「薔薇戦争ってどんな戦争?」
「百年戦争と一緒に覚えたけど繋がっているのかな?」
「名前はインパクトあるけど、どういう戦争なんだろう?」
薔薇戦争は百年戦争が終わった後のイギリスで、1455年~1485年の30年間に起こった王位継承権を巡った内乱で、「ランカスター家」と「ヨーク家」の争いです。この戦いで封建領主層が没落し、王権が強化されました。
イギリスは、百年戦争が終わった後も内乱で30年も戦争していたのです。この戦いも名前は可憐ですが、内容は血塗られた歴史が眠っています。そんな薔薇戦争がどういった戦争だったのか、紐解いていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
薔薇戦争とはどのような戦争だったのか?
名前のインパクトがある「薔薇戦争」ですが、どういった戦争だったのかは日本ではあまり知られていません。「薔薇戦争」は後のイングランドの政治体制を決めるきっかけとなる戦争でした。
薔薇戦争の名前の由来
イギリス国の内乱が何故「薔薇戦争」という名前かというと、王位継承権を争った「ランカスター家」は「赤薔薇」、「ヨーク家」が「白薔薇」の家紋だったのに由来します。この名称は、後に「ウォルター・スコット」という人が「ガイアスタインのアン」という本を書き、そこで内乱を「薔薇戦争」と呼んだことから後世その呼び名で呼ばれるようになりました。
勝者は?薔薇戦争の結末は?
ランカスター家とヨーク家という二つの王家の権力闘争で、最後に勝ったのはランカスター家の分家だったデューダ家でした。元々争っていたランカスター家でも、ヨーク家でもなく最終的には新しい勢力だったデューダ家だったのです。ヘンリー・デューダがヘンリー7世として即位し、絶対王政を確立していきました。
薔薇戦争の内容を時系列に紹介
一言で言うと「イングランドの内部抗争」といえる薔薇戦争ですが、その戦争の内容を知るには100年ほど前の出来事から説明をしなければなりません。また要約しようにも、かなりの登場人物と事件が起こります。その内容を外して薔薇戦争を書くのは難しく、長くなりますができるだけ簡単に説明したいと思います。登場人物が大勢出てきますので、家系図を見ながら読んでください。
イングランドの王位継承権問題
「薔薇戦争」は百年戦争を開戦させたエドワード3世の子孫が起こした戦争です。まず薔薇戦争の大きな要因を作ったのがこのエドワード3世でした。彼には百年戦争で大活躍したエドワード黒太子の他に成人した4人の息子がいて、それぞれクレランス・ランカスター・ヨーク・グロスターの4つの公爵家を作りました。
この公爵家の王子たちが王位継承権を争って「薔薇戦争」は起こっていきます。エドワード3世は1377年になくなりますが、その前年に黒太子も亡くなっていたので黒太子の息子リチャード2世が王位につきます。しかし王は子供が出来ないまま崩御してしまいます。
当時のイングランド王位継承は「長男子相続権法」に基づき次男であるクレランス公のマーチ伯エドマンド・モーティマーが相続するはずでした。しかし1399年にエドワード3世の3男であるジョン・オブ・ゴーンドが亡くなってしまうと、リチャード二世はゴーンドの息子のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)の領地を没収し、さらに国外追放してしまいました。
そこでヘンリー・ボリングブルックが王に反感がある貴族たちの支持を受けて、リチャード2世を廃して、ヘンリー4世として即位しました。これをランカスター朝といいます。
本来王位継承権を持っているはずのクレランス公エドワード・モーティマーを支持する人は誰もいませんでした。これが「薔薇戦争」が始まる予兆です。