「イエズス会って何?」
「イエズス会っていつからあるの?」
「日本とイエズス会のかかわりは?」
このページを訪れた皆さんはこのような疑問を持っているかもしれません。
イエズス会とは、1534年にイグナティウス・ロヨラら7人がたてた「モンマルトルの誓い」に基づいてつくられた男子修道会です。
ルターに始まる宗教改革で、プロテスタントの勢いが強まると、宗教改革に対抗するためローマ教皇を中心とするカトリック勢力の中から、教皇に忠誠を誓う新しい修道会が生まれました。それが、イエズス会です。
イエズス会はヨーロッパのみならず、海外で熱心にキリスト教を布教しました。なかでも、7人の発起人の一人であるフランシスコ・ザビエルはインドから日本にわたり、東洋布教の礎を築きます。やがて、日本や世界各国でイエズス会の布教が禁止され、一時は解散に追い込まれました。しかし、ナポレオン戦争後に復活して現在に至っています。
今回は、イエズス会創設の背景となった宗教改革やイエズス会の歴史、イエズス会が戦国日本でおこなった布教などについて解説します。
イエズス会とは?
イエズス会は、宗教改革に対抗する対抗宗教改革の中でうまれた男子修道会です。イエズス会の目的は、世界各地で教皇を中心とするカトリックを布教することです。彼らは神と教皇の戦士としてカトリックの伝道に努めました。
1534年に、イグナティウス・ロヨラによって創設されたイエズス会は、宗教改革でプロテスタントが優位になったドイツに赴き、カトリック勢力の立て直しに努めます。
それだけではなく、スペインやポルトガルの海外植民地や中国に修道士を派遣することでカトリックの布教に努めます。しかし、活動範囲が広がるにつれ他の修道会や布教先の政府と衝突するようになりました。
そのため、日本では江戸幕府によって、中国では清の康熙帝・雍正帝によってイエズス会の活動は制限され、やがて布教が禁じられます。また、大きくなりすぎたイエズス会は、ヨーロッパ各国の君主にとって邪魔な存在となりました。そして、1774年、イエズス会解散の圧力に屈した教皇クレメンス14世がイエズス会を解散させます。
ナポレオン戦争後の1814年、イエズス会は復活しました。現在、イエズス会の本部はローマに置かれ、カトリック最大の修道会として存在しています。教育にも熱心で、各地にイエズス会の学校を設立しました。
イエズス会をはじめとする修道会とは?
西ヨーロッパのキリスト教世界で、修道院は教会と並ぶ信仰の場でした。教会が一般信徒のための祈りの場だとすれば、修道院は禁欲的な共同生活を送る修道士たちの祈りの場です。
修道士たちは人里はなれた場所で修行生活を送ります。イエスの福音に従う修道士たちは、俗界をはなれ、家族ともはなれた修道院で、修道士たちは聖書の筆写や聖書研究に必要な古典の研究を行いました。
各修道会は戒律を定めて修行します。たとえば、6世紀に始まったベネディクト派の修道会では「祈り、かつ働け」のモットーのもと、清貧・純潔・服従を美徳とする厳しい禁欲生活をおくりました。
代表的な修道会はベネディクト会、フランシスコ会、ドミニコ会、シトー会、ラ・サール会などがあります。今回紹介するイエズス会も、こうした修道会の一つとして作られました。
イエズス会ができるきっかけとなった宗教改革
ルターがはじめたドイツの宗教改革
16世紀の前半、ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授だったルターはローマ教会が資金集めのために行っていた贖宥状(しょくゆうじょう)の販売に疑問を持ちます。聖書には、贖宥状で罪が許されるなどと書いていなかったからです。
ルターはヴィッテンベルク城の教会の扉に「九十五カ条の論題」とよばれる公開質問状を貼り付けました。これが、宗教改革の始まりです。
ルターの発言はローマ教皇やドイツを支配する神聖ローマ皇帝によって否定されました。しかし、ザクセン選帝侯をはじめとする北ドイツの有力諸侯たちはルターを支持したため、ドイツでは激しい宗教戦争がおきました。
