メソポタミア文明とエジプト文明の違い
メソポタミア文明とエジプト文明の大きな違いは、歴史です。
メソポタミア文明とエジプト文明は、ユーフラテス川・ティグリス川流域、ナイル川流域と両方とも川の近くで発展しました。一見すると同じ環境に思える2つの文明の歴史が、なぜ大きく異なったのでしょうか。
その秘密は、地形にあります。
メソポタミアは土地が低く、外敵が入りやすい地形をしていました。そのため、さまざまな民族が入ってきては争い、発展しては滅亡するを繰り返します。結果、複雑で変化の激しい歴史となったのです。
対してエジプトは、外敵が侵入しにくい地形をしていました。敵が入って来なかったため、同じ系統の民族による治世が長く続き、メソポタミアと比べると安定した歴史となったわけです。
メソポタミア文明の始まりから滅亡までの年表
紀元前7000年頃 – 農耕文明の誕生
紀元前7000年頃、栄養がたっぷり含まれたメソポタミア地帯で初期の農耕文明が生まれました。この頃の農業は作物に必要な水を川ではなく、雨に頼った天水農業でした。
ですが、今まで狩猟中心だった生活を農耕に切り替えたことは、人類にとって大きな革命です。この革命は後に、新石器革命と呼ばれます。
メソポタミア地帯で定住生活を開始した人類は、農耕だけでなく羊などの牧畜も行います。さらに土器を使ったり、日干しレンガで住居を作ったりと、少しずつ文化が発達していきました。
紀元前6000年頃 – 灌漑農業の開始
紀元前6000年頃になると、人々は雨水に頼っていた農業を、川から用水路を引くことによって水を確保する灌漑農業へと切り替えます。
最初の灌漑農業は、ティグリス川中流から始まりました。この地域は年間最低降水量が200mm以下と少なかったため、灌漑を行う必要があったのでしょう。灌漑農業によって、大麦の生産量は大幅に上がりました。
そして紀元前5500年頃には、メソポタミア南部で生産量の増加によって大規模な定住化が進み、都市が形成されました。
紀元前3300年頃 – シュメール文明の誕生
紀元前3300年頃、ユーフラテス川下流の左岸にあるウルクを代表に、最初の都市文明が形成されました。
現在のワルカにあるウルク遺跡から見つかった多数の粘土板によると、メソポタミア南部で都市文明を成立させたのはシュメール人と推測されています。
紀元前3000年頃には、シュメール初期王朝が成立し、ウルクやラガシュ、ウルなど二十もの都市国家が形成されました。シュメール人は青銅器や楔形文字を用いて、階段状の神殿ジッグラトやギルガメシュ叙事詩、多神教信仰など数々の文化を生み出します。
紀元前2400年頃 – アッカド王国誕生
紀元前2400年頃、シュメール人からアッカド人へ歴史の中心が動きます。ウルクの北で暮らしていたセム系のアッカド人サルゴン一世がウルクを制服し、アッカド王国を建国しました。
サルゴン一世はシュメールの都市を支配下に置いて、各地に知事を派遣します。都市国家の枠を超えた領域支配を行い、ときに起こったシュメールの反乱を沈め、さらに力を増していきました。
およそ200年ほど、メソポタミアとその周辺を支配したアッカド王国でしたが、紀元前2200年頃に北東の山岳民族の侵攻により、滅亡します。
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紀元前2100年頃 – ウル第三王朝
紀元前2100年頃、アッカド王国が滅び、シュメール人の都市国家が復興しました。
シュメールの王ウル・ナンムがウル第三王朝を建国して、メソポタミアを支配します。ウル・ナンムとその後継者シュルギは財政基盤を整え、常備軍を創設して、中央集権体制をとりました。また、ハンムラビ法典の元となる、ウル・ナンム法典を制定します。
メソポタミアを支配したウル第3王朝ですが、次第にその他の都市国家も力をつけて独立してしまいます。そのようなことが続き、ウル第三王朝は分裂状態になりました。東からはエラム人が攻め入ってきて、西方からはアムル人の移住が急増。
紀元前2000年頃、ついにエラム人によってウル第三王朝は滅ぼされました。その後、南部メソポタミアには国家が乱立します。
シュメール人の生き残りが建国したイシン王国、アムル人のラルサ王国、バビロンにいるアムル人によって成立したバビロニア王国の三つの国が互いに争う時代が始まりました。
紀元前1792〜1750年頃 – 古バビロニア王国ハムラビ王の治世
