鍋島直正の簡単年表
1814(文化11)年、鍋島直正(幼名は貞丸)は、江戸の佐賀藩邸に生まれました。1825(文政8)年、直正は将軍・徳川家斉の娘(盛姫)と結婚します。1827(文政10)年には、将軍・徳川家斉から斉の字を賜り、諱を「斉正」としました。
1830(天保元)年、直正は父・鍋島斉直より家督を譲り受け、第10代佐賀藩主となります。同年、粗衣粗食令を発令したほか、長崎にてオランダ商船に乗艦し見学をしています。
1835(天保6)年、佐賀城二ノ丸が火災で焼失。直正は本丸御殿の再建を決定しています。1837(天保8)年、岩田砲術練習場で大砲の試射試験を実施しています。
丸内に行政機能を集約し、藩政改革を本格化させています。1840(天保11)年、藩校・弘道館の移転拡充。
1844(弘化元)年には火術方を設け、砲術研究を本格化させています。同年、直正はオランダ軍艦に搭乗、視察をしています。
1846(弘化3)年、直正・盛姫の間に嫡子・淳一郎(のちの鍋島直大)が誕生します。翌1847(弘化4)、産後の肥立ちがわるく盛姫が亡くなりました。1849(嘉永2)年、直正は嫡子・淳一郎に種痘を実施します。同年、直正は筆姫と再婚しました。
1850(嘉永3)年、直弘は築地反射炉において鉄製大砲の製造に着手します。翌年には、医学寮・蘭学寮を設置し、医業免札制度を開始するなど医療改革を行いました。
1852(嘉永5)年には鉄製大砲の鋳造に成功しています。この画期的なニュースはすぐさま幕府にも伝わり、大砲50門の注文が舞い込みました。1853(嘉永6)年、直正は蒸気軍艦の購入を申請し、許可されています。
1858(安政5)年、直正は御船手稽古所(のちの三重津海軍所)を設置します。同年には医学寮を移転独立し、好生館と改称します。
1861(文久元)年、直正は隠居し、閑叟と名乗りました。藩主の座は息子・直大へと譲渡されます。翌1862年には卒兵上京を果たし、薩摩派の関白近衛忠煕に「京都守護職を任せてほしい」と主張しています。
1865(慶應元)年、三重津造船所にて日本初の実用蒸気船「凌風丸」が完成しました。1869(明治2)年、直正は北海道開拓使長官、大納言に就任します。
1871(明治4)年、直正は東京・永田町の屋敷で病没しました。
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小説で読む鍋島直正のものがたり。開明君主として佐賀藩の改革にとりくむ、いきいきとした姿が印象的です。こうした作品を原作としたドラマや映画が製作されるといいのに、という期待が膨らんでしまいます。
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鍋島直正についてのまとめ
今回は、幕末の佐賀藩主・鍋島斉直の功績や人柄、逸話などについて、簡単な年表とともにご紹介しました。いわゆる幕末の雄藩となるには、藩政改革の成功が必要でした。多くの藩が改革に苦労している中、直正は藩政改革だけでなく、殖産興業や産業革命により近代化を進めています。
直正には、50年100年といった長期的なスパンでの「社会のあるべき姿」が見えていたに違いありません。薩長土肥でもっとも地味と言われる佐賀藩と鍋島直正。この記事を読まれた方に、その隠れた功績を感じていただけたら嬉しいです!