副島種臣の功績
功績1「人道主義と正義の人~外務卿として活躍」
1872年7月、ペルー船籍のマリア・ルス号が清国(中国)からペルーへ向けて航行中に故障のため横浜港に入港します。この船には清国人が奴隷として乗せられており、その一部の者が脱走してイギリス軍艦に助けを求める事件が発生しました。
当時、日本とペルーの間に二国間条約が締結されておらず、両国の法律関係は明文規定がない状況でした。この時、外務卿の職にあった副島種臣は神奈川県権令に清国人の救助を命じます。「国際紛争になるのではないか」との懸念が政府内にも大きかった中で、副島が主張したことは「人道主義」と「日本の主権独立」の2点でした。
日本側はマリア・ルス号の出港停止を命じつつ、船長を訴追。清国人の開放を条件に出講停止を解くといった内容の判決を下しました。この一件は「奴隷解放事件」とよばれ、副島種臣は一躍、世界各国から「正義人道の人」として認知されるようになりました。
功績2「天皇にも慕われた人柄~侍講として信頼を得る」
1879年、副島種臣はその学識の深さから一等侍講(明治天皇の家庭教師)を務めることになりました。そこへ嫉妬から横やりが入ります。薩摩閥の黒田清隆でした。当時は明治維新の熱も冷めやらぬ頃、薩長土肥が藩閥を競った時代でもあったのです。
ことが内閣と宮内庁の摩擦にまで至ったとき、侍講を辞めようとした種臣に天皇は手紙を送り引きとどめています。またあるとき、清貧だった種臣の暮らしぶりを案じた天皇が、種臣にお金を届けさせました。種臣はこれに対し「君子は万民に平等でなければならない」と辞退しています。種臣は、どこまでもまっすぐな性格の持ち主なのでした。
功績3「まるで絵画!~書道家としての種臣 」
副島種臣の功績として忘れてはならないものが、書です。種臣は「蒼海」の名でたくさんの書を残しました。その奇想天外な書体のため、書道界に大きな影響を与えました。以下、代表作品を2点ご紹介します。
「帰雲飛雨」(佐賀県立美術館蔵)
「春日其四句」(実相院蔵)
副島種臣の名言
東洋の学者は人の禽獣に異なる所以を説き、西洋の学者は人の禽獣に同じき所以を説く
学問についての東西の比較を行っている言葉です。東洋では、人は禽獣とは異なる点に着目して士や聖人を論じるというやり方をしますが、西洋においては、人と禽獣の同じか似た点に着目し、法律をはじめとする学問体系が組まれ、社会制度が構成されています。
副島種臣の人物相関図
副島種臣にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「雑すぎる洗顔が、子どものしつけのネタになる」
弘道館時代の副島種臣は、勉学のため寮生活をしていました。寮生たちは、朝起きると城の北側を東西にながれる松原川で洗顔をするのですが、種臣は指を二本だけ濡らして目の周りを擦るだけの手抜きで済ませていました。
この話が広まると種臣の地元では、子どもの入浴時のしつけなどに「二郎さん(種臣のこと)の風呂入り(ではダメですよ)!」と諭す親が続出したのでした。種臣には不名誉かもしれませんが、愛嬌の感じられる逸話でもあります。
都市伝説・武勇伝2「西郷隆盛に愛されるほどの人柄」
薩摩藩の下級藩士出身で、盟友の大久保利通とともに幕末の薩摩藩をけん引した西郷隆盛。当然明治政府においても要職にあるべきでしたが、征韓論にまつわる明治6年の政変で参議を辞めて薩摩に帰ります。
その西郷が、他藩関係者の中で特別に愛したのが副島種臣でした。高潔な人格を見込み、日本の将来を託すに足りると考えたのです。実際、西郷隆盛が明治10年におこす西南戦争末期には、西郷隆盛から副島種臣あてに遺言がおくられたとの説があります。
都市伝説・武勇伝3「牛乳・チーズを普及しようとする」
明治の世となり、文明開化が盛んになると西欧列強に追いつけ追い越せといったムードが広がりを見せます。その顕著な例が「牛乳販売業」の流行でした。殖産興業や富国強兵といった明治のキーワードを実践していくためには、何よりも国民が欧米人のように屈強にならなければ…と考えられたためです。
当時の職にあぶれた武士ばかりでなく、明治政府の元勲たちもさかんに取り組みをみせました。その中の1人が副島種臣です。麻布(霞が関との説もあり)で牛の飼育をはじめた種臣。当時は、搾乳から製造、販売とひとまとまりで営業する方法がとられていました。政府の要人たちまで牛乳屋さんを開業するほど、日本人の栄養状態が深刻にみられる時代だったのだと考えられます。