紀元前1800年頃、三国の争いは終わりました。イシン王国をラルサ王国が滅ぼし、そのラルサ王国をバビロニア王国ハンムラビ王が倒し、メソポタミアを統一しました。
メソポタミア統一を成し遂げたハンムラビ王は、交通網を整備し、法律を定め、国の形を整えます。しかしハンムラビ王が亡くなったあと、東方の山岳民族カッシートの信仰を受けて衰退してしまいます。
国の力が弱まったバビロニア王国は、紀元前1600年頃に小アジアのヒッタイト人から攻撃を受けて滅亡しました。
紀元前1500年頃 – 民族大移動
紀元前2000〜1500年頃は、西アジアに大規模な民族移動の波が押し寄せた時代です。インドのヒッタイト人やカッシート人、ミタンニ人が西アジアへと侵入してきました。この頃のメソポタミアはとにかく変化が激しく、各地で民族同士の衝突がありました。
紀元前1500年頃に古バビロニア王国がヒッタイト人に滅ぼされた理由は、鉄製の武器です。ヒッタイト人は高度な製鉄技術を持っており、それによって圧倒的な軍事力を持っていました。その技術は他の民族を圧倒しており、紀元前1200年頃までヒッタイト人による支配が続きます。
しかし紀元前1200年頃、海の民によってヒッタイト人は滅亡しました。彼らの技術は各地へと広がり、世界帝国を出現させるきっかけとなります。
紀元前1200〜700年頃 – アッシリア帝国
メソポタミア北部で活動していたアッシリアは、インドからもたらされた鉄器文化をいち早く受け入れ、強大な軍事力を手に入れました。
アッシリアの軍事力は、紀元前900年頃の西アジアで最も力を持つ国家の一つとして数えられます。その評価にふさわしく、紀元前700年にはメソポタミアだけでなくエジプトを支配し、オリエントを統一しました。
アッシリア帝国は、西アジア初の世界帝国になったのです。
これにより、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明と呼ばれるようになりました。
紀元前600年頃 – 四国分立時代
圧倒的な軍事力を誇ったアッシリア帝国ですが、紀元前600年頃になると滅亡してしまいます。そして西アジアは再び分裂し、四国分立時代が始まりました。
メソポタミアでは、バビロンを都にしてカルデア人が、新バビロニア王国を成立させます。新バビロニア王国のネブカドネザル王は紀元前600年前半に、パレスチナのユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行しました。この出来事は後に「バビロン捕囚」と呼ばれます。
その後、小アジア西部にはリディア王国が、イラン高原にはメディア王国がそれぞれ独立し、エジプトも再び独立しました。
紀元前400年頃 – アレクサンドロス大王の遠征により滅亡
分裂状態にいた各国ですが、イランでメディア王国に代わって、アケメネス朝が成立すると状況が変わります。アケメネス朝の勢力は強大で、紀元前600年中頃には西アジア全体におよびます。メソポタミアもその影響を受けました。
アケメネス朝も楔形文字など、メソポタミアの文明を吸収します。
メソポタミアの文明はこうして、次の時代へと受け継がれました。しかし、紀元前400年にギリシア人のアレクサンドロス大王の東方遠征よってアケメネス朝は滅ぼされます。
こうして、メソポタミア文明はギリシアの文化に吸収され、忘れられていったのです。
メソポタミア文明に関するまとめ
メソポタミア文明について解説しましたが、いかがでしたか?最後に簡単にまとめたいと思います。
- メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川の間で発展した
- メソポタミア文明は、民族の興亡の歴史
- メソポタミア文明の特徴は、神殿中心の政治と広い交易
- メソポタミア文明では、楔形文字が使われており「ギルガメシュ叙事詩」や「ハンムラビ法典」を記した
古代文明の中でも特に移り変わりの激しかったメソポタミア文明。はるか昔に姿を消した文明ですが、その文化は今の時代に引き継がれているものもあります。機会があれば、ぜひウル遺跡やバビロン遺跡を訪ねてみてください。
この記事をきっかけに、メソポタミア文明について興味を持っていただけましたら幸いです。長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。