尾崎放哉の有名俳句を時系列で紹介
自由律俳句で名高い放哉の俳句ですが、若いころは5・7・5の定型による句も詠んでいました。ここでは、時系列の時代ごとに句を取り上げます。
大学時代(1905年〜1909年)
- 一斉に海に吹かるる芒かな
- 木犀に人を思ひて徘徊す
- 行く秋を人なつかしむ灯哉
- 七つ池左右に見てゆく花野かな
- 別れ来て淋しさに折る野菊かな
大学生の頃は、定型の俳句を詠んでいます。高浜虚子の主宰する『ホトトギス』に投句をしていたことも関係していると思われます。秋の俳句によい句が多い印象です。
「一斉に海に吹かるる」「木犀に人を思ひて」「人なつかしむ燈」「左右に見てゆく」「淋しさに折る」これらの俳句の言い回しをみても、この当時から尾崎放哉の心には孤独が大きく影響していることがわかります。
東京・大阪時代(1909年~1916年)
- ひねもす曇り浪音の力かな
- 灯をともし来る女の瞳
- 休め田に星うつる夜の暖かさ
- 若葉の匂の中焼場につきたり
- 今日一日の終りの鐘をききつつあるく
東京・大阪時代は、放哉が井泉水の『層雲』に投句を始める時期です。それゆえに俳句も定型をはずれて自由さを増しました。「浪音の力」「女の瞳」「星うつる夜の暖かさ」「若葉の匂」には、勢いや力を感じます。「一日の終わりの鐘」の句には、この後放哉がたどることになる俳句の方向性が見え隠れしているようです。
京城・長春時代(1922年~1923年)
- 土くれのやうに雀居り青草もなし
- 風の中走り来て手の中のあつい銭
- 海苔をあぶりては東京遠く来た顔ばかり
- 昼火事の煙遠くへ冬木つらなる
- かぎりなく煙吐き散らし風やまぬ煙突
京城・長春時代は、放哉が転職先の会社を1年でクビになり起業にも失敗する転落の時期です。俳句にもその空気感がにじんでいます。「青草もなし」「あつい銭」「東京遠く来た顔」「火事の煙遠くへ」「風やまぬ煙突」といった言葉づかいは、放哉の心象を表す言葉だったのでした。
一燈園時代(1923年)
- 牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり
- ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
- 皆働きに出てしまひ障子あけた儘の家
- 静かなるかげを動かし客に茶をつぐ
- 落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事
満州から帰国し、離婚したこの時期。放哉の俳句には、若干の軽みが出ているようにも感じられます。「牛の眼」「ねそべって」の句などからは滑稽味を感じました。「皆働きに出てしまひ」の句などは、呆然と取り残された放哉の背中がみえるようで、思わず笑ってしまいそうになります。離婚したことによって少し人生の荷が軽くなったのか、あるいは自虐だったのでしょうか。
須磨時代(1924年~1925年)
- 一日もの云わず蝶の影さす
- なぎさふりかへる我が足跡も無く
- たつた一人になりきつて夕空
- 赤とんぼ夥しさの首塚ありけり
- こんなよい月を一人で見て寝る
須磨時代から、孤独の句がより色濃いものになってゆく感じです。代表句の一つ「こんなよい月を一人で見て寝る」が詠まれたのもこの時期でした。
小浜時代(1925年)
- かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
- とかげの美しい色がある廃庭
- 淋しいからだから爪がのび出す
- 一本のからかさを貸してしまった
- 朝早い道のいぬころ
小浜時代は、須磨時代と小豆島時代に挟まれた時期です。「かぎりなく蟻が出てくる」「とかげの美しい色」など印象的な言葉づかいは相変わらず優れていると感じられました。「一本のからさかを貸してしまった」も放哉の句として有名な俳句です。
小豆島時代(1925年~1926年)
- すばらしい乳房だ蚊が居る
- 蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽
- 入れものが無い両手で受ける
- せきをしてもひとり
- 墓のうらに廻る
- 春の山のうしろから烟が出だした
小豆島時代。放哉の俳句が完成したと言われるこの時期は、代表句が多く詠まれた時期です。なかでも「入れものが無い両手で受ける」「せきをしてもひとり」「墓のうらに廻る」は放哉の代表三句といえるのではないでしょうか。辞世の句「春の山のうしろから烟が出だした」は、まるで自分の遺体が焼かれ、烟となって天に昇るさまを詠んだように感じられます。
尾崎放哉にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「エリートからの転落人生」
尾崎放哉は、鳥取生まれ。第一高等学校、東京帝国大学法学部に入学します。卒業後、日本通信社を経て1910年に東洋生命保険株式会社に入社すると、契約係長、大阪支店次長と出世していきます。入社の翌年には結婚もし、誰もがうらやむようなエリート生活を送っていました。
しかし、この時期から次第に酒におぼれるようになっていきます。その結果、退職を余儀なくされ、朝鮮火災海上保険会社に入るも1年でクビになり、満州で事業に挑もうとするも今度は体を壊してしまいます。やがて、離婚。放哉はすべてを失ってもなお俳句を詠みつづけましたが、それでも酒はやめられず転落を止めることはできませんでした。
都市伝説・武勇伝2「恩師との絆?穂積陳重と同日に死ぬ」
尾崎放哉は、その性格ゆえに多くの人から嫌われてしまうタイプであったことは否めません。しかしごく限られた人物、例えば難波誠四郎や師である荻原井泉水などは、要所要所で手助けをしています。
その一人に穂積陳重がいます。日本法律学の祖ともよばれ、明治民法の編纂者であった穂積は教え子であった穂積陳重。放哉のために就職相談にのり、放哉は東洋生命保険株式会社への就職を果たすことができました。
なお、穂積陳重と尾崎放哉という境涯の大きくかけ離れた二人は、同日に亡くなっています。1926年月7日のことでした。