副島種臣の簡単年表
1828(文政11)年、副島種臣は佐賀藩士・枝吉南濠の次男として生まれました。
1834年、7歳のときに弘道館に入学します。父も兄も弘道館の先生をしており、そのことが少年時代の種臣にはコンプレックスでした。
1848(嘉永元)年、21歳になった種臣は弘道館の寮生たちのなかで首席となります。1852年には、皇学研究のため京都に留学し「日本一君論」を説きました。
翌1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航します。京都では兄の紹介で多くの国学者・志士と交際をし、その影響を受けて藩主・鍋島直正に上洛を建言しますが、逆に謹慎処分を受けています。
1859(安政6)年、父の南濠が死去。同年、種臣は佐賀藩士・副島和忠の養子となり、律子と結婚します。同年、種臣は弘道館の教授となりました。
翌1860年に桜田門外の変が発生。同年、兄の神陽がコレラのため死去しました。種臣は、幕府が長崎に設立した済美館でグイド・フルベッキから英語を学んでいます。
1867(慶應3)年、種臣は大隈重信とともに脱藩し大政奉還を説きますが、露見し捕縛され佐賀へ戻って謹慎処分を受けています。
翌1868年、戊辰戦争がはじまると、それまで情勢を静観していた佐賀藩も参戦を決めます。種臣は、奉行退去後の長崎において各国との折衝を行い、次いで奥羽征討軍監の一人として佐賀藩兵の従軍に尽力しました。
明治政府に登用された種臣は、参与・制度取調局判事の職に就き「政体書」の起草を行っています。
1869(明治2)年、参議となり、次いで岩倉具視の後任として外務卿に就任します。3年後の1972年にはマリア・ルス号事件を担当し、一躍「正義人道の人」として国際的にも知られるようになりました。
1873(明治6)年4月には日清修好通商条規の批准などを行い、清国高官との詩文交換においてその博識を発揮、感嘆されています。
1873年、征韓論にやぶれた西郷隆盛が下野すると、種臣もこれに倣い江藤新平・板垣退助・後藤象二郎らとともに故郷に帰還(下野)します。その後は江藤新平らとともに愛国公党を結成し、「民選議院設立建白書」を起草・提出しました。
1879(明治12)年、種臣は宮内庁御用掛一等侍講と侍講局総裁に任命されます。以後、薩摩閥の黒田清隆の批判などを受け一時的に中断した他は、侍講が廃止される1886年までの7年間にわたり侍講を務めました。
1887(明治20)年、種臣は宮中顧問官に任命されます。次いで翌年には枢密院顧問官。1891(明治24)年には枢密院副議長に任命されるなど要職を歴任します。
1992(明治25)年、種臣は65歳にして内務大臣に任命されました。
1905(明治38)年、副島種臣は1月31日に死去しました。死因は脳溢血。東京の青山霊園と佐賀の高伝寺、ふたつの墓がもうけられています。
副島種臣の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
副島種臣 (人物叢書)
幕末期から明治初年にかけて活躍した佐賀藩出身の副島種臣について書かれた書籍です。幕末期、明治期の活躍が中心となっています。マリア・ルス号事件や清国での折衝における活躍を知るためには最適の1冊です。
おすすめの動画
副島種臣 清国人奴隷を解放した気概ある政治家
副島種臣の人生の要点を、短時間で知ることができる動画です。時系列で主だった出来事がさらえるので、これまで副島種臣になじみのなかった人に最適です。「副島種臣ってだれ?」と思う方にはぜひとも一度見ていただきたいと思います!
「ぶらつき賢人録〜佐賀の歴史スポット巡り〜」第五章 副島種臣
佐賀を中心に活躍している俳優ユニット「佐賀の八賢人おもてなし隊」の動画シリーズ(第5章・副島種臣)です。副島種臣に扮する西正さんが、当時の雰囲気たっぷりに語る様子は、観ていておもわず笑みがこぼれてしまいます。日曜日に佐賀城にて演劇もされているとのこと、機会があれば、ぜひ一度観てみたいです。
関連外部リンク
副島種臣についてのまとめ
今回は、幕末・維新を中心に活躍した佐賀八賢人の一人、副島種臣についてご紹介しました。
父も兄も学者でそのために悩んだ少年時代や、正義人道の人として世界から支持された「マリア・ルス号」事件、明治天皇の厚い信頼など、功績云々以前にとにかく人格者としてズバ抜けていた副島種臣。志半ばで散った父と兄、そして盟友ともいえる西郷隆盛や江藤新平の分までしっかりと明治政府の屋台骨を支えました。
その功績は、もっと多くの人に知られて良いしもっと評価されて良いはずです。この記事を読まれた方が、副島種臣の魅力を知り、副島種臣ファンになっていただけたら嬉しいです。