「オウム真理教事件ってなに?」
「いつオウム真理教事件が起こったの?」
多くの人はオウム真理教という名前を聞くと、地下鉄サリン事件を思い浮かべるのではないでしょうか?しかしオウムは地下鉄サリン事件だけでなく他にも多くの凶悪事件を起こしていて、それらの事件を総称して「オウム真理教事件」と呼んでいます。
この記事ではオウム真理教事件を一覧にして解説するとともに、事件をテーマにした映画や書籍も紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
オウム真理教事件とは何か?簡単に解説
オウム真理教事件とは日本にかつて存在した新興宗教団体「オウム真理教」が、1988年から1995年にかけて引き起こしたテロや事件の総称です。
オウム真理教とは?起こした事件や幹部、修行法を解説【現在の活動も紹介】
オウム真理教の教祖であった麻原彰晃が沸々と世間や政府に対して不満をため込んでいった結果、国家転覆を図り自らがその頂点に君臨しようと考え始めました。それを実現するために教団の信者たちを巻き込んで、数々の凶悪事件を起こしたのです。
麻原彰晃とはどんな人物?生涯年表まとめ【事件の理由や生い立ち、妻や娘についても紹介】
一連の事件で29人が死亡し、負傷者は6000人以上にも及びました。中でも1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件、1994年の松本サリン事件、1995年の地下鉄サリン事件は死傷者数の多さと犯行の残忍さから「オウム3大事件」とも呼ばれています。
社会に与えた影響や裁判での厳罰判決から見てもほかに類を見ない事件であり、「日本犯罪史において最悪の凶悪事件」とされています。
オウム真理教が起こした事件を時系列で紹介
1988年9月22日ー在家信者死亡事件
オウム真理教の信者が修行中に亡くなった過失致死事件です。
1988年9月に行われた教団主催の修行会に参加していた男性信者が、突如錯乱し暴れだしました。麻原の指示によって他の信者たちに風呂場の浴槽の水に逆さまにつけられた男性信者は意識不明に陥ります。心肺蘇生などの応急処置を試みましたが、そのまま死亡してしまいました。
当時オウム真理教は東京都に宗教法人の認可を申請しており、申請取り消しを恐れた教団は死亡した男性信者の遺体を教団内で火葬し証拠を隠滅しました。
1989年2月10日ー男性信者殺害事件
先に紹介した在家信者死亡事件の目撃者だった男性信者を、口封じのため殺害した事件です。教団が起こした初めての殺人事件であり、この事件をきっかけに教団は非合法の活動に手を染めていくことになります。
在家信者死亡事件を目の当たりにした男性信者が、教団の方針に疑問を持ち始め脱会を申し出ます。男性信者が脱会すると在家信者死亡事件が表ざたになると恐れた麻原は、教団幹部を集め男性信者の殺害を指示します。
幹部たちは独房に監禁していた男性信者の首の骨を折って殺害すると、遺体を焼却し骨も粉々に砕いて敷地内に遺棄しました。犯行後麻原は幹部たちに殺人を肯定する教えとして「ヴァジラヤーナの教え」を初めて説いたといいます。
1989年11月4日ー坂本堤弁護士一家殺害事件
オウム真理教問題に取り組んでいた坂本堤弁護士とその家族を、オウム真理教の幹部6人が殺害した事件です。
当時オウム真理教は出家した信者の家族や、教団の活動に不満を持つ人々との間にトラブルを頻繁に起こしていました。坂本弁護士はそんな被害者たちの声をもとにして、1989年5月にオウム真理教の反社会性を批判・追及する「オウム真理教被害者の会」を組織します。
そんな活動を疎ましく思っていた麻原は、幹部たちに坂本弁護士の殺害を指示します。1989年11月4日に坂本弁護士宅に侵入した幹部たちは、坂本弁護士だけでなく妻と当時1歳だった息子も殺害しました。犯行後遺体は実行犯たちによって様々な場所に遺棄されます。
警察は当初から教団の犯行を疑っていましたが、証拠がなく遺体も出なかったため捜査は行き詰ります。結局事件が発覚したのは1995年の地下鉄サリン事件後、実行犯の一人の供述によって坂本弁護士一家の遺体が発見されてからでした。