宗教改革後、ローマ教皇を中心とする従来のキリスト教徒をカトリック、ルターをはじめとする聖書中心主義のキリスト教徒をプロテスタントとよぶようになります。
カルヴァンらがおこなったスイスの宗教改革
ドイツで宗教改革が行われていたころ、スイスにツヴィングリという人物が現れました。ツヴィングリはルターの考えを支持し、ルターよりも厳しい改革を行うべきだと主張します。ツヴィングリは聖像や聖なる絵、修道会制度、教会の儀式などあらゆるものを廃止すべきと主張しました。
1523年にチューリヒ市がツヴィングリの主張を受け入れると、スイス各地でツヴィングリ派とカトリックが激しく対立し、スイスは内戦状態となります。激しい戦いの中、ツヴィングリはカッペルの戦いで戦死しました。
ツヴィングリにかわってスイス宗教改革の中心となったのがカルヴァンです。カルヴァンはジュネーヴ市で実権を握ると厳格な教会改革や政治改革を実行しました。カルヴァンの教えはスイスだけではなくオランダやフランス、イギリスに広がります。
カトリック側がおこなった対抗宗教改革
ルターやカルヴァンらの活動によって、北欧諸国や北ドイツ、ネーデルラント(特に北部のオランダ)、イギリスではプロテスタントが優勢となります。ローマ教皇を中心とするカトリック側は、教皇庁や教会の在り方を抜本的に見直す改革をすすめました。これを対抗宗教改革といいます。
16世紀の中ごろに在位した教皇パウルス3世は、改革派を枢機卿(すうききょう:教会の中心となる高位聖職者)に登用して教会改革をおこないます。パウルス3世は1545年に南チロルのトリエントで宗教会議を開催し、教義の再確認などをおこないました。
トリエントの宗教会議では、聖書の解釈は教会が行うべきことや、信仰は教会のよる洗礼などの儀式を経て有効になること、儀式は教会の聖職者が行うべきであることなどを確認します。
その上で、ローマに宗教裁判所を設置するなどトリエントの宗教会議で確認されたカトリック教義に反する教会批判を取り締まることとしました。
イエズス会における有名な宣教師
フランシスコ・ザビエル
フランシスコ・ザビエルは1506年頃にバスク地方のハビエル城に生まれました。ハビエル城はスペイン北部にあったナヴァラ王国に属する城で、ザビエルはハビエル城近辺を治める地方貴族の子です。
1525年にパリ大学に入学したザビエルは、ファーブルやロヨラといったモンマルトルの誓いを行うことになる同志たちと出会います。同郷のロヨラの影響を強く受けたザビエルは、ロヨラとともにイエズス会を立ち上げました。
世界でカトリックを布教しようと考えていたイエズス会に、ポルトガル王ジョアン3世から東洋に宣教師を派遣してほしいという依頼が入りました。これに応じて東洋に向かったのがザビエルです。
日本に到着したザビエルは山口の戦国大名大内氏の協力を得ることに成功したのち、態勢を整えるため東洋での活動拠点であるインドのゴアに戻ります。
ザビエルが日本の次に目指したのは中国です。当時、中国は明王朝の支配下にありました。ザビエルは自ら明に乗り込み布教を図ります。ところが、明国政府はなかなかザビエルの入国を認めません。そうこうしているうちにザビエルは病にかかり亡くなってしまいました。
ザビエルの遺体はゴアに運ばれ、ボム・ジェズ教会に安置されました。その後、1614年に右腕を斬り落とされ、右腕はローマのジェズ教会に運ばれて現在に至ります。
マテオ・リッチ
ザビエルの目指した中国布教は、マテオ・リッチをはじめとするイエズス会宣教師たちによって徐々に進められました。マテオ・リッチは16世紀後半から17世紀初めにかけて、明国での布教に成功したイエズス会宣教師です。
イタリア出身のマテオ・リッチは日本で天正遣欧使節を派遣することに成功していたヴァリニャーニの求めに応じて中国布教を担当します。このとき、ヴァリニャーニは現地の習慣を重んじる布教方法を行わせます。
マテオ・リッチは中国に溶け込むため、修道士としての衣装ではなく儒者の服を着て中国布教を行いました。
また、マテオ・リッチは西洋の先進的な科学技術を明にもたらします。ユークリッド幾何学の漢訳である『幾何原本』や是改善図である『坤輿万国全図』は、マテオ・リッチによって明にもたらされたものでした。
