鍋島直正とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言、子孫も紹介】

鍋島直正の功績

功績1「3つの改革を断行する」

直正が重視した農村政策

行財政改革

直正の3つの改革の第一は行財政改革です。きっかけは火災による佐賀城二ノ丸の焼失。「佐賀城再建・復興」というスローガンを最大限に活用した結果でした。

これにより溜まりに溜まった藩の借金のうち、借財の8割を放棄させ、残りの2割を50年ローンとすることに成功しています。続いて役人の数も5分の1まで減らしました。

一方、商人の土地私有が広がり小作農家した農民のため、いったん藩が土地を収用した上で農民に分配(均田制の採用)し税収を上げます。また磁器や茶葉、石炭などの産業を奨励し短期間で藩の財政を立て直しました。

軍制改革

築地反射炉と大砲

ついで直正は軍制改革を行います。佐賀藩には長崎警護の役目がありつつ、1808年におきた「フェートン号事件」においてはほとんど何もできませんでした。その反省から、直正は西欧の技術を取り入れることを目指します。

例えば、近代兵器に不可欠な製鉄についても、江戸時代の日本に普及していた精錬法では純度の高い鉄が作れませんでした。そのため「築地反射炉」(1850年着工、1852年竣工)をつくりあげます。やがて鉄製大砲の製造に成功するまでになりました。

日本で最初の実用蒸気船「凌風丸」を作り上げた成果も見逃せません。これに先立ち、オランダから購入した電流丸を購入しており、1852年には造船・修理を可能とする「三重津海軍所」を設けました。

医療改革

直正が実施した種痘は、その後全国に拡大

もうひとつ、注目されるのが医療改革です。当時、天然痘が佐賀城下に広がりを見せていました。1849年に藩医・伊藤玄朴が「牛痘の輸入」を進言すると直正はすぐさま長崎出島のオランダ商館を通じ、これを入手しています。その後種痘を実施するのですが、直正はなんと自分の息子・直大にも接種を行いました。このことが種痘の普及に非常に有効でした。

その後の佐賀藩では、漢方医による中国式医療から蘭方医による西欧式医療へと切り替えています。また、佐賀藩は全国に先駆け1851年に医業免許制度を創設しています。佐賀に始まった直正の医療改革は、結果として日本全体をリードする動きとなりここでも先進国・佐賀藩の印象を強めています。

功績2「『佐賀の七賢人』などの人材を残す」

佐賀の七賢人

鍋島直正の功績はまだあります。教育熱心な直正は、多くの藩士に勉学の機会を与え、藩校・弘道館を移転拡充して「蒙養舎」を設立し15歳以下の藩士の教育を行いました。その結果、幕末期の佐賀では、のちに「佐賀の七賢人」とよばれた7名(鍋島直正、江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任、島義勇、佐野常民)などの傑出した人物が現れました。

鍋島直正の名言

萬一、願書御差し返し相成り候共、押し返し候ても相願い候様取り計い度候

側近への手紙に書かれた言葉です。意味は、「万一、願書が受理されずに返されたとしても、さらに押し返してでも願い出るよう取り計らいなさい」。オランダから船を購入するにあたり、幕府の許可が必要でした。是が非でも、という決意がみなぎる言葉です。

出府の上も古風押し立て候よう心懸くべく候

息子・直大への手紙に書かれた言葉です。新藩主として旅立つ息子に、「物おじすることはない、堂々と我が家の「古風」でよいのだ」と厳しくもあたたかく激励しています。

鍋島直正にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「妖怪、ソロバン大名…鍋島直正の真価」

改革をまい進する直正には、雑音は耳に入らなかった

鍋島直正にはいくつものあだ名がつけられています。「妖怪」「そろばん大名」「蘭癖大名」…。そこから見え隠れする鍋島直正の真価とはどのようなものでしょうか。

「妖怪」とは幕末の「尊王攘夷」に代表される政争から距離をとりつづけた直正のことを指していました。佐幕派も倒幕派も「佐賀は敵か味方か」と判断がつかず、しかし着々と実力を備えていたため、不安視したのです。しかしそのおかげで、騒動に巻き込まれ落命する藩士はほとんどありませんでした。

一方、「そろばん大名」とは債務整理を断行した直正を指しています。巨額の借財について一部は元金のみ超長期ローン化し、残りは部分的に返済し残額を藩への寄付とすることで処理しました。この一件からは、利発で抜け目ない直正を感じますが、おかげで藩財政は好転し動乱にまけない国造りに成功しています。

都市伝説・武勇伝2「蘭癖は遺伝?島津斉彬との交流」

観光丸に乗り斉彬に会いに行ったこともある直正(画像は凌風丸)

幕末の開明君主として名高い鍋島直正に並び称されるのが、同時期の薩摩藩主・島津斉彬です。この二人、実はいとこ同士でした。直正の母・桃姫、島津斉彬の母・弥姫ともに、鳥取藩第6代藩主・池田治道の娘です。

ともに励ましあい、交流を深めた直正と斉彬。佐賀と薩摩はどちらも海に面した藩であり、その海上を異国船が疾駆しているわけですから、海防意識が高まるのは必然ではあります。しかし、よく似た政策をとっている二人の殿様が「いとこ同士」だったというのは、何らかの遺伝的形質があったとしても不思議ではありませんね。

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