ウィーン会議とは?目的や内容、参加国、議長まで分かりやすく解説

「ウィーン会議で決まったことが知りたい?」
「ウィーン会議の議長や参加国は?」
「ウィーン会議の風刺とは?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?ウィーン会議とは、1814年から1815年にかけて、オーストリアの首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿で開かれたナポレオン戦争の戦後処理会議のことです。

ウィーン会議の目的はフランス革命やナポレオン戦争によって崩壊したヨーロッパの秩序を再建し、各国の領土を再編成することでした。ところが、会議は各国の利害が複雑に絡み合い、なかなか結論を出せず「会議は踊る」と皮肉られました。

今回は、ウィーン会議の目的や参加国、基本原則、会議の決定事項などについてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ウィーン会議とは

ウィーン会議の様子

ウィーン会議とは、ナポレオン戦争後の国際秩序の再編を目指してヨーロッパの主要国が集まって開かれた国際会議のことです。会議ではヨーロッパをナポレオン戦争以前の状態に戻す正統主義を基本理念とし、各国の領土を再編することなどを目指しました。

しかし、会議がはじまると各国は自国の領土を少しでも広げようと有利な条件を模索します。そのため、なかなか会議がまとまりませんでした。その間、舞踏会ばかりが開催されたので「会議は踊る」と揶揄されます。

会議の流れが一変したのはナポレオンが追放先のエルバ島から脱出してフランス皇帝に復位したとの知らせが届いたときです。各国は急いで合意を形成し、1815年6月にウィーン議定書を調印しました。この会議でつくられた保守的な国際体制をウィーン体制といいます。

目的はナポレオン戦争の戦後処理

会議開催の目的はナポレオン戦争の戦後処理でした。戦争の発端となったフランスではブルボン家の王政が打倒され、王家の生き残りが復権を目指していました。また、フランスに敗れ多くの領土を失っていたオーストリアやプロイセンなどは領土の復旧を目指します。

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さらに、戦争で多くの犠牲を払ったロシアやナポレオン戦争勝利の立役者であるイギリスは少しでも多くの利権を獲得しようとします。こうした状況で各国は自国の利害を最優先としたため、会議はなかなか妥結しませんでした。

ナポレオンが追放されたエルバ島の位置

各国のいがみ合いを止めたのは皮肉にも戦争の元凶とされたナポレオンでした。ナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを受けると、領土争いをしている場合ではないと考えた各国は一転して団結し戦後処理を確定させます。その後、各国は連合軍を再結成し、ナポレオンをワーテルローの戦いで破り、ウィーン議定書の内容を確定させます。

ウィーン会議の参加国

参加した国々

ウィーン会議にはナポレオン戦争の戦勝国である4つの国、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアと敗戦国であるフランスが参加しました。イギリスの代表は外務大臣のカスルレーとナポレオン戦争の勝利の立役者となったウェリントン公です。

ウィーン会議に自ら乗り込んだロシア皇帝アレクサンドル1世

ロシアからは皇帝アレクサンドル1世が自らウィーンに乗り込みます。国王自らが参加したのはプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世、オーストリアのフレンツ1世も同様でした。そして、敗戦国であるフランスからはブルボン朝の代表としてタレーランが送り込まれます。

会議の議長はオーストリアのメッテルニヒ

ウィーン会議で議長を務めたオーストリアの宰相メッテルニヒ

会議の議長にはホスト国であるオーストリアの宰相メッテルニヒが選ばれました。クレメンス・フォンメッテルニヒは神聖ローマ帝国のトリーア選帝侯国に生まれました。彼は伯爵家の子息で、若いころフランスのストラスブール大学で学びます。

1789年にフランス革命が勃発すると、ストラスブールも革命軍の支配下に入ります。翌年、混乱を避けるためメッテルニヒはフランクフルトに移住します。その後、オーストリア皇帝レオポルト2世の戴冠式で儀式を司る式部官の一人となりました。

ナポレオン戦争が本格化したころ、メッテルニヒはオーストリアの大使としてベルリンやパリで活動します。彼が活躍できた理由は皇帝フランツ2世の信任が厚かったからです。そして、1809年にはオーストリアの外相となりました。ナポレオン戦争中に著名な外交家となっていたメッテルニヒの議長就任に異論を唱える国はなく、全会一致で議長に選出されます。

基本原則は正統主義

正統主義を主張したフランス外相タレーラン

ウィーン会議の基本理念は、ヨーロッパをフランス革命の前の状態に戻すことでした。こうした考え方を正統主義といいます。正統主義を唱えたのは敗戦国フランスの代表だったタレーランです。彼は正統主義を主張することで、ナポレオン戦争前のフランス領を守ろうとしたのです。

この考え方は他の絶対主義諸国にとって非常に受け入れやすいものでした。なぜなら、他の国の君主たちにとってフランス革命の再来は悪夢であり、自国でそのようなことがおきないようにするための大義名分が欲しかったからです。

こうして、タレーランの思惑と各国君主の利害が一致したことにより、敗戦国が主張する原則が戦後処理会議で採用されるという非常に珍しいことがおきました。これで、フランスは領土の大幅割譲や多額の賠償金支払いなどを逃れることができました。

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