柳田国男(やなぎた くにお)は日本で「民俗学」という学問分野を開拓した民俗学者です。
民俗学は、その国の「普通の人々」の歴史に目を向けた学問分野で、民間に伝わる伝承や説話を主な資料として研究しています。柳田国男が民俗学を確立するまで、日本で「歴史を研究する」といえば政治の移り変わりや政治家同士の争いなど、大きな出来事が中心でした。庶民の生活の歴史がないがしろにされているなかで、柳田はあえてそこに目を向けて日本民俗学を立ち上げたのです。
柳田国男はなぜ今でいう「民俗学」的な物事に関心をもったのでしょうか。理由の1つに、幼少期に目にした農民の暮らしの貧しさに衝撃を受けたことが挙げられます。柳田は民俗学を「農民の暮らしを向上させる学問」と考え、そのために実際に世の中で起こっていることを解明することを使命としました。
この記事では、柳田国男の民俗学の特徴や功績を解説し、彼自身の生涯についても写真つきでご紹介します。柳田国男がどのような人物だったかを知る手がかりになれば嬉しいです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
柳田国男とはどんな人物か
名前 | 柳田国男 |
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誕生日 | 1875年7月31日 |
没日 | 1962年8月8日(享年87歳) |
生地 | 兵庫県福崎町 |
没地 | 東京都 |
配偶者 | 柳田孝 |
埋葬場所 | 春秋苑墓地(神奈川県川崎市) |
代表作 | 『遠野物語』『蝸牛考』 『海上の道』など |
「日本民俗学の創始者」柳田国男の生涯をハイライト
柳田国男は1875年、現在の兵庫県福崎町に生まれました。生家は松岡家という医者の家で、柳田という苗字を名乗り始めたのは27歳のときです。幼いころから記憶力がよく、たくさんの本を読んで育ちました。
12歳のときに下総(現在の茨城県)の兄のもとに移り、さらに16歳で別の兄と暮らすために上京しました。17歳で第一高等中学校に入学、卒業後は東京帝国大学の政治科へと進み、農政学を学びました。26歳で大学を卒業し、農商務省に勤務する官僚となりました。
官僚として全国各地を講演旅行で訪れ、地方の農民の暮らしの実情に触れるうちに民俗的なものに関心を深めていきます。岩手県の遠野の民話や伝説を収集していた佐々木喜善との出会いもあり、1910年に出版したのが『遠野物語』です。遠野地方に伝わる伝承や逸話を収録したこの本や、宮崎県の椎葉を旅して執筆した『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』などを出版しながら、柳田は「民俗学」を確立するための下準備を進めていきました。
1920年代は民俗学が確立していった時期でした。柳田は官僚を辞め、東京朝日新聞社の客員となって全国各地を旅し、ごく普通の農民の歴史を研究していきました。民俗学誌『民族』『島』を編集・出版し、『海南小記』や『蝸牛考』など著書も次々に執筆していきました。
第二次世界大戦後は民俗学を発展させるため、自宅に民俗学研究所を構えます。さらに、大学で民俗学を研究できるように尽力しました。1961年には最後の著作『海上の道』を出版、翌年の8月8日に87歳でその生涯を閉じました。
民俗学を探究するきっかけとなった体験
柳田国男が現在でいう「民俗学」に目覚めたきっかけとして、生まれた家の小ささが挙げられます。柳田は後年、自分の生家を「日本一小さな家」と評しました。4畳と3畳の部屋が2つずつある平屋に家族7人で住んでいたのですが、1番上の兄・鼎(かなえ)の妻は家の狭さに耐えかね、離婚して実家に戻ってしまいます。
柳田は、この小さな生家が民俗学を研究する源になっていたと語っています。ある風習について考察するとき、彼は自分の生家や育った辻川という土地と比較することで思索を深めていったといいます。現在、柳田の生家は当時のように復元され、その隣には神崎郡歴史民俗資料館があります。
