イエズス会とは?歴史や有名な宣教師、日本での布教活動について解説

1587年:豊臣秀吉によるバテレン追放令

秀吉が出したバテレン追放令

ザビエルによって日本布教のきっかけを作ったイエズス会は次々と宣教師を送り込み、日本布教を活発化させます。戦国大名は宣教師たちに布教を許すこととひきかえに、スペインやポルトガルと南蛮貿易を行い、鉄砲や軍需物資を手に入れました。

戦国大名の中で、ひときわ力をつけていたのが織田信長です。信長は仏教勢力に対抗するためイエズス会の布教を認めました。信長が本能寺の変で殺された後、後継者の豊臣秀吉もキリスト教を容認します。南蛮貿易のもたらす利益が欲しかったからです。

秀吉の態度がかわったのは、九州征伐の時に長崎がイエズス会の領土となっていることを知った時でした。秀吉はイエズス会の長崎支配を認めず、宣教師たちを追放する「バテレン追放令」をだします。

しかし、南蛮貿易を重視した秀吉は個人の信仰まで禁止しませんでした。本格的にキリスト教が禁止されたのは徳川家康による禁教令が出されてからになります。以後、日本ではイエズス会はおろか、キリスト教の信仰が禁じられました。

徳川家康やその後の幕府が禁教方針を強めたのはイエズス会の背後にあるスペインが日本を侵略するのではないかという疑惑です。スペイン排除を狙うオランダの画策や島原の乱の影響もあり、幕府はキリスト教を徹底的に禁じました。

1773年:イエズス会の解散命令

イエズス会を解散させたクレメンス14世

イエズス会は日本や東洋だけではなく、スペインやポルトガルが支配した南アメリカでも布教活動を行います。これにより、イエズス会は国境を超えて活動する巨大組織に成長します。

18世紀に入り、ヨーロッパ各国は国王のもとに権力が集中する絶対王政の時代を迎えました。国内統一をすすめたい各国の王にとって、国境を自由に超え、かつ、国王よりも教皇の命令に従うイエズス会の存在は目障りなものとなります。

18世紀にポルトガルがイエズス会の国外追放を決めると、フランス・スペインなどの諸国もイエズス会を国外追放しました。そして、ローマ教皇庁にイエズス会解散の圧力をかけます。
1773年、諸国の圧力に屈したローマ教皇クレメンス14世はイエズス会の解散を命じました。

2013年:イエズス会出身のフランシスコが教皇となる

イエズス会出身の現教皇フランシスコ

解散命令後、イエズス会はロシアなどで細々と生き延びます。そして、ナポレオン戦争後の1814年、ローマ教皇庁はイエズス会の復活を許可しました。復活したイエズス会は勢力を取り戻し、現在では20,000人前後がイエズス会の会員となっています。

2013年、教皇ベネディクト16世が高齢を理由に退位すると、次の教皇を決める教皇選挙(コンクラーヴェ)が開かれました。

教皇選挙ではブエノスアイレス大司教のベルゴリオ枢機卿が最多数の票を集め、教皇に選出されました。ベルゴリオ枢機卿は初のイエズス会出身の教皇です。ベルゴリオ枢機卿は教皇名をフランシスコとしました。

イエズス会がおこなった日本布教

日本で布教を行うイエズス会士

織田信長について記録したルイス・フロイス

長崎市にあるルイス・フロイスの記念碑

ザビエルが日本を去った後、ヴィレラが日本布教を引き継ぎました。1565年、ヴィレラとともに布教のため京都に入ったのがルイス・フロイスです。1566年にヴィレラが九州に去ると、ルイス・フロイスが京都布教の中心人物となりました。

このころ、美濃を制圧した織田信長は上洛の機会をうかがっていました。1568年、信長は足利義昭を奉じて入京します。このときから、信長が京都の支配者となりました。

ルイス・フロイスは二条城建設の現場で信長と謁見し、畿内での布教許可を獲得します。信長とすればイエズス会と結びつくことで石山本願寺や延暦寺などの仏教勢力に対抗しようとしていたのでしょう。