中国文化を理解し、高い知性と品格を持っていたマテオ・リッチは中国人知識人(士大夫)の尊敬を集め、徐光啓などはマテオ・リッチに私淑してキリスト教徒になります。マテオ・リッチの布教方針はアダム・シャールやカスティリオーネらに引き継がれました。
ジュゼッペ・キアラ
ジュゼッペ・キアラはイタリア出身のイエズス会宣教師です。鎖国中の日本に潜入してキリスト教の布教をしようとしましたが、1633年に長崎で捕らえられます。
日本では鎖国令が強化された直後で、キリシタン弾圧が激しさを増していたころ合いでした。キアラが捉えられる前には天正遣欧使節の一人である中浦ジュリアンやポルトガル人のイエズス会士フェレイラも捕らえられていました。
捕らえられたキリスト教徒は拷問にかけられキリスト教を捨てよと迫られます。フェレイラとキアラは拷問に耐えかねてキリスト教を放棄しました。一方、中浦ジュリアンは最後までキリスト教を捨てず拷問の果てに亡くなります。
フェレイラは沢野忠庵、キアラは岡本三右衛門の日本名を与えられます。彼らはキリスト教を捨てたという意味で「転びバテレン」とよばれました。彼らは「切支丹屋敷」から出ることを許されず、幽閉されたままこの世を去ります。
のちに、作家でキリスト教関連の著作を多数書いた遠藤周作は、ジュゼッペ・キアラをモデルとした小説『沈黙』を発表します。『沈黙』は多くの言語に翻訳され、世界中で読まれる本となります。
イエズス会の歴史
1534年:発起人7人によるモンマルトルの誓い
現在、サクレ・クール寺院があるパリ郊外のモンマルトルの丘には、かつてベネディクト女子修道院がありました。
その敷地内にあったサン・ドニ大修道院教会堂にイグナティウス・ロヨラをはじめとするパリ大学の7人の大学生が集まります。
彼らは教会堂でミサを受けた後、聖地エルサレムへの巡礼や聖地での奉仕、それがかなわないときはどこへでも教皇の命じるところに赴くという誓いを立てました。このモンマルトルの誓いをもってイエズス会の始まりとされます。
イエズス会の中心となったイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルはバスク地方出身です。彼らはプロテスタントの広がりに危機感を抱き、カトリック信仰を守るためには教皇に絶対的に従う組織が必要だと考えイエズス会を創設しました。
1540年:イエズス会の発足
誓いをたてた7人は1537年に教皇パウルス3世によって司祭に叙せられます。翌年、ロヨラはローマに赴き、教皇にイエズス会設立を願います。ローマ教会の枢機卿たちが好意的に反応したため、教皇はイエズス会の発足を正式に認めました。
設立当初、イエズス会の会員は60名までと制限されました。しかし、1543年にはその規制が取り払われます。この時、ロヨラはイエズス会の初代総長に選ばれました。
イエズス会の会憲(会のルール)では、イエズス会が総長をトップとする組織であることや教皇に対する絶対的な服従が明記されます。ロヨラは、イエズス会を「神のより大いなる栄光のために」存在する組織と位置付けました。
発足したイエズス会は、プロテスタントが拡大しつつあった南ドイツやポーランド、オーストリアにおいてカトリック信仰を復興させ、プロテスタントの浸透を阻止します。
1549年:ザビエル来日と日本布教
イエズス会創設者のひとりフランシスコ・ザビエルは、東洋布教のためインドにあるポルトガルの拠点ゴアに行きました。インドやその周辺地域で布教をしていたザビエルは、マラッカでヤジロウ(アンジロー)という鹿児島出身の日本人と出会います。
1549年、ザビエルはキリスト教の洗礼を受けたヤジロウとトーレス神父、フェルナンデス修道士らを伴って日本に向かいます。鹿児島県坊津にたどり着いたザビエル一行は島津貴久から鹿児島での布教許可を得ました。
本格的に日本布教を行いたかったザビエルは、「日本国王」に会うため京都に向かいます。しかし、ザビエルは天皇にも室町幕府の将軍にも会うことができませんでした。