1909年に柳田国男が自費出版した初めての著作『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』は、その前年に訪れた宮崎県の椎葉村での体験がもとになっています。柳田は当時の椎葉村長と村内をまわり、イノシシやシカの狩猟について調査をしました。滞在していた6日間は村内の民家に泊まって、村の暮らしを体験しています。
柳田が帰った後、椎葉村長は村内に所蔵していた狩りを行うときの儀式についての巻物を復元し、柳田に送りました。この巻物が『後狩詞記』を書くときに非常に参考にされたといわれています。この本の出版後、柳田は民俗学の確立を目指して次々に調査を行い、著作を出版していきました。
柳田民俗学は「社会をよりよくするための学問」
柳田国男の民俗学には、大きく分けて3つの特徴があります。
1つ目は民俗学の目的を「社会が変化していくことを証明すること」とした点です。柳田の著書『蝸牛考』では、「カタツムリ」を表す方言を調査することで、1つの言葉がどのように移り変わっていくかを明らかにしました。また、社会は資本主義経済へと変化していくのだから、農村や農業もそれに合わせて発展していくべきと考えました。
2つ目の特徴は、民俗学を「社会をよりよくするための学問」としたことです。社会で実際に何が起こっているかを解明することで、何を変えたらよくなるかをはっきりさせようとしました。
3つ目は「言葉」をきっかけにして社会の仕組みや儀礼・信仰などの歴史を明らかにしようとしたことです。日本の民俗学研究では、聞き取り調査のときに必ず「それ(ものや行事、習慣など)を何と呼ぶか」と尋ねます。すべての事柄には名前があるので、柳田はそれに注目する研究方法を開拓しました。
残した著作は100冊以上
柳田国男は生涯で100冊以上もの著作を残しました。ここではそのうち、代表的なものをリストアップしてご紹介します。
- 遠野物語
- 後狩詞記(のちのかりのことばのき)
- 海南小記
- 蝸牛考
- 桃太郎の誕生
- 地名の研究
- こども風土記
- 先祖の話
- 故郷七十年
- 海上の道
「日本のグリム」から語られた『遠野物語』
『遠野物語』は、柳田国男が1910年に発表した説話集です。岩手県の遠野地方に伝わる伝承が119話ほど収録されています。天狗や河童など妖怪に関する話から、神隠しや臨死体験にまつわる話、遠野地方の神やそれをまつる風習や行事など、幅広いテーマの伝承が集まられている本です。
元々は佐々木喜善という人物が語った話を柳田が聞き取り、編集して出版したものです。佐々木は遠野地方出身の小説家で、地方の民話を集める専門家でもあったことから「日本のグリム」とも呼ばれています。東京の大学に通っていた佐々木に柳田が出会ったのは1908年のことで、翌年に柳田は遠野を訪問しています。
一般的なイメージの説話だけでなく、怪談のような話も多くて遠野物語というと「怖い」と思っている人も多いかもしれません。けれども、この本を読むと私たち日本人の原風景を見ているような気分になります。ぜひ読んでみてください。
エリート一家で育った国男
国男は両親と父方の祖母、それに5人の兄と2人の弟の11人家族で育ちました。8人兄弟の6番目ということになります。
国男の育った松岡家は医者の多い家系で、現在の言葉でいう「エリート一家」です。たとえば父・松岡操は医者をしながら、儒学や国文学を教える教育者でもありました。また操の母で国男の祖母・小鶴も女性でありながら医術に詳しく、儒学や算術もできる教育者であったといいます。
さらに国男の兄弟も、医者でありながら郡会議員を務めた長男・鼎や、眼科医でありながら歴史を研究し、歌人でもあった三男・通泰など優秀な人材揃いでした。いくつかの職業を兼ねている人が多く、国男自身も官僚でありながら民俗学の研究をしているので、家系自体に資質があったことが感じられます。
国男は27歳のときに柳田直平の養子となり、3年後に柳田家の四女・孝と結婚します。直平は旧飯田藩士で、1894年から1904年にかけて大審院判事を務めた人物です。2人の間には1男4女、5人の子どもが生まれました。
子どもたちのうち、長男・為正は生物学者になりました。お茶の水女子大学の名誉教授も務めた人物です。4人の娘たちのうち、次女・千枝は短編小説「父」で芥川賞候補にもなったのですが、若くして亡くなっています。