尾崎放哉の簡単年表
1885年、尾崎放哉は現在の鳥取県鳥取市に生まれました。父の尾崎信三は、もと鳥取藩士で鳥取地方裁判所の書記官でした。
1897年、放哉は鳥取尋常中学に入学します。在学中から俳句をはじめています。その後、1902年には鳥取県立第一中学校を卒業し、第一高等学校に入学します。翌1903年、一高俳句会に参加した放哉は、荻原井泉水と出会いました。
1905年、放哉は第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部に入学します。同年、いとこの澤芳衞に求婚しますが、親族の反対に遭い断念しています。
1909年、東京帝国大学を卒業した放哉は、日本通信社に入社するも1年で退職しています。大学の恩師・穂積陳重に相談した上で、翌年に東洋生命保険株式会社に入社しました。
1911年、放哉は坂根馨と結婚します。1913年には契約係長に昇進。翌1914年には大阪支店次長として大阪に赴任しています。放哉のエリート人生の絶頂期でした。
1915年、東京本社に帰任した放哉は、荻原井泉水の『層雲』に参加し、自由律俳句に転向しています。
翌1916年に東洋生命を退社。お酒が原因の降格人事が発端でした。
1922年、あらたに興された朝鮮火災海上保険会社の支配人として、京城に赴任します。しかし、やはりお酒が原因のトラブルが絶えず、翌年5月在任わずか1年で免職となりました。その後7月には満州へ赴き起業を目指しますが、肋膜炎を発症して入院しています。
あてもなく帰国した放哉は、妻・馨と離婚。京都鹿ケ谷の一燈園に身を寄せました。
1924年、知恩院塔頭常称院の寺男となった放哉は、わずか1か月で寺を追われてしまいます。その後、須磨寺の堂守となり、翌1925年には常高寺の寺男と職を転々とした挙句、師である井泉水の元に身を寄せました。井泉水は「小豆島はどうか」と放哉に提案しています。
1926年、前年8月より小豆島・西光寺の奥の院・南郷庵に入庵した放哉は、孤独と窮乏、病苦に悩まされながらも俳句を詠みつづけました。4月7日、死去。享年は数え年で41歳。
尾崎放哉の関連作品
おすすめ書籍
『新装版 海も暮れきる (講談社文庫)』
吉村昭の描く、尾崎放哉が主人公の小説です。小豆島での最晩年を中心に描かれています。迫りくる死とそれに伴い鋭さをましていく放哉の俳句。島民から煙たがられながらも、最後は島民に看取られながら死んでゆく放哉。その死にざまは、小豆島の自然と一つになっていくようにも感じられます。
『尾崎放哉句集 (岩波文庫) 』
放哉の俳句をまとめて読みたい人に最適の一冊です。気負いも衒いもない、放哉の俳句の世界。
その世界はあまりに透き通って、ひとつの人生の真実を描き出しています。
おすすめの動画
フォト俳句「尾崎放哉」 工房ムーンライト
映像作品を手掛ける工房ムーンライトの作品。尾崎放哉の代表的な俳句を写真と共に見ることができます。BGMも雰囲気のある曲です。
尾崎放哉句集 1
関連外部リンク
尾崎放哉についてのまとめ
今回は俳人・尾崎放哉の人生と俳句をご紹介しました。高学歴なエリートでありながら、酒癖が悪すぎて人付き合いがダメすぎた放哉。しかし、放哉の俳句には言いようもない魅力があふれています。
それは、俳句を読む私たち一人ひとりが、放哉と同じような孤独や後悔を抱えながら日々を生きているからではないでしょうか。だからこそ放哉の俳句に共鳴するし、落ち込んでいるときほど心に響いてくるのだと感じます。
この記事を読まれた方が、尾崎放哉の俳句に魅力を感じ、尾崎放哉についてより深く知って頂けたら嬉しいです!