江戸末期、尊王攘夷の思想が渦巻いていた京都において尊王攘夷の志士たちを恐れおののかせた新撰組。
今回解説していく近藤勇はこの新撰組の局長であり、池田屋事件や禁門の変などで功績を挙げることになります。
しかし、その一方で幕府が崩壊すると近藤勇は新政府軍に捕らえられ、斬首されるという悲劇的な最期を遂げていました。
この記事ではそんな近藤勇がどのような生涯を送り、そしてどのような功績を挙げていったのかについて迫っていこうと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
近藤勇ってどんな人?
名前 | 近藤勇 |
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誕生日 | 1834年11月9日 |
生地 | 武蔵国多摩郡上石原村 |
没日 | 1868年5月17日 |
没地 | 板橋刑場 |
配偶者 | 松井つね |
埋葬場所 | 龍源寺(東京都三鷹市) |
近藤勇の生涯をハイライト
新撰組局長として名高い近藤勇はどのような人生を送ったのでしょうか。はじめに簡単にまとめて説明したいと思います。
近藤勇は1834年、武蔵国多摩郡(現在の東京都調布市)に百姓の息子として生まれました。幼い頃から剣術に親しんでいた近藤は1848年に天然理心流の道場「試衛館」に入門。1861年に才能が認められ、天然理心流の師範となりました。
師範になって2年、近藤は土方歳三を含めた道場の門下生8人と共に、幕府が募集する浪士組(後に新撰組と呼ばれる)に応募します。思想の違いや当時の浪士組の隊長芹沢鴨との対立など数々の障害にあいながらも、近藤と近藤を慕うものたちはなんとか新撰組を安定させました。
1864年、敵対関係にあった長州藩の暗殺計画を知った近藤たちは池田屋事件を起こします。新撰組は池田屋に潜んでいた長州藩約20名を斬り、生き残った者の捕縛に成功しました。この事件をきっかけに、新撰組の名が世間に知れ渡りました。
第二次長州征伐、将軍徳川家茂の死亡を受けて、近藤たちは京都へ帰還します。1867年には京都での活動が認められ、幕府直属の家臣になりました。しかし幕府はわずか1年で崩壊してしまいます。
1868年、近藤が所属する旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽伏見の戦いが起こりました。しかし新兵器を持っていた新政府軍に、旧幕府軍は太刀打ちできません。戦いは新政府軍の勝利に終わり、新撰組は江戸へと撤退しました。
追いつめられた近藤たちは、新撰組の恩人である松平容保が治める会津へ逃げのびようとするのですが、下総国流山で新政府軍に捕まってしまいます。近藤は、新政府軍の手により板橋刑場で斬首されました。その首は、新撰組が名を轟かせた京都の三条河原にて晒し首となったのです。
近藤勇はやさしくて穏やかだが頑固な性格をしていた
近藤勇の性格について、彼のことをよく知っている人の証言がいくつかあります。
温厚な人だった。決して無鉄砲な乱暴者ではない。
愛嬌があって、いつもニコニコと笑っていた。
強情者だった。
武勇と豪胆さでは抜きん出ていて、寡黙な人だった。多くの豪傑を束ねたのもうなずける。
彼らの証言からも、やさしくていつもニコニコしているが、頑固なところもある人であることが伝わってきます。他にも、処刑されるさいに一緒に捕まった仲間2人の命乞いをする、という仲間思いなところが伝わるエピソードも存在します。
幼い頃は、三国志の英雄関羽や忠臣蔵の大石内蔵助など、忠誠心にあつい人物に憧れていました。近藤の信念の固さは、ここからきているのかもしれませんね。
近藤勇、天然理心流との出会い
近藤勇と天然理心流との出会いは、父親の過去がきっかけになっています。
近藤の父、久次郎が子どもの頃、家に強盗が押し入りました。そのことから武術の必要性を感じ、自宅に道場を作って出稽古を受けるようになりました。
このときに招かれたのが、天然理心流三代目の近藤周助です。久次郎は近藤を含めた子どもたちに竹刀と防具を与え、剣術に親しませました。これが、近藤勇と天然理心流の出会いです。
天然理心流の道場「試衛館」は貧乏だった?
新撰組が活躍する小説などを読むと、試衛館は貧乏道場というイメージを持ちます。しかしそれはフィクションで、実際は違いました。
確かに天然理心流は、当時人気だった派手な竹刀稽古とは違い、実戦に適した地味な剣術を教えていたため人気がありませんでした。
しかし、その頃の試衛館には多摩の農家の息子や他流の剣士が食客として出入りしています。大飯食らいの彼らを養っていたことを考えると、貧乏道場というほど余裕がなかったわけではないでしょう。少なくとも、彼らを養えるだけの財力を試衛館は持っていました。
近藤勇が指揮していた新撰組とは?
近藤勇が隊長として組織した新撰組という組織は今風にいう所の京都の警察みたいな組織でした。
幕末の京都には尊王攘夷という「天皇を大切にして外国人を追い払う」という考え方が浸透しており、京都にはこの考えに反する人たちを天誅という形で殺害する事件が後を絶たないほど危険地帯となっていました。
そこで新しく創設された京都守護職に就任した会津藩主である松平容保は近藤勇ら浪士を使って京都にいる尊王攘夷の志士たちを捕縛する必要が生まれ、新撰組が誕生しました。
ちなみに、幕府が崩壊すると新撰組もその役割を失い、最後には甲州(山梨県)の防衛をする部隊に変更されることになります。
どうして近藤勇は処刑されたのか?
近藤勇といえば最期に新政府軍によって処刑されてしまったことでも知られていますが、実は元々新政府軍は近藤勇を処刑するつもりはなかったとされています。
当時新政府軍は薩長土肥という形で薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の武士が中心となっていました。
この当時、近藤勇の処分を決めていたのは薩摩藩と土佐藩でしたが、薩摩藩の方はというと新撰組とはあまり関わっておらず、そこまで敵視していなかったため、懲役刑、重くても遠島(島流し)にする予定だったそうです。
しかし、問題は土佐藩の方でこの当時土佐藩のヒーローとしても知られていた坂本龍馬が近江屋で暗殺されたばかりであり、しかもその犯人がこの当時新撰組のメンバーだと言われていたのです。
ですから土佐藩からしたら近藤勇は故郷の有名人を暗殺した敵中の敵。
土佐藩の谷干城は近藤勇は浮浪の者だから斬首が相当としてこの主張を押し切り、最終的には武士としてはありえない斬首で処刑されることが決まったのです。
近藤勇の首の行方とは
板橋で斬首された後、近藤勇の首は京都に送られ三条河原に晒されることになります。
三条河原は東海道の起点である三条大橋の近くにあり、江戸時代には晒し首と言ったらここで言われるほどの代名詞であり、ここで晒されたのは特別な心情はなかったとは思いますが、この三条河原の近くには新選組が襲撃した池田屋が近くにありました。
その後、晒された首は行方が分かっておらず、粟田口という場所で埋葬されたという説や、新撰組のゆかりの地である大谷山東本願寺に埋葬されたという説があります。