失意のザビエルが訪れたのは戦国大名大内氏の支配する山口です。ここで大内氏から布教許可を得たザビエルは一度、インドに戻ることにしました。その後、ザビエルは中国での布教を目指しますが、志半ばでこの世を去ります。
1587年:豊臣秀吉によるバテレン追放令
ザビエルによって日本布教のきっかけを作ったイエズス会は次々と宣教師を送り込み、日本布教を活発化させます。戦国大名は宣教師たちに布教を許すこととひきかえに、スペインやポルトガルと南蛮貿易を行い、鉄砲や軍需物資を手に入れました。
戦国大名の中で、ひときわ力をつけていたのが織田信長です。信長は仏教勢力に対抗するためイエズス会の布教を認めました。信長が本能寺の変で殺された後、後継者の豊臣秀吉もキリスト教を容認します。南蛮貿易のもたらす利益が欲しかったからです。
秀吉の態度がかわったのは、九州征伐の時に長崎がイエズス会の領土となっていることを知った時でした。秀吉はイエズス会の長崎支配を認めず、宣教師たちを追放する「バテレン追放令」をだします。
しかし、南蛮貿易を重視した秀吉は個人の信仰まで禁止しませんでした。本格的にキリスト教が禁止されたのは徳川家康による禁教令が出されてからになります。以後、日本ではイエズス会はおろか、キリスト教の信仰が禁じられました。
徳川家康やその後の幕府が禁教方針を強めたのはイエズス会の背後にあるスペインが日本を侵略するのではないかという疑惑です。スペイン排除を狙うオランダの画策や島原の乱の影響もあり、幕府はキリスト教を徹底的に禁じました。
1773年:イエズス会の解散命令
イエズス会は日本や東洋だけではなく、スペインやポルトガルが支配した南アメリカでも布教活動を行います。これにより、イエズス会は国境を超えて活動する巨大組織に成長します。
18世紀に入り、ヨーロッパ各国は国王のもとに権力が集中する絶対王政の時代を迎えました。国内統一をすすめたい各国の王にとって、国境を自由に超え、かつ、国王よりも教皇の命令に従うイエズス会の存在は目障りなものとなります。
18世紀にポルトガルがイエズス会の国外追放を決めると、フランス・スペインなどの諸国もイエズス会を国外追放しました。そして、ローマ教皇庁にイエズス会解散の圧力をかけます。
1773年、諸国の圧力に屈したローマ教皇クレメンス14世はイエズス会の解散を命じました。
2013年:イエズス会出身のフランシスコが教皇となる
解散命令後、イエズス会はロシアなどで細々と生き延びます。そして、ナポレオン戦争後の1814年、ローマ教皇庁はイエズス会の復活を許可しました。復活したイエズス会は勢力を取り戻し、現在では20,000人前後がイエズス会の会員となっています。
2013年、教皇ベネディクト16世が高齢を理由に退位すると、次の教皇を決める教皇選挙(コンクラーヴェ)が開かれました。
教皇選挙ではブエノスアイレス大司教のベルゴリオ枢機卿が最多数の票を集め、教皇に選出されました。ベルゴリオ枢機卿は初のイエズス会出身の教皇です。ベルゴリオ枢機卿は教皇名をフランシスコとしました。
イエズス会がおこなった日本布教
織田信長について記録したルイス・フロイス
ザビエルが日本を去った後、ヴィレラが日本布教を引き継ぎました。1565年、ヴィレラとともに布教のため京都に入ったのがルイス・フロイスです。1566年にヴィレラが九州に去ると、ルイス・フロイスが京都布教の中心人物となりました。
このころ、美濃を制圧した織田信長は上洛の機会をうかがっていました。1568年、信長は足利義昭を奉じて入京します。このときから、信長が京都の支配者となりました。
ルイス・フロイスは二条城建設の現場で信長と謁見し、畿内での布教許可を獲得します。信長とすればイエズス会と結びつくことで石山本願寺や延暦寺などの仏教勢力に対抗しようとしていたのでしょう。
ルイス・フロイスは『日本史』という歴史書を書いています。この中で、信長や秀吉の動向や当時の庶民の生活など戦国時代後期の日本について克明に書き残しました。
天正遣欧使節とヴァリニャーニ
16世紀後半になると、イエズス会の東洋布教はより本格的になりました。東洋各地を巡回し、布教活動を監督する巡察師に任命されたのがイタリア人のヴァリニャーニでした。ヴァリニャーニは中国布教の指示を出した後、1579年に来日します。
