「鍋島直正ってどんな人だろう」
「幕末の佐賀藩って長州藩や薩摩藩より地味だけど、何をしたのかな」
鍋島直正は、幕末の佐賀藩主(第10代)です。
幕末、薩長土肥とよばれた4つの藩。その中でも佐賀藩、そして佐賀藩主であった鍋島直正については、薩摩や長州、土佐と比べてあまり知られていないのではないでしょうか。
今回は、佐賀藩第10代藩主・鍋島直正について解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
鍋島直正とはどんな人物か
名前 | 鍋島直正(斉正、閑叟) |
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誕生日 | 1814(文化11)年12月7日 |
没日 | 1871(明治4)年1月18日 |
生地 | 江戸(佐賀藩邸) |
没地 | 東京・永田町 |
配偶者 | 盛姫(徳川家斉十八女)、筆姫(徳川斉匡十九女)、濱、木村矩欽娘 |
埋葬場所 | 春日山御墓所(佐賀県佐賀市) |
鍋島直正の生涯をハイライト
鍋島直正は、1814(文化11)年12月7日に父である佐賀藩主・鍋島斉直と母・桃姫(幸姫)の子として生まれました。
1830(天保元)年、数え年17歳の鍋島直正は、藩主に就任しました。直正は、すぐに佐賀藩財政の厳しさを知ることになります。1835(天保6)年、佐賀城の二ノ丸が失火により焼失する事故がおき、この件を機に直正は、本格的に藩政改革へと乗り出してゆきます。
まず、宿願であった財政改革を行います。債務整理と人員整理、殖産興業を行って藩財政を立て直すことに成功します。ついで、藩校・弘道館を充実させてさかんに人材を育成し、優秀な藩士は江戸や長崎に留学させました。また、長崎警備を重視し、西欧の進んだ技術文明を輸入することにとことんこだわりました。洋式銃や鉄製大砲を自作する技術は、当時日本一の洋式軍隊として脚光をあびます。
幕末、王政復古の大号令がくだると、それまで政局から距離を置いていた佐賀藩は、新政府軍として参戦し、いわゆる「薩長土肥」の一角となり、存在感をあらわしました。
じつは江戸っ子だった直正
鍋島直正は、1815年に江戸の佐賀藩邸に生まれ、そのまま江戸で育ちました。初めて佐賀にお国入りを果たしたのは、藩主に襲封された1830年です。
江戸を発つ際、佐賀藩に代金の支払いをもとめる商人たちが押し寄せます。直正は悪化した藩財政を目の当たりにしますが、この出来事が後世の直正の原点となりました。
高き理想ゆえの現実主義者
直正の性格は、竹を割ったように単純明快で、しかもブレない「現実主義者」でした。直正にまつわる逸話からも、直正のシンプルな思考がみてとれます。
人材の損失をおそれ幕末の政局から距離を置き、そのために「佐賀の妖怪」と恐れられる
強引な債務整理に対し、商人から「そろばん大名」とよばれた
熱心に西欧の技術を輸入したことに対して「蘭癖大名」とよばれた
しかし、そんな陰口にぶれることなく、藩政改革を成しとげ、人材育成に腐心しました。高い理想をもち、それを実現する。そのために徹底した現実主義者となったのだと考えられます。
反面教師だった父・鍋島斉直
直正の父・鍋島斉直(1780年~1839年)は、佐賀藩9代藩主です。佐賀藩ではすでに大きな借金を抱えており、改革の必要に迫られていました。しかし、斉直の改革はたて続けに失敗に終わります。
追い打ちをかけるように、長崎港に英国軍艦が侵入する「フェートン号事件」が発生。出費を惜しみ、無断で守衛の人数を減らしていた佐賀藩は幕府から怒られてしまいます(100日の閉門)。
この他にも、火災による江戸藩邸の焼失、本国佐賀での台風被害など、借金はさらに膨らみ続けました。藩政を放り投げるようにして直正に譲り、引退した斉直はその後も派手な余生を送っています。
死因は「肺病」
1871年、鍋島直正は東京・永田町の屋敷にて病没します。晩年の直正は肺を病んでおり、呼吸器系の疾患に苦しんでいました。墓地は当初、東京・麻布の賢崇寺境外にあり、頭髪のみ故郷・佐賀の春日山(佐賀県佐賀市)に納められました。平成11年、佐賀・春日山御墓所に改葬されています。
直正の「道」を受け継いだ子孫たち
鍋島直大(1846年~1921年)
第11代の佐賀藩主。戊辰戦争に佐賀藩兵を率いて従軍したのち、佐賀藩知藩事となるも辞職して岩倉使節団に参加。明治政府にも参画。英国留学を経て駐イタリア特命全権大使となります。帰国後は元老審議官、式部頭などを歴任。侯爵に列しました。
鍋島直映(1872年~1943年)
旧佐賀藩主・鍋島家の第12代当主。外務省嘱託となり韓国における農地調査などに従事します。帰国後は直大の爵位を継ぎ、貴族院議員として活動したほか、地元佐賀の文化振興・人材育成にも尽力しました。
梨本伊都子(1882年~1976年)
鍋島直大侯爵の娘。皇族・梨本宮守正王に嫁ぎました。日本赤十字社で看護学を学び、戦前は傷痍軍人の慰問、戦後は戦争孤児の慰問などの活動を行いました。