鎌倉時代の年表を詳しく知りたい!
鎌倉時代の出来事と起こった年を知りたい!
鎌倉時代の歴史の流れはどんなものなの?
鎌倉時代といえば、源氏の鎌倉幕府、元寇、仏教が発達した・・・などと覚えている人が多いかもしれません。一方でいつどんな出来事があり、どんな歴史だったのかじつはよくわからないという人も多いのではないでしょう。
ここでは簡単な解説とともに年表形式で鎌倉時代をご紹介します。年表で見ることで、出来事の理由や目的も見えてくるはずです。そして、歴史の流れも一目で知ることができます。
また、最後に出来事の覚え方も紹介しているのでぜひ参考にしてみてください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
鎌倉時代はいつからいつまで
鎌倉時代は、平安末期に政権を握っていた平氏を倒した源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開いて始まりました。鎌倉時代の始まりは現在では1185年とするのが一般的です。
1185年に壇ノ浦の戦いで平家を倒した源頼朝は、朝廷から地方の役職である守護・地頭の設置権を与えられました。これは源氏が地方の統治も任されたことを意味しており、ここから鎌倉幕府の時代が始まったと考えられています。
鎌倉時代とはどんな時代?特徴や出来事をわかりやすく簡単に紹介
そして終わりは鎌倉幕府が新田義貞によって滅ぼされた1333年とするのが主流です。年表では1185年から1333年の出来事をご紹介します。
鎌倉時代年表「鎌倉幕府の成立から執権政治へ(1185年〜1221年)」
1185年 – 「平家が壇ノ浦合戦で滅亡」「源頼朝が全国に守護・地頭を置く」
1185年の3月、壇ノ浦の合戦で源氏が平氏一門を滅ぼします。平氏の棟梁宗盛をはじめ、平氏の主だった武将は戦死、または捕らえられ平氏は滅亡しました。
そしてその年の11月、源氏の棟梁・源頼朝が全国の守護・地頭の設置権を認められます(文治の勅許)。これにより源氏の全国支配がはじまりました。これをもって鎌倉時代の幕開けとするのが一般的です。
1189年 – 「頼朝が奥州藤原氏と弟の義経を滅ぼす」
1189年、頼朝は弟の義経が逃げ込んだ奥州藤原氏を義経ともども滅ぼします。東北に絶大な権力をおよぼしていた藤原氏を滅ぼしたことで、平氏と源氏の戦いから続いていた内乱に終止符が打たれました。
また、源氏の支配が東北にもおよび実質的な全国支配がはじまります。
1191年 – 「栄西が臨済宗を伝える」
宋から帰国した栄西(えいさい)が禅宗である「臨済宗(りんざいしゅう)」を日本に広めます。臨済宗は幕府や朝廷の庇護を受け、1202年には建仁寺が開かれました。
1192年 – 「源頼朝が征夷大将軍に就任」
源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、名実ともに鎌倉幕府の支配者となりました。征夷大将軍とはもともとは蝦夷(東北地方の人々)を征討する将軍の意味でしたが、頼朝がこの称号を得て以降は、武家政権のトップの職となりました。
頼朝は御家人たちの土地の支配を認めたり、与えたりする「本領安堵」や「新恩給与」を行ない、御恩と奉公と呼ばれる主従関係を確立しました。このような土地を通じた主従関係を元にした社会を「封建制」と呼びます。
1199年 – 「源頼朝が死亡、頼家が跡を継ぎ合議制に」
1月に源頼朝が亡くなり、家督を18歳の息子・頼家(よりいえ)が継ぎ、2代目の鎌倉殿となります(将軍就任は1202年)。
若い頼家の独断専行をさけるため、鎌倉幕府は頼家の外祖父の北条時政ら有力御家人の合議制をとったとみられています。
1200年 – 「梶原景時の変(有力御家人の排斥)」
合議制に加わっていた有力御家人の梶原景時(かじわらかげとき)が、多くの御家人から糾弾されて滅ぼされます。この背景には頼家を支持する景時に対し、弟の実朝を推す北条氏の陰謀があったようです。
ここから北条氏を中心とする御家人同士の勢力争いが激しくなります。
1203年 – 「比企義員の変(有力御家人の排斥)」「実朝が3代将軍になり、北条時政が執権へ」
比企能員(ひきよしかず)が源頼家の外戚として台頭するのを恐れた北条時政は、比企能員を呼び出して殺害。比企氏を滅ぼします。
こののち頼家は将軍位を奪われ、その弟の実朝が3代目の将軍になります。そして北条氏が執権となり幕府の実権を握りました。
1205年 – 「牧氏事件で執権が北条時政から義時へ」「『新古今和歌集』編さん」
時政と後妻の牧の方は、さらに政権独占を狙い娘婿を将軍に付けようと画策。しかし時政は息子の義時も含めて御家人らの支持を得られず失脚しました。義時が第2代執権になります。
なお、この年京都では歌人の藤原定家が、後鳥羽上皇の命で日本三大和歌集のひとつ『新古今和歌集』を編さんしました。
1206年 – 「チンギス・ハンがモンゴル統一」
モンゴル高原ではチンギス・ハンが騎馬遊牧民族を統一し、モンゴル帝国を建国しました。モンゴル帝国は子孫のフビライ・ハンの時代に版図を広げて元となり、日本に遠征(元寇)をします。
1212年 – 「『方丈記』成立」
鴨長明が日本三大随筆のひとつ『方丈記』を完成させました。無常をテーマにした随筆です。
1213年 – 「和田合戦(有力御家人の排斥)」
有力御家人和田義盛が挙兵するも討伐された和田合戦が起こります。
義盛は鎌倉幕府創業の功臣で侍所の別当職にある有力御家人。しかし北条義時が侍所の別当職を狙って義盛を挑発し両者は対立。反乱を起こした義盛は一族の三浦氏にも裏切られ、滅ぼされました。
1219年 – 「源実朝が暗殺され、執権政治へ」
鎌倉幕府3代将軍源実朝が、甥にある公暁(くぎょう、頼家の子)に殺害されます。実朝に子がなく、公暁も討伐されて頼朝の直系は断絶ししました。
これにより、鎌倉幕府は京都の摂家から頼朝の遠縁にある藤原頼経を将軍に迎えます。頼経はまだ幼かったため、北条政子が尼将軍として後見し、北条氏による執権政治が確立されました。
1221年 – 「承久の乱」「六波羅探題設置」
幕府の混乱を見た後鳥羽上皇は、朝廷の復権を企て幕府に対して承久の乱を起します。動揺する御家人たちに北条政子が頼朝の恩を訴えた演説は有名です。御家人の大半を味方にした鎌倉幕府が勝利し、敗北した後鳥羽上皇は島流しになりました。
この勝利で幕府は朝廷も実質的に支配下におさめ、朝廷と西日本の監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置。朝廷の力が強かった西日本にも幕府の力が及ぶようになりました。