ルイス・フロイスは『日本史』という歴史書を書いています。この中で、信長や秀吉の動向や当時の庶民の生活など戦国時代後期の日本について克明に書き残しました。

天正遣欧使節とヴァリニャーニ

天正遣欧使節派遣を働きかけたヴァリニャーニ

16世紀後半になると、イエズス会の東洋布教はより本格的になりました。東洋各地を巡回し、布教活動を監督する巡察師に任命されたのがイタリア人のヴァリニャーニでした。ヴァリニャーニは中国布教の指示を出した後、1579年に来日します。

来日したヴァリニャーニは大友宗麟、高山右近、織田信長と相次いで謁見します。ヴァリニャーニは日本布教をもっとすすめるためには日本人の司祭が必要だと考えました。そのため、神学校であるセミナリオや宣教師養成施設であるコレジオを各地に設けます。

ドイツのアウグスブルクで印刷された天正遣欧使節の肖像画

また、ヴァリニャーニは九州のキリシタン大名に働きかけローマに使節を送ろうとしました。これが天正遣欧使節です。使節として選ばれたのは伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名です。

天正遣欧使節の4人はローマで教皇グレゴリウス13世と謁見し、スペイン王フェリペ2世などカトリック諸国の有力者にも謁見しました。天正遣欧使節は1591年に帰国しますが、徳川幕府による禁教政策のため日本で十分な布教活動はできませんでした。

伊東マンショは長崎で死去し、原マルティノは追放先のマカオで亡くなります。中浦ジュリアンは日本にとどまり最後まで信仰を捨てなかったため長崎で処刑されました。

ただ一人、千々石ミゲルは1601年にキリスト教の信仰を捨てると表明しイエズス会から除名されます。その最期は、よくわかっていませんでしたが近年、墓所と思われる石碑が発見され話題となりました。

イエズス会が日本に設置した教育機関

上智大学に隣接する聖イグナチオ教会

徳川幕府の禁教政策のため、イエズス会に限らず全ての宣教師たちは日本から追放されました。宣教師たちが日本に戻ってくるのは鎖国が解かれた明治時代になってからです。

イエズス会が日本に戻ってきたのは明治の終わりごろにあたる1908年です。ローマ教皇ピウス10世の要請を受けたイエズス会は、3人のイエズス会士を日本に派遣し上智大学を設立します。上智大学は1928年には大学令により正式な大学となりました。

第二次世界大戦後、上智大学に隣接する場所に聖イグナチオ教会がつくられます。イグナチオとは、イエズス会創設者のイグナティウス・ロヨラに由来します。

上智大学のほかにも、神戸の六甲学院中学・高等学校や鎌倉の栄光学園中学校・高等学校、広島の広島学院中学校・高等学校などの学校もイエズス会を設立母体とつくられました。

現代のイエズス会の活動

ローマのイエズス会本部

絶対王政による圧力や解散にもめげず、イエズス会は現在も20,000人の会員を擁する修道組織として存在しています。

イエズス会は現在も国際的な布教と教育活動に熱心に取り組んでいます。アメリカのジョージタウン大学やボストンカレッジ、シアトル大学、ラテンアメリカのコルドバ・カトリック大学、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学、韓国の西江大学など多数の大学の設立に携わりました。

日本と関連が深い人物がイエズス会の総長に任命されたこともあります。上智大学で教授を務めたペドロ・アルペは28代総長に、アドルフォ・ニコラスが30代総長にそれぞれ任命されています。

ザビエルが来た頃、イエズス会にとって東の端だった日本がイエズス会で重要な役割を担っていることがわかります。

イエズス会に関するまとめ

いかがだったでしょうか?

イエズス会は、16世紀にイグナティウス・ロヨラらによってつくられた男子修道会です。イエズス会設立に背景には、16世紀前半に始まった宗教改革があります。イエズス会設立は、ルター派やカルヴァン派の拡大を防ぐためカトリック側がおこなった対抗宗教改革の一環といえるでしょう。

ザビエルらイエズス会の修道士は戦国時代の日本にやってきたキリスト教を広めます。しかし、国境をまたいで活動し教皇に絶対服従を誓うイエズス会は、絶対王政を打ち立てようとしたヨーロッパ各国の君主にとって邪魔な存在となります。そのため、18世紀後半に解散させられます。

イエズス会とは何か、イエズス会の歴史やイエズス会の日本での布教活動などについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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