来日したヴァリニャーニは大友宗麟、高山右近、織田信長と相次いで謁見します。ヴァリニャーニは日本布教をもっとすすめるためには日本人の司祭が必要だと考えました。そのため、神学校であるセミナリオや宣教師養成施設であるコレジオを各地に設けます。
また、ヴァリニャーニは九州のキリシタン大名に働きかけローマに使節を送ろうとしました。これが天正遣欧使節です。使節として選ばれたのは伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名です。
天正遣欧使節の4人はローマで教皇グレゴリウス13世と謁見し、スペイン王フェリペ2世などカトリック諸国の有力者にも謁見しました。天正遣欧使節は1591年に帰国しますが、徳川幕府による禁教政策のため日本で十分な布教活動はできませんでした。
伊東マンショは長崎で死去し、原マルティノは追放先のマカオで亡くなります。中浦ジュリアンは日本にとどまり最後まで信仰を捨てなかったため長崎で処刑されました。
ただ一人、千々石ミゲルは1601年にキリスト教の信仰を捨てると表明しイエズス会から除名されます。その最期は、よくわかっていませんでしたが近年、墓所と思われる石碑が発見され話題となりました。
イエズス会が日本に設置した教育機関
徳川幕府の禁教政策のため、イエズス会に限らず全ての宣教師たちは日本から追放されました。宣教師たちが日本に戻ってくるのは鎖国が解かれた明治時代になってからです。
イエズス会が日本に戻ってきたのは明治の終わりごろにあたる1908年です。ローマ教皇ピウス10世の要請を受けたイエズス会は、3人のイエズス会士を日本に派遣し上智大学を設立します。上智大学は1928年には大学令により正式な大学となりました。
第二次世界大戦後、上智大学に隣接する場所に聖イグナチオ教会がつくられます。イグナチオとは、イエズス会創設者のイグナティウス・ロヨラに由来します。
上智大学のほかにも、神戸の六甲学院中学・高等学校や鎌倉の栄光学園中学校・高等学校、広島の広島学院中学校・高等学校などの学校もイエズス会を設立母体とつくられました。
現代のイエズス会の活動
絶対王政による圧力や解散にもめげず、イエズス会は現在も20,000人の会員を擁する修道組織として存在しています。
イエズス会は現在も国際的な布教と教育活動に熱心に取り組んでいます。アメリカのジョージタウン大学やボストンカレッジ、シアトル大学、ラテンアメリカのコルドバ・カトリック大学、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学、韓国の西江大学など多数の大学の設立に携わりました。
日本と関連が深い人物がイエズス会の総長に任命されたこともあります。上智大学で教授を務めたペドロ・アルペは28代総長に、アドルフォ・ニコラスが30代総長にそれぞれ任命されています。
ザビエルが来た頃、イエズス会にとって東の端だった日本がイエズス会で重要な役割を担っていることがわかります。
イエズス会に関するまとめ
いかがだったでしょうか?
イエズス会は、16世紀にイグナティウス・ロヨラらによってつくられた男子修道会です。イエズス会設立に背景には、16世紀前半に始まった宗教改革があります。イエズス会設立は、ルター派やカルヴァン派の拡大を防ぐためカトリック側がおこなった対抗宗教改革の一環といえるでしょう。
ザビエルらイエズス会の修道士は戦国時代の日本にやってきたキリスト教を広めます。しかし、国境をまたいで活動し教皇に絶対服従を誓うイエズス会は、絶対王政を打ち立てようとしたヨーロッパ各国の君主にとって邪魔な存在となります。そのため、18世紀後半に解散させられます。
イエズス会とは何か、イエズス会の歴史やイエズス会の日本での布教活動などについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。
長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。