後鳥羽上皇は文武両道に優れた、最強の天皇と言われています。平安時代と鎌倉時代の変わり目に生まれ、国内で絶大な権力を握りました。
源氏一族が滅亡した後、幕府を支配下に置こうと執権・北条義時追討の兵を挙げたのが承久の乱です。しかし幕府側の武力に抑えられ、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、生涯都に戻ることはありませんでした。
また、後鳥羽上皇の歌人としての優れた才能も、見落とせない魅力の一つです。小倉百人一首に歌人として名を連ねているだけではなく、藤原定家と共に新古今和歌集の撰者としても知られています。
ちなみに後鳥羽天皇は後白河天皇の孫にあたります。よく混同されがちな二人の天皇ですが、強力な院政を行ったという点で似ていますね。
この記事では、後鳥羽上皇の業績や和歌、生涯を知ることで、なぜ最強の天皇となっていったのかを考えていきます。そして、後鳥羽上皇が起こした承久の乱は、日本の歴史上の大きな転換点と言われていますが、それはなぜなのか、筆者とともにその理由を解き明かしていきましょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
後鳥羽上皇とはどんな人物か
名前 | 後鳥羽天皇 院号・後鳥羽院 / 隠岐院 諱・尊成(たかひら / たかなり) |
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誕生日 | 1180(治承4)年7月14日 |
没日 | 1239(延応1)年2月22日 |
生地 | 京都 |
没日 | 隠岐 |
配偶者 | 中宮・九条任子(院号:宜秋門院) 女院・源在子(院号:承明門院)は土御門天皇母 女院・藤原重子(院号:修明門院)は順徳天皇母 |
父 | 第80代高倉天皇 |
母 | 藤原(坊門) 殖子・七条院 |
兄 | 第81代安徳天皇 |
埋葬場所 | 大原陵(京都府京都市左京区大原勝林院町) 後鳥羽上皇御火葬塚(島根県隠岐郡海士町中里) |
後鳥羽上皇の生涯をハイライト
後鳥羽上皇は12世紀の終わり頃、平氏が凋落し始めた激動の時代に生まれました。幼いうちに天皇として祀り上げられるも、2つ上の兄・安徳天皇は在位した状態で、三種の神器も揃わないまま即位という特殊な状況に置かれました。後白河法皇の院政下であったこともあり、後鳥羽上皇は自らの権威を高めようと、文武の才能に磨きをかけます。
周囲の権力者が軒並み他界して後は、自分が上皇として院政を行う立場となり、政治・経済・文化のあらゆる面で権力を握っていきました。後鳥羽上皇と同じく和歌を好んだ3代将軍源実朝と共に、公武協調を進めようと考えていた矢先、実朝が暗殺され、後鳥羽上皇の描いていた未来は覆されてしまいます。
後鳥羽上皇は幕府を自分の手の内に収めようと承久の乱を起こしますが、下級御家人の心を掴みきれずに負けてしまい、隠岐へ流されることになりました。隠岐では和歌の才能にさらに磨きをかけるも、都に戻ることはできずに亡くなりました。
後鳥羽上皇には怨霊伝説がありますが、本人は生前、自分は崇徳院のように怨霊になって誰かを祟るようなことはしたくないと話していたと言われています。歴史的には、後鳥羽上皇の孫にあたる第88代後嵯峨天皇が即位したことで、後鳥羽上皇の系統に皇位継承権が戻っているため、後鳥羽上皇の霊魂も安らかに眠りについたことでしょう。
承久の乱に敗北し「隠岐の島」へ島流しにあった
承久の乱に敗北した後鳥羽上皇は、荘園を没収され島根半島の北方にある「隠岐の島」に配流されました。後鳥羽上皇は隠岐の島にある真言宗の寺院、源福寺で崩御するまでのおよそ20年間を過ごしています。
天皇の配流先の住まいは御所とは比べ物にならないくらい粗末で、警備付きで暮らしたそうです。上皇の島での生活は勅撰和歌集「新古今和歌集」の歌を添削したり、新たに和歌を作り「遠島百首」を残しています。また手紙を利用して、歌会を催したりもしたそうです。上皇が隠岐の島で作った和歌は700首余りにも及びます。
後鳥羽上皇が崩御すると遺体は火葬され、御骨の大部分は京に送られ大原陵(おおはらのみささぎ)に納められました。また遺骨の一部は源福寺の境内に納められたといいます。
三種の神器が揃わないまま即位した天皇
