副島種臣とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や逸話、子孫も紹介】

「副島種臣ってどんな書を残したの?」
「副島種臣はどの藩の出身なんだろう」

幕末から明治にかけて活躍した志士・政治家で書家の副島種臣は、幕末・明治維新期の人物としては地味な存在です。それは、副島種臣が佐賀藩出身者であり、佐賀藩そのものが、佐幕・倒幕の立場をはっきりさせないまま戊辰戦争を迎えてしまったことも影響しています。

しかし、実際の副島種臣は、外務卿としてマリア・ルス号事件や日清修好通商条約の締結の場面で活躍し、またその高潔な人柄と博識から天皇の家庭教師ともいうべき「侍講」にまでなっています。政府に属しているときには「政体書」、政府から外れたときには「民選議院設立建白書」を起草するなど、明治国家の屋台骨といってもよい存在感を発揮しました。

副島種臣

端正な顔立ちはどこかエキゾチックで、日本人離れした雰囲気を感じます。じつは奇想天外な書家としても有名になるという意外な一面ももっていました。

今回は、幕末・佐賀藩の生んだ俊秀にして「一見地味なのに、なんかスゴイやつ!」な副島種臣を取り上げ、解説したいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

副島種臣とはどんな人物か

名前副島種臣
蒼海
誕生日1828(文政11)年9月9日
没日1905(明治38)年1月31日
生地肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)
没地東京府(現在の東京都)
配偶者副島律子
埋葬場所青山霊園(東京都港区)、高伝寺(佐賀県佐賀市)

副島種臣の生涯をハイライト

種臣生誕の地に建立された碑

1828(文政11)年に佐賀藩士であった父・枝吉南濠の次男として生まれた種臣。少年時代は、藩校・弘道館で学びました。成長した種臣は、尊王攘夷運動の結社「義祭同盟」(表向きは楠木正成の愛好者サークル)に加わります。

明治維新後は、政府に参画し参与・制度事務局判事などを務め、福岡孝弟とともに「政体書」を起草するなど文才にも恵まれていました。豪胆な性格の上に正義感もつよく、外務卿として日清修好通商条約を批准したり、マリア・ルス号事件を指揮したことで海外からも脚光を浴びました。

明治6年の政変で下野した際には「民選議院設立建白書」を起草・提出しており、その後明治天皇の侍講、枢密院顧問、内務大臣と要職を歴任しました。

「蒼海」という名をもつ書家でもあり、その奇想天外な書体からいまも人気を博しています。

劣等感に悩んだ若き日の種臣

種臣ら佐賀藩士が青春をかけて学んだ弘道館跡

7歳で藩校・弘道館に通い、勉学に励んだ副島種臣ですが、兄の枝吉神陽が優秀すぎたため、コンプレックスに悩んでいました。なにしろ、父も兄も弘道館の教授を務める家柄だったのです。

ふつうなら、諦めてしまうところですが、副島種臣が並の人物でないところは、そこから一念発起したところ。さらに勉学にいそしんだ種臣は、21歳にしてついに「弘道館首班」という栄誉を勝ち取りました。

種臣の兄・枝吉神陽

枝吉神陽が立ち上げた義祭同盟の碑
出典:サガバイドットコム

副島種臣の兄は枝吉神陽(1822年~1862年)です。幕末期の佐賀藩で活躍した志士であり国学者として知られています。神陽は幼少期から神童とよばれるほどの秀才ぶりを発揮し、20歳で江戸留学を果たし昌平黌に学びました。

26歳で佐賀に戻ると弘道館教諭をつとめたほか、父・南濠の「日本一君論」を受け継ぎ勤皇家として活動をし「義祭同盟」を結成しました。神陽の義祭同盟は、実弟の副島種臣ほか、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇らの人物を輩出したため「佐賀の松下村塾」ともよばれました。

水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称されるほどですから、弟・種臣のコンプレックスも分かる気がしますね。その神陽ですが、コレラを患ってしまった奥さんを看病する中で、自身もコレラに感染してしまい41歳で命を落としてしまいます。

死因は脳溢血

副島種臣の墓は、青山霊園にある

副島種臣は1905(明治38)年、脳溢血のため亡くなりました。生前、相撲をこよなく(貧乏なのに、力士に化粧まわしを買ってあげたこともあるほど)愛した種臣は、遺言の中で「力士に棺を担いでほしい」と言い残していました。

その結果、横綱・常陸山をはじめ20名の力士たちが種臣の棺を担ぎ、屋敷のあった原宿から青山霊園まで葬送の列がつづきました。

なお、種臣の墓地は故郷・佐賀にも。曹洞宗高伝寺(佐賀県佐賀市)には、歴代の佐賀藩主をはじめ、種臣が畏敬してやまなかった兄・枝吉神陽も眠っています。

子孫にはどんな人がいる?

副島道正(1871年〜1948年)

福島種臣の三男。東京出身で明治・大正・昭和期に活躍した華族、実業家として知られ、IOC委員として1940(昭和15)年の東京オリンピック招致に尽力しました。その後、戦時体制強化に伴うオリンピック開催中止にも大きな役割を果たしています。

副島豊子

副島種臣の娘。勘解由小路資承(かでのこうじ・すけこと)に嫁ぎました。

副島順子(のぶこ)

副島道正の三女。志賀直哉の弟・志賀直三に嫁ぎました。

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