妻木煕子は戦国時代を生きた女性です。夫を献身的に支えたため、一度は国を追われ、美濃から越前に落ち延びた夫もやる気になったのでしょう。世捨て人のような生活から、天下の織田信長に仕えることになります。
夫のため苦しい生活を乗り切った彼女は、小説やドラマで妻の鑑のように描かれることも多いため、極端に資料が少ないながらも、現在までその人物像が愛されています。
妻木煕子に支えられた夫は明智光秀。結局信長とはたもとを分かち、本能寺の変で激突、その結果、信長は亡くなり、時代は大きく進んでいきます。
天下取りはうまくいかなかったものの、光秀がここまで戦国史に爪痕を残したのは、妻である煕子の支えがあったからです。越前での苦しい暮らしの中で、煕子が家計を支えたこともあったようです。このことを考えると、妻木煕子は明智光秀の裏で時代を大きく進めた功績を持っているように思えます。
現代よりずっと過酷だった戦国時代はある意味、男も女も関係ない時代だったことでしょう。そんな中で自分が信じた相手にとことんつくし、支えた生き方は現代の生き方に迷う私たちにも、きっと参考になるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
妻木煕子とはどんな人物か
名前 | 妻木煕子 |
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誕生日 | 生年不詳。一説には1530年(享禄3年)生まれ |
没日 | 1576年(天正4年)11月27日または7月6日に死亡 |
生地 | 妻木城(現在の岐阜県土岐市)? |
没地 | 坂本城(現在の滋賀県大津市) |
配偶者 | 明智光秀 |
埋葬地 | 西教寺(滋賀県大津市) |
妻木煕子の生涯をハイライト
妻木煕子の生まれた年はよくわかっていません。細川家記によると1530年(享禄3年)、妻木範煕の長女として生まれたということです。煕子の三女「玉」(後の細川ガラシャ)が細川忠興に嫁いだため、細川忠興の妻の母として細川家記に掲載されたようです。
1556年に斎藤義龍によって明智城が落城したときには、煕子はすでに明智光秀に嫁いでいました。身重の煕子を背負って光秀が逃走したという内容の逸話が残っています。
浪人となった光秀は越前に逃れ朝倉義景に仕えました。そのときの苦しい生活を煕子の支えで乗り切った光秀は織田信長に仕えることになり、居城を持つ身分に返り咲きます。
1575年から1576年にかけて、戦に明け暮れた光秀はとうとう過労のために倒れますが、それを煕子が献身的に看病しました。その看病が原因となり、煕子自身が過労で倒れ亡くなってしまいます。享年は46とも36とも、42だとも言われており、謎めいた生涯でした。
妻木煕子の誕生!実家の妻木家とは
妻木煕子は1530年(享禄3年)頃に美濃国の妻木郷(現在の岐阜県土岐市妻木町)で生まれたと言われています。父親は妻木範煕(妻木広忠との説もあり)で、煕子は長女だったそうです。
妻木氏は美濃国で栄えていた武家・土岐氏が分家してできた家で、その点では明智家と同じような立場だったと思われます。
明智家が分家して妻木家ができたとも考えられており、妻木煕子と明智光秀は幼馴染だった可能性も十分にあります。
妻木郷には妻木氏の居城として妻木城が築かれていました。きっと煕子も妻木城で生活をしたのに違いありません。現在妻木城の建造物は残っていませんが、石垣や曲輪、土塁などが残されており、煕子が生活をしていた姿を偲ぶことができます。
妻木煕子の結婚!波乱の人生の幕開け
先程紹介した身重の煕子を光秀が背負って逃げたという逸話は、2人の夫婦仲が良かったという証拠として語られることが多いのですが、ここから煕子の波乱万丈の人生が始まります。
青年となった光秀は美濃の国主になった斎藤道三に仕えましたが、道三が息子である斎藤義龍と対立、戦に発展しました。これが1556年の長良川の戦いです。
この戦いで道三方についた明智一族は、明智城を落とされ、国を追われることになりました。明智一族は離散してしまいますが、このときに光秀が煕子を背負って逃げたわけです。
光秀が謀反人として歴史に名を残してしまったため、残っている逸話が少ないのですが、これは2人が1556年にはすでに結婚していた貴重な証拠と言えます。
国を追われた光秀一行は越前に落ち延び、そこで朝倉義景に仕えることとなります。織田信長に仕え、再び城を持てるようになるまでには10年もかかったと言われており、苦しい生活は長く続きました。
妻木煕子の死!死因となった病とは
1576年(天正4年)の10月に煕子は病に倒れ、祈祷のかいもなく11月に亡くなってしまいます。原因は看病疲れによる過労ということです。
同じ年の5月、煕子に先立ってまず光秀が倒れます。前年からの高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆と休む間もなく戦い続けた光秀には、かなりの疲れが溜まっていたはずです。これを看病したのが煕子だったと言われています。
光秀は重い風痢にかかっていたという記録もあり、現代で言う感染性胃腸炎だったのではないかとも考えられています。一時は死亡説が流れたこともあり、かなりの重症だったのではないでしょうか。
看病により過労となった煕子は抵抗力を失い、感染性胃腸炎に感染、命を落としたのかもしれません。何より倒れてから亡くなるまでの間が1カ月程度と短かったのが、それを証明しているように思えます。