御成敗式目とは、鎌倉時代に定められた日本で初めての武家法です。小学生で習う日本史の重要用語ですが、制定した3代執権北条泰時は偉大な政治家であるにもかかわらず影が薄く、御成敗式目のユニークな内容も残念ながらあまり知られていません。
しかしながら実は、御成敗式目が定められたからこそ、鎌倉時代はその後も続くことになりました。さらに、鎌倉幕府以後も続く武家政権は、御成敗式目の内容を基礎として国を治めようとしました。つまり御成敗式目は、その後の日本の歴史の根底を支えた法律なのです。
この記事では、御成敗式目に関する基本的な知識だけでなく、その内容や定められた歴史的な事情も解説しています。御成敗式目についてよく知ることで、約800年前の鎌倉時代の武士の生活の様子も垣間見ることができるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
御成敗式目とは
御成敗式目とは、1232(貞永1)年8月に3代執権北条泰時が定めた鎌倉幕府の基本法です。全部で51ケ条からなり、初代将軍源頼朝以来の慣習や武家社会の道徳をまとめた内容で、武家にのみ適用されました。多くの御家人に理解してもらえるように、平易な表現を用いて書かれています。この法典によって、北条氏の執権政治はより確かなものになっていくのです。
御成敗式目の名前の由来
「成敗」とは道理にあっているかどうかを裁決すること、「式」とは式条、「目」とは目録や条目の意味です。式目の内容が裁判の規範を示すものであったことから、この名前となりました。
貞永元年に制定されたので貞永式目とも呼ばれますが、この名称は後世につけられたもので、正式名称は「御成敗式目」です。51ケ条という数は、聖徳太子が定めた憲法十七条で取り上げられた条文の数である17の倍数に由来しています。
誰が定めたのか?
制定したのは3代執権北条泰時(やすとき)です。泰時は初代将軍源頼朝の義弟である北条義時の息子です。当時、朝廷の監視と西国の御家人統括のため、六波羅探題として弟の重時が京都にいました。泰時がその重時に宛てて、御成敗式目制定の趣旨を書いた1232年9月11日付の書簡が有名です。
御成敗式目は執権・連署(執権の補佐)・評定衆(重要な政務や裁判の評議・裁定を合議するための役職)の連名により発布されました。
当時の鎌倉幕府将軍は4代目の藤原頼経でした。頼経は源氏将軍が絶えた後、藤原家から迎えられた摂家将軍でした。頼経は遠縁ではあるものの源氏将軍と血縁関係にあり、妻は竹御所という源頼家の娘でしたが、頼経自身には政治権力はなく、実権は執権の北条泰時が握っていました。
北条泰時は「名執権」「北条氏中興の祖」として知られていますが、それは御成敗式目の制定や評定衆・連署の設置といった、鎌倉幕府の基本的な仕組みを整えたことが理由です。泰時の時代から執権政治も軌道に乗り始めました。
制定された背景
安定してきた鎌倉幕府政治
御成敗式目が定められることになった背景の一つは、鎌倉幕府の政治が安定してきたことです。初代将軍源頼朝の死後、源氏将軍たちによる身内での血みどろの騙し合い、御家人同士の争い、そして後鳥羽上皇による討幕の反乱である承久の乱と、混乱を極めていた鎌倉幕府政権でしたが、3代執権北条泰時の代になり、ようやく落ち着きを見せ始めてきました。
政治体制が整ってくると、規律をはっきりさせることが求められてきます。承久の乱後は東国の御家人が西国で地頭に任じられるケースも増えました。慣習というものは地域によって差があるため、そこに整合性が持てずに争いになったり、矛盾が生じるために困惑する事態が多く発生するようになったのです。
一応、法典としては朝廷が定めた律令格式も存在はしていましたが、朝廷でさえ律令に即した政治を行なっていない状況でした。内容も難しく、律令を知る人が限られていたため、規範にはなり得なかったのです。そのため、その土地の道理に従うといった漠然とした話ではなく、判断基準を明文化する必要に迫られたのです。
飢饉により争いが増えた
1230年代始めに、天候不順から全国的に大凶作となり、寛喜の飢饉が起きます。「天下の人種三分の一失す」と記録にあるほどの大飢饉で、鎌倉時代最大規模と言われています。
これによって農業は大きな打撃を受けました。御家人は年貢の取り立てを厳しく行うようになるだけではなく、土地の所有権をめぐる紛争も度々起きるようになり、地頭と荘園・公領の領主や御家人同士の対立も増えました。
北条泰時は、こうした土地をめぐる争いが増えて社会が混乱すると、土地を中心に封建制度を築いている鎌倉幕府は土台から崩れ、危うくなるかもしれないと懸念を抱きます。そこで幕府のはっきりした判断基準を早急に明確化しようと、御成敗式目を制定するに至るのです。