麻原彰晃とは、日本の宗教家です。オウム真理教を作り、昭和の終わりから平成の始めにかけて、積極的な活動をしていました。
そして、麻原彰晃のもう1つの顔がテロリストでした。彼が命じて行わせた地下鉄サリン事件は、日本で初めてのテロとして、国の内外に大きな影響を及ぼしました。
麻原彰晃は自分が作ったオウム真理教を1つの国家に見立てて、省庁を作って治めていました。自分の気に入った人物を省庁の幹部にして、意のままに動かしたのです。不思議だったのは、側近となった人の中には、高学歴で頭の良い人物が多かったことです。
そんな人たちが麻原彰晃の暴挙に何の疑問も持たずに従い、日本で初めてのテロ事件を起こしてしまったのです。当時、私はこのことにショックを受けた1人でしたが、同時になぜこんなことになったのかを知りたいとも思いました。
麻原彰晃がどんな人物だったのかを丹念に調べることで、少しでも疑問を解決できればと思っています。
この記事を書いた人
麻原彰晃とはどんな人物か
名前 | 麻原彰晃 本名・松本智津夫 |
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誕生日 | 1955年3月2日 |
没日 | 2018年7月6日 |
生地 | 熊本県八代市 |
没地 | 東京都葛飾区小菅 東京拘置所 |
配偶者 | 松本知子 |
埋葬場所 | 未定 |
麻原彰晃の生涯・生い立ちをハイライト
麻原彰晃、本名・松本智津夫は1955年に熊本県八代市で生まれました。9人兄弟の7番目(四男)で、先天性の緑内障のため、左目にはほとんど視力がなかったそうです。
6歳から20歳までは、熊本県盲学校に通うために寄宿舎生活となりました。その後は東大を目指して予備校に通いますが、そこで知り合った石井知子と結婚、鍼灸院や漢方薬局を開きます。それが後々、宗教団体を作ることにつながっていきます。
麻原が作った宗教団体「オウム真理教」が大きくなるにつれて、彼には政治の世界に参入したいなどの野望が生まれます。当然これはまったく上手く行きませんでした。その腹いせのように1995年、オウム真理教は地下鉄サリン事件などの凶悪事件を起こし、麻原彰晃とその側近は逮捕されます。
2004年には死刑が確定、2018年には執行されました。
麻原はなぜオウム真理教を作り事件を起こしたのか?
貧しい家庭で育った麻原彰晃は、全盲でないのに盲学校に入れられたことを親に捨てられたと感じました。彼は大きな不信感に囚われ、金に執着するようになります。信じられるのは金だけという事実が彼の根本になったのです。
その後、結婚して家庭を作った麻原彰晃は鍼灸院や漢方薬局を開きますが、いくら治療をしても本当に患者は救えないという無力感に苛まれるようになります。こうして宗教にのめり込み、結果としては自分で宗教団体を作ることになります。
こうして作られたオウム真理教の中でも麻原彰晃の不信感はなくなることはありませんでした。自分を認めないもの、自分に従わないものはすべて壊してしまいたいという欲求によって次々と凶悪な事件が起こされます。事件の実行犯となった信者たちもまた、世の中への大きな不信感を抱えていたようでした。
麻原彰晃の作った家庭
1978年に、予備校時代に知り合った石井知子と結婚、千葉県船橋市に新居を構え、同時に「松本鍼灸院」を開業します。すぐに3人の女の子(後に4女、長男、次男も加わり6人姉弟に)に恵まれますが、そのころから麻原彰晃は薬事法違反で逮捕されたり、宗教にのめり込んだりしていました。
その結果妻の知子は情緒不安定となり、家出を繰り返したそうですが、娘たちは父親のことが大好きだったようです。
太陽のない世界に、太陽が来た
オウム真理教が誕生するとさらに麻原彰晃は家に帰らなくなります。しかし、次女は父が家に帰ってきたときの喜びをこのように表しています。父親を心の底から信頼していた次女の気持ちが伝わってきます。
麻原彰晃の最後
麻原彰晃は2002年の公判を最後に意味のある発言をしなくなり、意思の疎通が取れなくなりました。これが精神などの病なのか、それとも死刑を回避するために病を偽っているのかが、問題になりました。
これは刑事訴訟法に次のように定められているためです。
死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する
しかし、麻原の娘たち(次女と三女)とかつての側近では意見が違い、病なのかそうでないのかはハッキリと分かっていません。結局、麻原彰晃は側近ら6人とともに死刑が確定、2018年に執行されます。
麻原は死刑執行の際に遺体の引取人について四女と口にしています。このことからは彼が正常だったことが感じられます。長年の拘置所での生活やかつての側近が自分に反旗を翻したことなどで、麻原は現実逃避をしてしまったのではないでしょうか。
麻原彰晃の遺体の行方
麻原彰晃の遺体は、死刑執行の3日後に東京都府中市内の斎場で火葬されました。
遺体の引取人として指定された四女とその弁護士は、埋葬場所が聖地化することを恐れて、遺骨の散骨を希望しました。それに対して麻原彰晃の妻と三女は、遺骨を引き渡すように、法務大臣に要求書を提出しています。
両者の折り合いがつかず、遺骨は東京拘置所に安置されていましたが、2020年に遺骨と遺髪は次女に引き渡されることになりました。死刑執行前の麻原彰晃の言葉は、的確な意思表示とまでは受け取れないこと、度々面会を希望していた次女が遺骨を引き取るのにふさわしいだろうというのが、決定の理由だそうです。
次女が遺骨と遺髪を引き取ることで、教団内部ではそれを神聖視する恐れが出てきてしまいました。これがさらなる暴走につながらないことを願うばかりです。
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