李世民は唐の二代目皇帝となり、中国全土を統一した人物です。皇帝としては太宗ともよばれます。彼は中国史上まれにみる名君とされ、彼が行った政治は「貞観の治」として後世まで語り継がれました。
若いころは軍事的才能をいかんなく発揮し、父親で唐の初代皇帝となる李淵を支えます。さらに、李世民のもとには多くの人材が集いました。彼は優秀な人材を使いこなし、次々と戦闘に勝利します。
皇帝となってからは重臣たちの意見をよく聞き、唐王朝の政治システムを整えます。こうした太宗・李世民の言行をまとめた『貞観政治要』は統治者にとって重要な書物とされ、帝王学の教科書としても使われました。
今回は政戦両略に長け、中国歴代皇帝の中でも理想の君主とされる唐の太宗、李世民の生涯についてわかりやすくまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
李世民とはどんな人物か
名前 | 李世民 |
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誕生日 | 598年12月16日 |
没日 | 649年7月10日 |
生地 | 陝西省咸陽市武功県 |
没地 | 長安 |
配偶者 | 長孫皇后 |
埋葬場所 | 昭陵 |
李世民の生涯をハイライト
李世民は598年に隋の重臣である唐国公李淵の子として生まれました。兄はのちに皇太子となる李建成、弟には李元吉などがいました。
617年、李淵は高句麗遠征の失敗など失政続きの煬帝に対し反旗を翻します。このとき、李淵の背中を押して反乱に踏み切らせたのも李世民でした。その後、彼は軍を率いて長安を攻め落とします。目覚ましい李世民の活躍に、李淵は「天策上将」の称号を与えました。
軍を率い各地の群雄を討伐する李世民に対し、皇太子の李建成は警戒心を強めます。李建成は李世民の力をそごうと、彼の謀臣である杜如晦や房玄齢を遠ざけました。皇太子との対決が避けられないと悟った彼は玄武門の変で李建成と弟の李元吉を討ちます。皇太子らの死を知った李淵は李世民に皇帝の位を譲りました。
皇帝となった李世民は、即位の翌年に年号を貞観と改めます。統治にあたって彼は臣下の言に耳を傾け、善政を心がけます。そして、唐の政治システムである三省六部を定めました。さらに、東突厥に出兵し滅亡させ遊牧民族の脅威を取り除きます。
晩年は自分の後継者をなかなか決めることができず苦労しました。彼は多くの子の中で最も凡庸な子を後継者にしてしまい、のちに則天武后の台頭を招きます。また、644年に行った高句麗遠征が失敗に終わるなど、晩年はづまづきが多く見られました。
若いころから優れた将軍として武勲を上げた
李世民の初陣は16歳の時です。隋の皇帝煬帝が北方を視察中に雁門で突厥の大軍に包囲されました。援軍を要請された李淵は雲定興という将軍を派遣します。この救援軍に参加したのが彼の初陣でした。
また、父李淵が敵軍に包囲された時は軽騎兵を率いて父を助けました。617年に李淵が挙兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公として隋の都長安を攻め落としました。そして、長安平定の功績により爵位が秦国公に上ります。
その後も李世民は李密、薛仁杲(せつじんか)、王世充(おうせいじゅう)、竇建徳(とうけんとく)といった名だたる群雄を平定します。この功績に対し、李淵は従来の役職では不足として「天策上将」という称号を彼のために新設しました。彼の武勲の巨大さがうかがえます。
中国史上屈指の名君
唐の皇帝となった李世民は太宗と呼ばれます。太宗の時代、唐は政治的にも安定し唐の全盛時代となりました。このことから、太宗・李世民が統治した時代を「貞観の治」とよんで理想の政治が行われた時代と評するようになります。
では、何がそんなにすごかったのでしょうか。彼は、優秀な人材を積極的に登用します。その協力によって突厥との戦争や国内制度の整備などを着実に進めていきました。彼らが進めた政治改革により唐の民は税の引き下げや刑罰の軽減などの恩恵を受けます。
また、信賞必罰を徹底したのも李世民のすばらしさだといえます。彼は皇帝になっても自ら兵の訓練を視察し、優秀なものには褒美を与えやる気を引き出しました。これにより、唐軍の力は飛躍的に高まります。
部下の進言によく耳を傾けた
李世民は部下の言葉によく耳を傾けた君主として後世まで語り継がれます。彼と臣下の会話は『貞観政要』に残されています。彼は、臣下が忠告や諫言をしやすい環境を整えました。彼は、必ず温顔(穏やかで優しい顔つき)で接するようにしました。
環境を整えられた部下たちは、遠慮なく彼に還元します。中でももっとも彼を戒めたのが魏徴でした。魏徴はかつて李建成の側近でした。玄武門の変で李建成が死ぬと、李世民は魏徴の率直さを評価して諫義大夫に昇進させ遠慮なく意見を言わせました。
彼は李世民がかんしゃくを起こしたり、冷静さを欠く言動をするたびに諫めます。その数、200回以上に及びました。普通、小言をこれだけ言われれば相手を見るのも嫌になるかもしれません。しかし、太宗は筋が通った諫言をことのほか喜んだといいます。