野口英世は手に障害があった?彼の人生を変えた手術と母の愛とは

「野口英世は手に障害を負っていたの??」
「野口英世の手は手術で治ったの?」

東洋人として初めて、アメリカの地で功績が認められ、野口英世の名は世界で知られることとなりました。1928年に自らが研究していた「黄熱病」にかかり命を落としますが、死の直前まで病に苦しむ人々を救うために尽力したのです。

有名な野口英世の肖像
出典元:Wikipedia

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輝かしい経歴が目立つ野口英世ですが、実は幼い頃に負った左手の障害によって、辛い幼少期を経験しています。後に手の手術を受け、症状は緩和されますが、それでも拭えないコンプレックスとして、彼の心に影を落としました。

今回は、野口英世の手が障害を負った原因や、受けた手術で人生が変わったこと、母の偉大な愛について、詳しく解説します。

幼少期の大火傷で手に障害をもった野口英世

幼い頃に大やけどを負いました

1876年に福島県で誕生した野口英世は、1歳のときに自宅の囲炉裏で左手に大やけどを負いました。畑仕事をしていた母が急いで戻ってきたものの、貧しい農家であったため医者に連れて行くことはできませんでした。

自然治癒に任せた結果、野口英世の左手は指同士が癒着し、木の棒のようになってしまいます。農家になれない代わりに、学問の道へ進めるようにと、母は野口英世を小学校へ通わせました。

野口英世は学問に励み、常にトップクラスの成績をおさめました。小学校4年生の頃、「ぼくの左手」という作文を書くのですが、中には手への劣等感を抱く、複雑な思いを綴りました。

この作品は、恩師である小林栄先生を含む多くの大人たちの胸を打ち、寄付金が集まったことで、手術を受けることができたのです。

癒着した指の開放手術

手の手術後、退院した際に親友と撮影した写真
出典元:日本銀行福島支店

野口英世の左手は、物を掴むことすらできないでいました。しかし本人や家族が手術を望んでも、貧しい農家であったために、費用など捻出できるわけもありませんでした。

しかし前述した作文をきっかけに、野口英世に手術を受けさせてあげようと、多くの寄付が集まるようになったのです。そして1892年、現在の会津若松市にあった「会陽病院」にて、渡辺鼎(かなえ)執刀のもと、手の開放手術が行われました。

指が開くようになる

手術を執刀した渡辺鼎医師
出典元:Wikipedia

渡辺鼎は、日本初のインフルエンザの発見や脚気についての新学説を提言するなど、優秀な医師でした。さらに野口英世の手術前にはアメリカへ渡り、現地の外科を習得した人物でもありました。

当時、県内で最も高い技術を持つと言われた医師によって、局所麻酔を用いて手術は進められました。驚くことに有茎皮弁という技術が既に存在し、太ももの皮膚を利用して、5本の指は無事に切り離されたのです。

“注意”
※有茎皮弁:皮膚を移植する際に、採取する組織を完全に切り離さずに一部つなげたままにしておき、血行を温存しつつ移植部位に縫合して固定する手技。

医術の素晴らしさを知る

白衣が似合う凛々しい佇まい
出典元:血脇守之助ホームページ

手術が無事成功すると、癒着していた手は5本の指が広がり、野口英世はこのことに深く感激しました。それまで木の棒のような様相で、物を握るどころか、指を開くことすらできなかったからです。

しかし手術によって、不自由ながらも左手の機能が回復したのです。野口英世は医術の素晴らしさを知り、医術の道へ進みたいと考えるようになりました。

手術を受けても残ったコンプレックス

左手が回復はしたものの

手術を受けても不自由がある左手は、その後もコンプレックスとして残りました。コンプレックスによって、野口英世の人生は大きく変わってゆきます。

教師を諦め医術の道へ

野口英世が描いた、恩師「小林栄」
出典元:小林栄ふるさと記念館

野口英世には、恩師として慕っていた先生がいました。恩師である小林栄先生は、野口英世の才能を見出して高等小学校への進学を奨めた上に、支援までしました。高等小学校時代には4年間担任を勤め、野口英世の手術において手助けもしたのです。

