を極めようと上を目指し続けた北斎の生涯を表しているかのようです。
1856年- 没後7年「ジャポニズム、起こる」
「ホクサイ・スケッチ」でジャポニスムが起こる
安政3年(1856年)、フランスの銅版画家フィリックス・ブラックモンは友人の印刷工房で日本から送られてきた陶磁器の梱包に使われている北斎漫画を見つけます。
これがきっかけでヨーロッパではジャポニスムが起こり、北斎漫画は「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれ大ベストセラーとなります。
北斎の作品は日本だけにとどまらず、ゴッホやモネ、ドガといった印象派の画家たちに大きな影響を与えました。
葛飾北斎に影響を受けた世界のアーティストたち
印象派のドガが描いた「踊り子たち・ピンクと緑」という作品は北斎漫画11編に収録されている力士の構図を参考に描かれたと言われています。
作曲家のドビュッシーは富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」から影響を受けて交響曲「海」を作曲したとされ、本人の希望で初版譜面の表紙に「神奈川沖浪裏」を使用したそうです。
人魂となった北斎は名古屋で大達磨を描いた時のように、北斎の作品に驚く世界の人々の姿を楽しんでいるのかもしれませんね。
葛飾北斎の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
葛飾北斎伝
葛飾北斎に関する唯一の伝記といわれ、現在世間に出回っている逸話のほとんどがこの本からきています。
明治時代に出版された書籍のため文章が読みづらい部分はあるものの、北斎没後40年で北斎のことを知る人たちから取材した内容も盛り込まれているため、1番詳細かつ正確な内容の本とされています。
もっと知りたい葛飾北斎―生涯と作品
北斎の生涯を代表作を交えながら順を追って書かれている本です。カラーの資料も掲載されていてとても読みやすく、分かりやすい内容のため、こかから北斎についてもっと知りたいと思っている方には最適な本です。
百日紅
葛飾北斎と娘のお栄を中心に江戸の庶民の生活を描いた漫画です。漫画なので北斎やその周りの人達、当時の様子などがイメージしやすく、他の書籍を読む前に一読しておくと読書がよりはかどるのでおすすめです。
上記以外にも葛飾北斎の伝記・作品・漫画を以下の記事で紹介しています。
葛飾北斎をよく知れるおすすめ本・書籍6選【伝記・作品・漫画を紹介】
おすすめ映画
北斎漫画
北斎と娘のお栄、友人の曲亭馬琴との交流を描いた映画作品です。戯作家の矢代静一の戯曲を映画化したもので、史実とは違う箇所も多々ありますが、北斎を想像する一つの参考として見れる作品です。
ちなみに映画タイトルの「北斎漫画」となっていますが、映画の内容は北斎漫画とはあまり関係ありません。
百日紅 ~Miss HOKUSAI~
北斎の娘・お栄(葛飾応為)を主人公にしたアニメ映画作品です。特に事前の知識がなくても江戸の暮らしを想像しながら見れます。またアニメならではの妖怪画の表現などもあり、これから北斎の作品に触れる際の想像を掻き立ててくれること間違いなしです。
おすすめドラマ
眩(くらら)~北斎の娘~
北斎の娘であり、北斎とともに暮らし、北斎の臨終を看取ったお栄(葛飾応為)が主人公のドラマ作品です。主人公のお栄は宮崎あおいさんが演じています。北斎は主人公ではないですが、北斎という人物を違った角度から見れ、特に当時の北斎たちがどういった生活を送っていたのかイメージができるドラマです。
関連外部リンク
終わりに
筆者自身、絵を描くことが好きで、北斎の作品も中学生の頃から好きでした。展示会に行って絵を見る機会も何回もあったのですが、今回の記事にあるような北斎の人となりや生涯についてはあまりよく知りませんでした。
今回、北斎の人生を改めて深掘ることで、北斎のような狂人レベルまではいかないまでも「まだまだ自分も頑張らないとな、好きなことにもっと打ち込もう」というモチベーションが湧いてきました。
本記事を読んだ方にも、そういったプラスの影響が少しでもあれば幸いです。
すごくわかりやすかったです
ありがとうございました