「イラン革命ってどんな革命?」
「イラン革命と石油危機は関係あるの?」
「イラン革命とアメリカの関係って何?」
この記事をご覧の方は、そんな疑問を持っているかもしれません。イラン革命とは、1979年におきたホメイニを指導者とするイスラム革命のことです。この革命により、イランのパフレヴィー朝は倒れ、イラン・イスラム共和国ができました。
この革命はパフレヴィー朝の「白色革命」が原因で発生しました。シーア派の中の十二イマーム派の法学者(ウラマー)であるホメイニを指導者とする革命で、革命後、イランと欧米諸国、特にアメリカとの関係が悪化します。
今回は、イラン革命の内容やイラン革命と石油危機の関連、革命後のイランの政治についてわかりやすくまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
イラン革命とは
イラン革命とは、1978年から1979年にかけて、中東のイランで起きたイスラム革命のことです。それまでイランを支配していたパフレヴィー朝の皇帝パフレヴィー2世はアメリカに亡命し、かわってイスラム法学者のホメイニが権力を握ります。
革命の直前、イランではパフレヴィー2世による政教分離の近代化政策「白色革命」が行われていました。その裏で、貧富の格差が拡大し庶民はイスラム教シーア派の信仰に基づく生活や政治を望むようになります。
革命後、ホメイニはイスラム教シーア派の協議にもとづく宗教政治を行いました。くわえて、革命政権はそれまでイランの原油を採掘していた国際石油資本から石油資源を取り戻し、石油輸出を減らします。このことが、第二次石油危機の原因となりました。
また、パフレヴィー政権の後ろ盾となっていた欧米、とくにアメリカとの関係は悪化し、アメリカ大使館人質事件により両者の対立は決定的となり現在に至ります。
革命の原因はパフレヴィー朝の「白色革命」
パフレヴィー朝とは
パフレヴィー朝は1925年にレザー=シャーが開いたイランの王朝です。パーレビ朝、パフラヴィー朝とも表記されます。初代皇帝のレザー=シャーはカージャール朝の将軍でした。この王朝は1978年のイラン革命まで存続します。
パフレヴィー朝の皇帝は初代のレザー=シャーと息子のパフレヴィー2世の二人です。二人とも、イスラム教と距離を取り、政教分離の姿勢を示しました。父のレザー=シャーは隣国であるソ連やイギリスの干渉を排除しようとして失敗し、退位に追い込まれます。
かわって息子がパフレヴィー2世として即位します。第二次世界大戦中、イランはソ連とイギリスの軍事支配を受けました。戦後、外国軍は引き上げますがイギリスによる石油資源の支配が続きます。
1951年、イランの首相モサデグは石油資源の国有化をはかりました。しかし、これを嫌ったアメリカが独裁権力を欲していたパフレヴィー2世を動かしモサデグを失脚させます。この事件をイラン=クーデタといいました。これにより、パフレヴィー朝は皇帝による独裁政権となります。
「白色革命」とは
独裁権力を手に入れたパフレヴィー2世は、1961年から極端な西欧化政策を始めました。彼が始めた一連の強制的な西欧化政策を「白色革命」とよびます。白色革命の背景には彼を支援するアメリカの要請がありました。
「白色革命」の内容は、婦人参政権や土地改革、労働者への利益分配などの6項目で、いちおう、国民投票にかけられます。投票結果は90%の賛成でしたが、これは政府による干渉の結果でした。この後、イラン政府は工業近代化などを推し進めました。
ちなみに「白色」の白は皇帝権力を表します。白色革命の実施に伴い、議会は停止され改革に反対する学生やイスラム教シーア派の法学者が政権により弾圧されました。
こうして、白色革命はすすめられましたが、国民生活は一向に楽になりませんでした。なぜなら、石油資源はイギリスやアメリカの国際石油資本に支配され、一部の人しか潤さず、多くの国民が恩恵を受けられなかったからです。その結果、貧富の差が拡大し白色革命の恩恵を受けられない人々は皇帝や政府にたいして反感を募らせました。
しかし、イラン国民の不満の声を皇帝や政府は十分にくみ取ろうとしません。そればかりか、秘密警察を使って反対派を弾圧するようになります。国民は近代化政策に強い不満を抱き、イスラム教の教えを中心とした政治にするべきだと考えるようになります。