後鳥羽天皇の即位は異例のものでした。平家と繋がりの深い安徳天皇は帝位についたまま、西国へ都落ちする平氏一門と行動を共にしてしまいます。そのため、都に天皇がいない状況となり、後鳥羽天皇が即位させられたのです。天皇の即位には三種の神器を必要としますが、安徳天皇が持って行ってしまったため、それもない状態で後鳥羽天皇は帝位につきました。
三種の神器が揃わないで即位したことに、後鳥羽上皇は生涯コンプレックスを抱いていたとも言われています。後鳥羽上皇は武芸にも和歌にも長けたマルチな才能の持ち主だったようですが、三種の神器が無い代わりに、努力を重ね、人間的価値を高めることで天皇の権威を裏付けようとしたのかもしれません。
政治力と経済力を一手に握っていた時の権力者
13世紀初め、後鳥羽上皇は、武家はもちろん公家にも物申す人がいないほど、絶大な政治権力を持った治天の君でした。それだけでなく、皇室がバラバラに持っていた荘園を全て自分のもとに集めていました。当時、経済的にも飛び抜けた力の持ち主だったのです。
後鳥羽上皇は和歌の名手と言われますが、文化的優位性を見せつけることは公家や武士たちを従わせることにもつながりました。実際、源実朝は和歌によって後鳥羽上皇との繋がりを持つわけですが、政治や経済だけではなく、文化でも力を見せつけることで、後鳥羽上皇は圧倒的権力者になっていったわけです。
重要文化財の太刀「菊御作」は天皇家の紋章「菊紋」の源
茎(なかご)に菊紋がある太刀は「菊御作」と呼ばれていますが、これは後鳥羽上皇が鍛造したものと言われています。後鳥羽上皇が菊を好んでいたことから彫られたようですが、後にこれが皇室の紋章として使われるようになります。「菊御作」は全国に数振り残されていますが、どれも重要文化財に指定されています。
後鳥羽上皇が刀作りまで手掛けたその理由は、三種の神器のうち、最後まで草薙剣だけが見つからなかったからではないかと言われています。後鳥羽上皇は、自らの権威の象徴として刀を作ってしまえば良いと思ったのかもしれません。
墓守りの子孫が演歌歌手に?
演歌歌手の仁支川峰子さんの元夫が、隠岐の島で後鳥羽上皇の墓守と務めていた旧家の49代目、村上隆氏さんです。なので厳密にいうと、墓守の嫁が演歌歌手ということになります。しかし仁支川峰子さんは、当時隠岐の島の町議会議員であった村上さんと結婚しましたが、2009年に離婚しています。
上皇の源福寺に納められた墓は、江戸時代に入るまでただ石が置いてあるだけの状況だったそうです。そこで江戸時代に修復され廟(立派なお墓)に建て直しています。ここが明治になり廟が御陵に準ずる扱いとなり、「御火葬塚」と定めています。
この時に御火葬塚の管理を任されたのが、庄屋だった村上家だったそうです。それから村上家が御火葬塚の守部を務めています。
後鳥羽上皇の代表的な和歌
後鳥羽上皇は新古今和歌集時代を代表する優れた歌人です。文武両道で多方面に秀でた天皇でしたが、和歌にも非常に傾倒し秀作を多く残しています。代表的な後鳥羽上皇の歌を3つあげると、
「ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香久山 霞たなびく」
訳は「ほのぼのと春が空にやって来たらしい。天の香具山に霞がたなびいていることよ」といった意味です。新古今和歌集に収録されている歌です。天の香具山に咲く桜の花びらが霞のようになり、空にたなびいているというまるで錦絵のような情景が思い描かれる歌です。
「み吉野の 高嶺の桜 散りにけり 嵐も白き 春の曙」
後鳥羽上皇の春の歌の中でも特に有名な歌です。訳は「吉野地方の山に咲いている桜が散っている。春の夜明けというのは山際だけでなく、桜を散らす風までも、流れる桜の花びらで、白くて趣があることだ」です。枕草子の「春は曙…」の下りを踏まえて春の夜明けに花びらの嵐を表現している美しい歌です。
「奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らしむ」
後鳥羽院が29歳の時に歌合わせで詠んだ歌です。訳は「奥山の草木の茂り合っている下も踏み分けて、本来、道がある世だと、天下の人に知らせよう」という心でしょうか。武家政権を本来の道に戻したいという強い志が見える歌として知られています。