イエズス会とは?歴史や有名な宣教師、日本での布教活動について解説

イエズス会における有名な宣教師

かつて、イエズス会がマカオに建てた聖ポール天主堂のファサード

フランシスコ・ザビエル

ザビエルが生まれたバスク地方のハビエル城

フランシスコ・ザビエルは1506年頃にバスク地方のハビエル城に生まれました。ハビエル城はスペイン北部にあったナヴァラ王国に属する城で、ザビエルはハビエル城近辺を治める地方貴族の子です。

1525年にパリ大学に入学したザビエルは、ファーブルやロヨラといったモンマルトルの誓いを行うことになる同志たちと出会います。同郷のロヨラの影響を強く受けたザビエルは、ロヨラとともにイエズス会を立ち上げました。

世界でカトリックを布教しようと考えていたイエズス会に、ポルトガル王ジョアン3世から東洋に宣教師を派遣してほしいという依頼が入りました。これに応じて東洋に向かったのがザビエルです。

日本に到着したザビエルは山口の戦国大名大内氏の協力を得ることに成功したのち、態勢を整えるため東洋での活動拠点であるインドのゴアに戻ります。

ザビエルが日本の次に目指したのは中国です。当時、中国は明王朝の支配下にありました。ザビエルは自ら明に乗り込み布教を図ります。ところが、明国政府はなかなかザビエルの入国を認めません。そうこうしているうちにザビエルは病にかかり亡くなってしまいました。

ザビエルの遺体はゴアに運ばれ、ボム・ジェズ教会に安置されました。その後、1614年に右腕を斬り落とされ、右腕はローマのジェズ教会に運ばれて現在に至ります。

マテオ・リッチ

マテオ・リッチの肖像画

ザビエルの目指した中国布教は、マテオ・リッチをはじめとするイエズス会宣教師たちによって徐々に進められました。マテオ・リッチは16世紀後半から17世紀初めにかけて、明国での布教に成功したイエズス会宣教師です。

イタリア出身のマテオ・リッチは日本で天正遣欧使節を派遣することに成功していたヴァリニャーニの求めに応じて中国布教を担当します。このとき、ヴァリニャーニは現地の習慣を重んじる布教方法を行わせます。

マテオ・リッチは中国に溶け込むため、修道士としての衣装ではなく儒者の服を着て中国布教を行いました。

また、マテオ・リッチは西洋の先進的な科学技術を明にもたらします。ユークリッド幾何学の漢訳である『幾何原本』や是改善図である『坤輿万国全図』は、マテオ・リッチによって明にもたらされたものでした。

中国文化を理解し、高い知性と品格を持っていたマテオ・リッチは中国人知識人(士大夫)の尊敬を集め、徐光啓などはマテオ・リッチに私淑してキリスト教徒になります。マテオ・リッチの布教方針はアダム・シャールやカスティリオーネらに引き継がれました。

ジュゼッペ・キアラ

調布市に残るキアラの墓碑

ジュゼッペ・キアラはイタリア出身のイエズス会宣教師です。鎖国中の日本に潜入してキリスト教の布教をしようとしましたが、1633年に長崎で捕らえられます。

日本では鎖国令が強化された直後で、キリシタン弾圧が激しさを増していたころ合いでした。キアラが捉えられる前には天正遣欧使節の一人である中浦ジュリアンやポルトガル人のイエズス会士フェレイラも捕らえられていました。

捕らえられたキリスト教徒は拷問にかけられキリスト教を捨てよと迫られます。フェレイラとキアラは拷問に耐えかねてキリスト教を放棄しました。一方、中浦ジュリアンは最後までキリスト教を捨てず拷問の果てに亡くなります。

フェレイラは沢野忠庵、キアラは岡本三右衛門の日本名を与えられます。彼らはキリスト教を捨てたという意味で「転びバテレン」とよばれました。彼らは「切支丹屋敷」から出ることを許されず、幽閉されたままこの世を去ります。

のちに、作家でキリスト教関連の著作を多数書いた遠藤周作は、ジュゼッペ・キアラをモデルとした小説『沈黙』を発表します。『沈黙』は多くの言語に翻訳され、世界中で読まれる本となります。

イエズス会の歴史

イエズス会の本拠地となったジェズ教会

1534年:発起人7人によるモンマルトルの誓い

現在、サクレ・クール寺院があるパリ郊外のモンマルトルの丘には、かつてベネディクト女子修道院がありました。

現在のパリ、モンマルトルの丘

その敷地内にあったサン・ドニ大修道院教会堂にイグナティウス・ロヨラをはじめとするパリ大学の7人の大学生が集まります。

彼らは教会堂でミサを受けた後、聖地エルサレムへの巡礼や聖地での奉仕、それがかなわないときはどこへでも教皇の命じるところに赴くという誓いを立てました。このモンマルトルの誓いをもってイエズス会の始まりとされます。

イエズス会の中心となったイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルはバスク地方出身です。彼らはプロテスタントの広がりに危機感を抱き、カトリック信仰を守るためには教皇に絶対的に従う組織が必要だと考えイエズス会を創設しました。

1540年:イエズス会の発足

イエズス会の初代総長となったイグナティウス・ロヨラ

誓いをたてた7人は1537年に教皇パウルス3世によって司祭に叙せられます。翌年、ロヨラはローマに赴き、教皇にイエズス会設立を願います。ローマ教会の枢機卿たちが好意的に反応したため、教皇はイエズス会の発足を正式に認めました。

設立当初、イエズス会の会員は60名までと制限されました。しかし、1543年にはその規制が取り払われます。この時、ロヨラはイエズス会の初代総長に選ばれました。

イエズス会の会憲(会のルール)では、イエズス会が総長をトップとする組織であることや教皇に対する絶対的な服従が明記されます。ロヨラは、イエズス会を「神のより大いなる栄光のために」存在する組織と位置付けました。

発足したイエズス会は、プロテスタントが拡大しつつあった南ドイツやポーランド、オーストリアにおいてカトリック信仰を復興させ、プロテスタントの浸透を阻止します。

1549年:ザビエル来日と日本布教

17世紀に描かれたフランシスコ・ザビエルの肖像画

イエズス会創設者のひとりフランシスコ・ザビエルは、東洋布教のためインドにあるポルトガルの拠点ゴアに行きました。インドやその周辺地域で布教をしていたザビエルは、マラッカでヤジロウ(アンジロー)という鹿児島出身の日本人と出会います。

1549年、ザビエルはキリスト教の洗礼を受けたヤジロウとトーレス神父、フェルナンデス修道士らを伴って日本に向かいます。鹿児島県坊津にたどり着いたザビエル一行は島津貴久から鹿児島での布教許可を得ました。

本格的に日本布教を行いたかったザビエルは、「日本国王」に会うため京都に向かいます。しかし、ザビエルは天皇にも室町幕府の将軍にも会うことができませんでした。

失意のザビエルが訪れたのは戦国大名大内氏の支配する山口です。ここで大内氏から布教許可を得たザビエルは一度、インドに戻ることにしました。その後、ザビエルは中国での布教を目指しますが、志半ばでこの世を去ります。

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