野口英世はそんな先生に憧れ、「自分も教師になりたい」と考えるようになりました。しかし、手術後も残る不自由さ故に、教師の道を諦めることになります。

そして手術によって医術の素晴らしさを知り、野口英世は教師の道を諦めた代わりに、医術の道へ進むことを決意しました。

触診に苦戦し研究者になった

研究者の道へ進む野口英世
出典元:現代ビジネス

医術の道を志した野口英世は、その旨を小林栄に相談しました。すると、「医術を学ぶなら渡辺先生のところがよい」と助言されます。

野口英世は渡辺先生のもとで学ぶため、会陽病院を訪れました。貧しい身なりの少年が訪ねてきたことを怪訝そうに見た受付ですが、渡辺先生は「あのときの少年か」と弟子入りを許可します。

会陽病院で書生として働きはじめると、渡辺先生は仕事の合間に医学と英語を教えてくれました。同時期にドイツ語やフランス語も習得したと言われています。真面目に取り組む姿勢は、次第に渡辺先生から信頼を得るまでになったのです。

19歳で医師免許取得のために上京すると、現在の東京歯科大学の血脇氏のもとで医術を学びました。そして、若干20歳で医師免許を取得します。

しかし、左手が不自由なために触診に苦戦しました。また、医術を深く学びたいという気持ちも湧いたことから、開業医ではなく研究者の道へ進むことにしたのです。

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支えとなった母の偉大な愛

母、野口シカの肖像
出典元:内閣府

野口英世は、見事研究者としての成功を成し遂げましたが、その裏には母の偉大な愛がありました。

実際にどのようなエピソードがあったのか、ご紹介します。

やけどの原因は母にあった?

母の不注意が招いた悲劇

野口英世は、福島県の自然豊かな土地で生まれ育ちました。しかし1歳の冬に事故が起きます。母は畑仕事に行く際、野口英世が寒い思いをしないようにと、囲炉裏のそばに寝かせて出かけました。

その後泣き声が聞こえて家に戻ると、野口英世は囲炉裏の中へ落ちて泣いていたのです。病院に行くお金もなく、結果として左手の指は癒着し、母は自身を激しく責めました。

母なしでは医学者にはなれなかった

仲の良さが伺えますね
出典元:チアーズ

母は、手の障害によって農作業ができない息子のために、学問で食べていけるようにと学校へ通わせます。しかし、当時小学校に通わせるのはとてもお金のかかることでした。

それでも母は以前の何倍も働き、野口英世を高等小学校に進学させたのです。さらに勉学に集中できるようにと、家の畑仕事からも遠ざけました。

しかし野口英世は、周囲から「てんぼう」とからかわれ、不登校になってしまいます。ある日学校に行かないことに対して、母は優しく声をかけました。「許しておくれ、やけどはお母ちゃんのせいだ。辛いだろうが、勉強をやめてしまえば何にもならないよ。お前が勉強する姿を見ることが楽しみだ。我慢しておくれ」

後に野口英世は、自分を責め続けた母に対し、「この母なくして医学者である自分はない」と語っています。

母の愛こそが、野口英世の功績の根本になったのです。

野口英世手に関するまとめ

野口英世は現代でも有名な偉人ですが、彼の人生は手の障害によって苦難の多いものでした。しかし、手の障害がなければ、わたしたちの知る偉大な研究者は誕生しなかったのです。

周囲の愛や、自身の進むべき道のために努力したことが、世界に認められた所以です。

絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ心の平安を乱すばかりだ

人生には辛いこともありますが、状況を変えられるのは自分自身です。野口英世は、自身でそれを証明してみせました。

今回の記事をきっかけに、野口英世の人生は、負った手の障害による悲観的なものだけではなく、コンプレックスと向き合いながらも、懸命に努力を続けた姿があったことを知って欲しいと思っています。

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